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レストランにネズミ。『レミーのおいしいレストラン』に見る新たなネズミのヒーローを誕生させようとしたディズニーピクサーの挑戦

一番好きなディズニー映画は?

映画が好きな人間はやっぱり自分の好きな映画を語りたいから、自分の好きな映画を語るがために、他人に好きな映画は何? と尋ねる。その質問に対して質問主が似非映画好きならバックトゥザフューチャーを、本当の映画好きならインターステラーと答える。

しかしその質問にプラスアルファ面倒くさいことを追加するヤツがいる。それが所謂ディズニー好き、Dヲタというヤツだ。

好きな映画を語るうえでの弊害というのはインターステラーの記事を見て欲しいのだが、わざわざ彼らはディズニーの映画限定という縛りを設けたうえで好きな映画を聞いてくる。

その際に私が答えるのは『レミーのおいしいレストラン(原題:Ratatouille)』だ。

キッチンにネズミ

この作品はとても賛否両論がわかれる。その理由こそキッチンにネズミがいるというこの物語の根幹に関わる仕掛けが、人々に受け入れにくいということだ。

本来その場にはありえない存在がいるからこそ、この物語で伝えたいことが引き立つのだが、その仕掛けがいささか強烈すぎる。

しかもミッキーマウスと違ってレミーは異様なほどにリアリティのあるネズミであることを、ある種強要されている。

ミッキーマウスは赤いズボンに白い手袋と全体像を見てもネズミと判断しにくい造形をしているのに対し、レミーはブルーアッシュの毛並みに、蚯蚓のような尻尾とまさに渋谷センター街で見られるようなドブネズミに少し砂糖をまぶしたような風貌をしている。

しかもレミーにはネズミ宜しく膨大な量な家族がいて、その家族が一堂に会し、何かを成し遂げようとする瞬間は、ネズミ嫌いからすれば悪寒どころか嗚咽が出るほどかもしれない。

劇中でもレストラングストーがピンチの際、レミーの家族が総出で料理をするシーンがあるが、それを見たヒロインのコレットが吐き気を催している。

本来ネズミというのはそういう立ち位置の存在であり、それを世界一のキャラクターにのし上げたウォルトディズニーの功績は凄まじい。しかしレミーは生憎その地位を築くには至らなかった。

レミーの料理の腕は確かだと言うのに、世間には認められない。まさに映画内で描かれている事実が現実にも波及していると言えるだろう。

適材適所という言葉のすばらしさ

その人にあった仕事をしようという意味でつかわれる適材適所。

この映画ではこの言葉がとてもよく活きるシーンがある。

まず最初に料理が滅茶苦茶できるネズミの話をしたが、次にもう一人の主人公を紹介したい。

それがアルフレード・リングイニだ。彼はグストーの元恋人の子供として登場し、雑用係として雇われることになる。しかし彼は自らの感情を抑えきれない面が多々あり、レストランの厨房で煮込まれていたスープを改悪してしまう。

レストランに働きながら、料理のセンスは皆無だということだ。

そこでレミーと出会い、レミーが彼の帽子の中に隠れ、コックピットさながら、彼の髪の毛を引っ張ることで彼の体を操作する。これでネズミ×人間の天才シェフの誕生というわけだ。

劇中終盤、色々あってレミーの家族全員がキッチンに、リングイニはウェイターとして店を回すことになる。リングイニは物語冒頭一流フレンチのスープをものの数秒で吐き気を催すほどのものに改悪したと言うのに、ウェイターになると、特技のローラースケートをふんだんに使い、一人で全席に座る客の配膳をそつなくこなして見せる。

リングイニには料理の才能はなくても、給仕としての才能があったというわけだ。

恐らくこの物語のテーマというのは後述する予定の、「誰もが偉大な芸術家になれるわけではないが、誰が偉大な芸術家になってもおかしくない」という言葉に集約しているのだが、このリングイニが給仕として覚醒するシーンもテーマに十分なりうると私は思っている。

日本の悪しき風習がもたらしたタイトル改悪

日本語版タイトルは「レミーのおいしいレストラン」であるこの作品だが、原題は「Ratatouille」となっている。

ラタトゥイユとはフランスの郷土料理の一つである野菜のトマト煮込みのことを差す。イタリアならカポナータ、スペインならピストという名前になる。

この物語の終盤、多くのレストランを自らの評論によって廃業に追い込んできた評論家アントン・イーゴに提供するのがこのラタトゥイユだ。

レミーがネズミ(rat)であることに掛けられている言葉遊びなのだが、日本語のタイトルはそのおしゃれさというものを全て蔑ろにしている。

なんなら物語の最後も最後、色々あってレミーとリングイニ、ヒロインのコレットで新たに開くビストロの名前が「La RaTaTouille」であるのも、この日本語タイトルだと感動の大きさが全然違う

