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『関心領域』 (ジョナサン・グレイザー)

※作品の内容および結末など核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。

『関心領域』を観て、思い出された映画がいくつかありました。なぜそれらの映画が連想されたのか理由を考えながら『関心領域』について考察できればと思います。


小津安二郎の映画、例えば『小早川家の秋』

まずルックですが、広角レンズが多用されています。最近ですと、例えばヨルゴス・ランティモスのそれが思い浮かびますが、同じ広角レンズでも使われ方が全く異なります。
監督本人が、スタンリー・キューブリックからの影響を公言していますが、『関心領域』での広角レンズによるルックは、その一点透視図法的な構図に似ています。

これは勝手な推測にすぎませんが、キューブリックは一点透視図法的な構図を狙っていたというよりも、広角レンズでのローアングルやハイアングル撮影で顕著になってしまう垂線の傾きを嫌ったのではないでしょうか。
垂線を傾きなしに描写するにはキャメラを水平アングルに構えればいいだけです。それだけで、あとはキャメラが(直方体の)空間/建造物の一面に正対すれば、自ずと奥行きの線は全て唯一の消失点に収束し一点透視図法的な構図になります。
つまりキューブリックにとって一点透視図法的な構図は、水平アングルによる結果にすぎず目的ではないという見立てです(「映画の中のティルト・シフトレンズ」という記事で詳述していますが、キューブリックは一点透視図法的になりようがないカットでも、垂線を垂線のままに描写するキャメラの水平にこだわっています)。

そして『関心領域』のジョナサン・グレイザーもまた、この水平アングルこそが重要だったのではないかと推察します。

広角レンズではありませんが、小津安二郎も垂線を垂線のままに描写すること、即ち、水平アングルにこだわりました。その小津が、『関心領域』を観ていて、一点透視図法的な構図という観点からは小津よりも似ているキューブリックを経由することなく想起されたのです。
というのも、人物の出入りが小津映画のそれを彷彿させたからです。


『関心領域』は、最大10台のキャメラを使い、テレビのリアリティー番組のようにフライ・オン・ザ・ウォール形式で撮影されました。とはいえリアリティー番組と異なるのは、頻繁に人物の出入り、部屋から部屋への移動を見せているところです。リアリティー番組であれば、被写体のドラマを感じさせない移動は、即、省略されるでしょう。
もちろん劇映画における描写とも異なります。通常の劇映画であれば、人の出入りは、その動線(人物/アクションをどう見せるか)に対して構図が決定されるからです。
『関心領域』では前述したようなわけで、その構図も人物(動線)本位ではなく空間本位にならざるをえません。ただし、リアリティー番組におけるような監視カメラ的な広角ハイアングルの構図は避けられていて、ほぼ水平アングルに統一されています。

では、小津映画における人物の出入りはどのようなものでしょうか。
例えば『小早川家の秋』がわかりやすいでしょう。小早川万兵衛(中村鴈治郎)が部屋から部屋へと頻繁に動き回ります。そこでのキャメラは人物を追うというよりも、人物が立ち入った空間に都度スイッチングされるような感じです。
小津の編集をリアリティー番組のスイッチングに準えるなどもってのほかとの声もあるでしょうが、『関心領域』を経由するとさほど的外れでもないように思われます。
もちろん、リアリティー番組のように複数台で撮影された映像をスイッチングするかのように編集された『関心領域』とは異なり、小津がキャメラを複数台使うことはありません。にもかかわらず『関心領域』の出入りが小津の出入りを彷彿させるのです。
なぜでしょうか。

小津映画の編集者、浜村義康の助手だった浦岡敬一は「小津先生にとっては出入りの間が大事で、それが狂うと全体のリズムが狂う。だから足が合わないということはどうでもよかったのかもしれない」と言っています。
人物の動きのマッチングを犠牲にしてでも、リアルタイムに繋ぐことが目指されていることがわかります。人物の主観的な時間(ドラマ)ではなく、空間から転写された等質な時間(まさにマルチカメラでスイッチングされるような時間)が優先されているのです。

