映画における窓:『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』と『よこがお』
2020年度のベストをあげるとするなら『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(グレタ・ガーウィグ)は外せません。原作はルイーザ・メイ・オルコットの小説『若草物語』ですが、すでに何度も映画化されていて、有名どころでは、1933年のジョージ・キューカー版、1949年のマーヴィン・ルロイ版、1994年のジリアン・アームストロング版などがあります。それら先行作品に印象的だったのは、窓越しの画ではなかったでしょうか。
ジョージ・キューカー版
ただし1933年のジョージ・キューカー版で、窓越しにとらえられるのは、ジョー(キャサリン・ヘプバーン)が作演出した劇中劇でのエイミー(写真下:左)と、戸外のジョーが見上げる深窓の令息ローリー(写真下:中央)のみです。
ジョーは、一方(写真下:左)で、ロドリゴという「男」を演じ、城に幽閉されたエイミー演じる「お姫様」にセレナーデを奏で、その一方(写真下:右)で引きこもっているローリーを窓外から呼び出します。
幽閉された=自立できないヒロインをヒーローが助け出すという劇中劇のストーリーは、このようなジェンダー・ステレオタイプを否定しているはずのジョーその人によって書かれたものだというのが、いかにこのジェンダーロールが堅固なものか、を語る上で実に示唆的です。(のちの『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』におけるメタフィクションを予告しているかのようでもあります)
キューカーは、その旧態依然とした構図を、それに囚われながらも抗うジョーに鮮やかに反転させているのです(写真下:右)。
マーヴィン・ルロイ版
キューカーの計算された窓の使用とは異なり、窓越しの画を多用することで印象づけたのが、1949年のマーヴィン・ルロイ版です。ここで、キューカー版で採り上げたのと同じ最初の、ジョー(ジューン・アリソン)とローリー、二人の切り返しは、どちらも窓越しの描写に変わっています。
ルロイ版は、この改変だけでなく、四姉妹を窓枠で縁取り、映画『若草物語』での窓越しのイメージを決定的なものにしました。
ジリアン・アームストロング版
1994年のジリアン・アームストロング版になると、深窓の令息ローリー(POV)の切り返しは、窓越しの四姉妹になります。ルロイ版での窓越しの四姉妹のイメージがいかに印象的であったかがわかります。
この切り返しは、そのまま2018年のクレア・ニーダープルーム版でも(双眼鏡のPOVとして)踏襲されています。
グレタ・ガーウィグ版
さて、いよいよ2020年の『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』ですが、結論から言えば、もっとも窓越しのイメージに溢れる『若草物語』になっています。それらを一つ一つ列挙することはしませんが、グレタ・ガーウィグが窓越しのイメージをモティーフにしているのは間違いありません。それが証拠に、「具体的な」窓というモティーフは、枠物語という「抽象的な」構造に展開されます。これが素晴らしい。
映画における窓は、すなわち、フレーム(スクリーン)内フレーム(窓)です。
そして、単線的な物語展開であった先行作品とは異なり、ニューヨークで作家修行中の「現在」のジョー(シアーシャ・ローナン)が、7年前のボストンの我が家での「過去」を回想する複線的な物語構造もまた、フレーム(現在)内フレーム(過去)といえます。
さらに、この物語全てが、ジョー=オルコットが書いた『若草物語』であるというメタフィクション、すなわち、フレーム(結婚しないオルコット)内フレーム(結婚するジョー)になっているわけです。
具体的に見ていきましょう。フレーム(スクリーン)内フレーム(窓)は、前述のように様々な形で出てきますが、前半で優勢なのは、ローリー(ティモシー・シャラメ)が、窓を通して見るジョーであり、四姉妹であるという点です。つまり、先行作品が描いてきた、ジョーが深窓の令息ローリーを見るという構図が、ここで逆転しているのです(写真下:上・中)。
これは一見、キューカー版で描かれたジェンダーの転覆を再度ひっくり返す反動的な描写のようにも見えますが、そうではありません。そのローリーのショットに繋がれるのは、ニューヨーク(現在)のジョーなのです(写真上:下)。
つまり、窓にフレーミング(写真下:赤枠)されているジョーを見上げるローリーは、ジョーの回想、すなわち、ジョーによってフレーミング(写真下:黄枠)されているというわけです。
そしてその現在を、happily ever afterとフレーミング(写真下:青枠)するのは、作家としてのジョー=オルコット。
では、そのジョー=オルコットを窓枠でフレーミングしているのはいったい……
『よこがお』
一見『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』とは似ても似つかない作品ですが、深田晃司監督の『よこがお』でも、窓というモティーフが見事に展開されています。
面白いのは、前者で描かれた、ジョーの「現在」と「過去」との複線的な物語構造に同じく、『よこがお』も、市子=リサ(筒井真理子)の「現在」と「過去」を行き来する語りになっている点です。同じ主人公に、「現在」のリサの「よこがお」、「過去」の市子の「よこがお」という、いわば、窓=フレームを導入しているわけです。
さらに前者では、ラスト、ジョー=オルコットを、窓=フレームで切りわけるメタフィクションに展開させたのでした。先ほど語り落とした、ジョー=オルコットをフレーミングしているのは......の答えが、『よこがお』にあります。具体的に見ていきましょう。
市子が、基子(市川実日子)に復讐するため、基子の彼氏、和道(池松壮亮)の部屋を覗いていると、そこに基子が現れます。市子が復讐の相手を窓枠でフレーミングした瞬間です。
次に、基子の彼氏を寝とり復讐を遂げた市子が、かつてそこから復讐相手を窓枠でフレーミングした部屋を見る切り返しです。そこにフレーミングされているのは......
Enter the Void
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
フリードリヒ・ニーチェ
基子という怪物を窓枠でフレーミングしたつもりでいた市子は、その(切り返し)時、すでに、自らも窓枠にフレーミングされた怪物であることに気づいていませんでした。そして復讐を遂げた市子が/を見返すのは、自らをフレーミングしていた窓枠、否、深淵です。
『目には目を』では皆が盲目になってしまう
マハトマ・ガンジー
復讐が連鎖するのに同じく、フレーム内フレームもまた連鎖します。復讐の連鎖が結果、仮にそのような結果があるとして、皆を盲目にしてしまうように、フレームの連鎖の末、仮にその外/内があるとするならば、それは、深淵、void、無としか言いようのないものでしょう。
本来、映画は、観客を盲目にすること(『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』)、深淵が観客を見返すこと(『よこがお』)でしか、終えることができないはずなのです。
盲目にするにせよ、深淵に見返されるにせよ、まず、そこに深淵があるかのように観客を誘うフレームを描かなければなりません。決して深淵を描くのではないということがポイントです。なぜなら深淵など描きようがないから。蓮實重彦であれば「深淵というのはどこに映ってましたか」と訊くでしょう。映画の作り手が描くことができるのは、徹頭徹尾、フレームでしかありません。市子=リサが見るものとして描かれているのは、ただの窓枠にすぎないのです。
しかしながら、観客をして、それを深淵としか言いようのないものと言わしめる。それが映画の力であり、フレーム内フレームの力である、とそう締め括ってこの論考を終えたいと思います。
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