映画配給会社やその関係者はレミーのおいしいレストランの方が日本人受けすると思ったのかもしれないが、タイトル回収という物語におけるかなり大きなカタルシスを消して何になるのだろうか。

進撃の巨人で、エレンの巨人の名前が進撃の巨人だと気付いた時に、驚き鳥肌が立った人間がどれだけいただろう。この映画においてはそれだけが本当に勿体ないと思う。

名言のオンパレード

私がこの映画を何度も見ているからかもしれないが、この映画には結構な数の名言が隠されていると思う。それをいくつか紹介したい。

『誰でも名シェフ』
世界で一番美味しい料理はフランス料理で、そしてフランス一美味しい料理を味わえるのがパリで、パリで一番美味しいレストランのシェフのオーグスト・グストーが書いたレシピ本のタイトルがこれだ。

この映画において「料理は誰にでも出来る」という世界一の料理人の言葉が呪いの様に多くの登場人物たちの行動を輝かせている。恐らくディズニーが言いたかったのは「料理」が誰にでも出来るという意味ではなく、どんなこともやろうと思えば誰にでも出来ると言う、人を後押しするためだろう。

この映画におけるヴィランの立ち位置にいる辛口評論家アントン・イーゴはその言葉から真っ向から対立し、物語冒頭一分あたりで「誰にでも料理が出来るわけがない」と彼の意見を全否定している。

グストーの言葉と、イーゴの主張。この二つがレミーとリングイニによってどんな答えに帰結するのか、それがこの映画の見所といっても良い。

独創的に、失敗を恐れず、何にでも挑みなさい。どこで生まれ育とうが、他人に限界を決めさせてはいけない。諦めなければ何でもできるのです。誰にでも料理はできますが、偉大な料理は勇気から生まれる。
同じくオーグスト・グストーの言葉。テレビで取材を受けていたグストーが残した言葉で、本来は人間に向かっての言葉だったが、キッチンにサフランを求めて盗みに来ていたレミーがたまたま聞いたことで、ただの体の良い言葉から意味のある言葉に変化した。

物語冒頭、ナレーションでレミーが自己紹介をするシーンがある。ネズミであることが故に生きることが大変だと自らの生まれに嘆くレミーだが、彼のこの言葉で「生まれ」というコンプレックスをある程度克服したのではないかと、個人的には思っている。

まあそのサフランを求めた勇気が故に「家」があんなことになるんだけど。

パリだ。僕ってずっとパリの地下に居たのか。
パリに到着したレミーのセリフ。色々あって最初にいた家を追い出されたレミーが下水を流れ、辿り着いた下水道で、家族を失ったことを嘆き、項垂れていた際、レミーが作り出した妄想のグストーから「後ろばかり振り返ってると前で待っているものに気が付かないぞ。さあ上に行って」と言われ、下水から家の屋根へと上り、エッフェル塔とパリの街並みを見て、この一言。

自分の気が滅入っていると、本来良い環境にいるはずの事実すらも、見えなくなってしまう。もちろん生きることにおいて腐る時間というのも大切だけど、腐り続けていると「前で待っているものに気が付けない」。

心機一転、下水から這い上がってみると、そこには最高峰の料理が集まる街パリがあったわけだ。

後ろばかり振り返ってると前で待っているものに気が付かないぞ。さあ上に行って。
先述した妄想グストーの言葉。もうレミーの言葉で充分語ったからあまり話すことはないけど、「前へ進め」ではなく、「上に行って」という言葉のチョイスに何か感じざるを得ない。

幸せの鍵は、選り好みしないこと。
レミーの兄、エーミールの言葉。その実、レストランにあった美味しい食材じゃなくていいから、腹に溜まるもんをよこせという意味なのだが、パリのシェフになりたいと願うレミーに感情移入してみていた私からすると、この現実が酷く夢のない言葉のように思えてならない。

選り好むから幸せになれない。エーミールにとって料理にはあまり価値がなく腹に溜まればゴミだろうと料理だろうと一緒だ。それを人間に昇華すれば、やりたい仕事でなくとも安定していた方が幸せだと、色々な人が言う公務員になりたい理由に似たものになる気がする。