小津が選びとるキャメラの位置は、かくして笠智衆一家の間取りを正確に描きあげる。それと意識することはなくとも、『晩春』を見るものは、この間取りをいかなる曖昧さもなく理解することができる。そして《《後期》》の小津的「作品」のほとんどすべてに、これに似た建築構造への厳密な配慮が認めうるのである。『麦秋』の場合、キャメラは一階の二間続きの日本間を中心に人物の動きを描きわけ、とりわけ、冒頭の出勤と登校前の慌ただしい朝食の光景を見ているだけで、菅井一郎と東山千栄子の老夫婦が、原節子の娘と共に二階暮らしの身であることを、すぐさま理解させる。階段は、廊下の奥の台所の手前の右側に位置しているようだし、玄関は、キャメラが庭を背景にして茶の間を捉えれば、画面の右手にあるはずだ。誰もが、この慎しい生活空間と親しく戯れ、そこを自由に歩きまわることが可能だとさえ思う。小津のレアリスムが要求する精緻な装置設計、そして有効なキャメラ・アングルのなせるわざだと人は嘆息する。これは、まるで《《本物の家》》のようなのだ。

蓮實重彦『監督 小津安二郎』

このようにして描かれる/強調されるのは、人物というよりも空間だということがわかります。水平アングルもこれに一役買っています。水平アングルによって可能になる垂線はスクリーンのフレームを反復(フレーム内フレーム)することで、その空間性を補強します。

『関心領域』が、強制収容所に隣接する所長一家の生活を描いているようでいて(もちろん描いているのですが)その隣接する所長一家の生活空間(zone)こそを描いていたことを考えると、小津が想起されるのもあながち不当とは思われないのです。

『エレファント』(ガス・ヴァン・サント)

コロンバイン高校銃乱射事件を題材にした『エレファント』は、最終的に乱射事件を描きはするものの、そこに至るまでの他の一日と何ら変わらない日常の描写がほとんどを占めています。にもかかわらず多くの観客の支持を得ました。
なぜでしょうか。
様々な理由があるでしょうが、少なくとも映画公開当時、コロンバイン高校銃乱射事件のことを知らない人はほとんどいなかったことがあるでしょう。
それが証拠に、『エレファント』と合わせて死の三部作と呼ばれるガールズバッド洞窟群国立公園で二人が迷子になり一人が死亡したというローカルな事件を基にした『ジェリー』、カート・コバーンの自殺前二日間を描いた『ラストデイズ』は、『エレファント』ほどの評価を得ていません。どちらの事件も一般にコロンバイン高校銃乱射事件ほどの認知度がなかったからではないでしょうか。
三作品とも実際の事件に着想を得て、極力ストーリー性を排して彷徨う登場人物を執拗にキャメラが追いかけるという手法はほぼ同じにもかかわらずです。

『関心領域』で描かれる/描かれないのは、観客周知のホロコーストという歴史的事実です。そして画として描写されるのは、所長一家の日常。
『エレファント』でも『関心領域』でも、観客は、登場人物の日常を見せられながら、描かれずとも、絶えず隣り合わせの非日常を意識せざるをえない構造になっています。それには観客周知の事実が必要なのも同じです。

『ラストエンペラー』(ベルナルド・ベルトルッチ)

ラスト、ルドルフ・ヘス (クリスティアン・フリーデル)が廊下の先を見遣ると、現在の博物館となったアウシュビッツの清掃シーンになります。
これは『ラストエンペラー』が、観光地となった現在の紫禁城を見せて映画を終わらせるのを彷彿させます。
そして『関心領域』ではアウシュビッツ収容所の外壁に隔てられた外側の生活を、『ラストエンペラー』では紫禁城の城壁に隔てられた内側の生活を描いていて、内外は逆転していますが、どちらもその越えられない壁こそが、それぞれの映画にとって重要なのは同じです。
ただし、壁の描かれ方は異なります。
『ラストエンペラー』では溥儀(ジョン・ローン)の一生がドラマチックに描かれ、紫禁城の城壁もまた比喩的な意味合い(ドラマ性)を帯びています。
一方、『関心領域』の収容所の外壁は文字通り空間を隔てる壁(空間性)となっているのです。


まとめ

アカデミー賞の音響賞を受賞したことからもわかるように、ホロコーストを見せずに聞かせるというアプローチが評価されていることを否定するつもりはもちろんありません。ただし、映画である以上、見せるものが必要で、何をどう見せるかが、そのアプローチの成否を左右するのだと思います。
その意味でドラマではなく空間を描き切った『関心領域』は、見事だったと思います。

追記 おすすめ記事

『関心領域』では、そこに間違いなくあったはずのホロコーストをあえて見せないことが戦略的に選択されている一方で、そこに間違いなくあったはずの《におい》は、特に理由もなく描写されていません。
この指摘は重要で、それは、ホロコーストを見せないことで(無視することとは異なり)見せる以上の何かが目指されている(それゆえ評価されている)語り口をある意味、裏切っているともいえます。
何食わぬ顔で生活するヘス一家をなぞるように、映画は何食わぬ顔で《におい》の描写を無視しているのです。


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