Great Directors Steal
Good artists copy, Great artists steal
今回は、スティーブ・ジョブズによってピカソからの引用だと人口に膾炙した「優れた芸術家はまねをする。偉大な芸術家は盗む(Good artists copy, Great artists steal)」について考えてみたいと思います。ただし、この格言はピカソだけでなく、ストラヴィンスキー、T・S・エリオット、フォークナーなど様々な偉大なアーティストの言葉としても知られていて、つまりオリジナルがあるとするなら、その他の偉大なアーティストたちは、格言どおり、それを盗んでいることになるわけです(その最たるアーティストがバンクシーでしょう)。
いずれのアーティストの言葉にせよ、格言の意味するところは変わりません。JJエイブラムスが、CopyとStealの違いを実例を挙げて説明してくれているので見てみましょう。
サメや怪物をまねる(Copy)するべきではなく、何かをまねるとしたら(これはもうCopyではなくStealだが)人物、大切なところをまねるべきである、と。
優れた監督は『ジョーズ』(スティーブン・スピルバーグ)からサメをまねて、例えば、『海底47m』(ヨハネス・ロバーツ)をつくります。しかし、コピーは、オリジナルを越えることのない相対的な優劣に留まります。
JJエイブラムスは、サメをまねて相対的に優れた監督を目指すべきではなく、父と子のシーンを盗んで偉大な監督になるべきだと言っています。
なるほど、JJエイブラムスの話はもっともらしいですし、もちろん、ピカソの格言もそうです。しかし、どのようにして(父と子のシーンを)盗めばいいのか、どのようにして盗めば(Steal)まねる(Copy)とは異なるのか、については教えてくれません。
そこで(父と子のシーンを)「盗む(Steal)」実例をあげ、「まねる(Copy)」との違いをハッキリさせましょう。
「盗む(Steal)」とは
まずは、スピルバーグ自身が『ジョーズ』の父と子のシーンを盗んだ『E.T.』(スティーブン・スピルバーグ)。
エリオット(ヘンリー・トーマス)とE.T.が、初めて心かよいあわせるシーンですが、それが、『ジョーズ』に同じく、一方がマネをして、他方がすすんでマネされようとする、という言葉のいらないコミュニケーションになっています。これがコピーではないのは、(E.T.と少年という)表向きからは(父と子という)オリジナルを想起できないことからも明らかです。しかしながら、スピルバーグも証言しているように、ラストでエリオットがE.T.に別れを告げるシーンは、両親の離婚を受け入れるメタファーなのですから、そもそもE.T.はエリオットにとって父親でもあるわけです。そう考えれば、これもまた父と子のシーンと言えるでしょう。
これが「盗む(Steal)」ということです。さらに実例をあげましょう。
『パリ、テキサス』(ヴィム・ヴェンダース)
もちろんこれもコピーではありません。ヴィム・ヴェンダースが『ジョーズ』を盗んだのかどうか、その影響関係を私は知りませんが、一方がマネをし、他方が喜んでマネをされようとする関係(父と子)は全く同じです。
そして、これも勝手な推測ですが、『パリ、テキサス』のこの(父と子の)シーンは、『晩春』(小津安二郎)の次の(父と娘の)シーンからも盗んでいるのではないかと思われます。
ヴェンダースが小津に心酔していたのは周知の事実ですから、こちらの方が信憑性がありそうです。そして、これもまたコピーではありません。オリジナルなのです。
では、そろそろ「盗む(Steal)」とは何か、決定的な言葉を述べましょう。と言っても、私の言葉ではありません。
“It’s not where you take things from – it’s where you take them to.”—Jean-Luc Godard
ゴダールは次のように言います。
「重要なのは君がどこから物事を持って来たかではなく、どこへ持っていくかだ」
つまり、どこからが問われるが「まねる(Copy)」、どこへが問われるのが「盗む(Steal)」ということでしょう。
最後に、優れたアーティストが「まねる(Copy)」『パリ、テキサス』を見て終わりにしましょう。
「まねる(Copy)」とは
『How They Get There』(スパイク・ジョーンズ)