もちろん公務員が悪いと言いたいわけじゃない。でも新卒サラリーマンを一か月で辞めて、ライターや自分の趣味に近い仕事で生きている自分からするとこの選り好みしないことで訪れる幸せというものの軽さというものを知っていると思う。

妥協して得られる幸せもある。どちらを選べばいいのか。それは私にもまだわからない。

父さんの前ではネズミのフリ、キッチンでは人間のフリ、話し相手が欲しいとあなたがいるフリ、あなたは僕の知っていることしか言わない。自分がだれかくらい知っているよ。それでもまだ誰かのフリを続けなくちゃダメなの?
リングイニと喧嘩して、かごタイプのネズミ捕りに引っ掛かり絶望しているレミーが妄想のグストーと口論した際に言った言葉。

レミーに限らず多くの人が、他人が期待する自分を演じているのは確かだろう。親の前では良い子供のフリ、上司の部下では話の分かる部下のフリ、同僚の前では適度に愚痴を零す同僚のフリ、恋人の前では恋人の恋愛観に遭う良い男、女のフリ。

本来の自分をさらけだす瞬間なんてほとんどないこの世界に飽き飽きした人間がレミーという奇妙な境遇に生まれた料理人を介して嘆いた言葉の様に思えてならない。

でもそのレミーの言葉に対する妄想グストーの言葉がこれ。

誰のフリもする必要はない。君は君だ。
妄想グストーはレミーの妄想であるが故に、レミーの言葉ともとれる。

自分の本来いるべき立ち位置というのはわかっているはずだけど、社会とか人間関係で曝け出すことの出来ない自分の本性や自分のやりたいことを心の底から楽しんでやってよいという後押しになる言葉。

劇中で言えば改めてレミーが料理人として生きていく覚悟を決めることになる。

ネズミじゃない。人間じゃない。料理人レミーとして。

レストランだよ、僕が助けなきゃ――僕は料理人だから
上のやり取りの後に自らを助け出してくれた父とエーミールに言うレミーの言葉。

ヒーローもので言えば僕が助けなきゃ――に続く言葉と言えば、僕しかいないからみたいなどちらかと言えば自己顕示欲的なものを感じざるを得ないような言い回しになる筈だが、レミーの場合は僕は料理人だからという言葉だった。

恐らく本来このセリフは「僕はレストラングストーの料理人だから」という意味なのだと思う。料理人だからレストランに行く。自分の力を過信して助けなきゃではなく、自分がレストラングストーの料理人――シェフであるからという自覚の元出た言葉なのだろう。

今迄は自分は腕の良い料理人だとわかっていたとしても、ネズミだから受け入れられるわけがないと自分で自分に対する諦めを抱えていたレミーだったが、自分(妄想グストー)との問答によって覚悟を決めたからこそ、この言葉が彼から紡ぎ出された。

だから次のシーンでレミーは殺される危険があるというのに、グストーの人間の料理人たちの前に自らの姿を晒している。

誰もが偉大な芸術家になれるわけではないが、誰が偉大な芸術家になってもおかしくない
レストラングストーでレミーの料理を食べたイーゴが書いた記事の言葉。

先述の通りイーゴはグストーの言葉に真っ向から対立していた。謂わば夢想と現実の衝突。

二人とも心の底から食を愛していることには変わりないが、グストーは生産者、イーゴは消費者という明らかに違う立場の関係からこのような意見の相違が生まれたのだと私は思う。しかしそれを和解させたものこそネズミの料理人、レミーであり、誰にでも偉大な芸術家になる可能性があると言うことを身をもって証明して見せた。

現実主義的なイーゴを改心させたレミーの素晴らしさを実感できる一言。

ディズニーヴィランを改心させるノスタルジア

私の記事では度々ノスタルジーという感情の凶悪さについて語る。

所謂郷愁というもので過去を懐かしむ感情のことを差す。

このレミーのおいしいレストランでもその郷愁について描くシーンがある。それが最後にレミーがイーゴへ振舞うラタトゥイユなのだが、そのラタトゥイユを食べた瞬間、イーゴは過去食べた母親のラタトゥイユを思い出し、批評用に持っていたペンを床に落とす。

劇中では詳細について明かされていないが、私はこの幼少期の瞬間がイーゴの食を愛する切っ掛けになったエピソードだと思っていて、所謂限定回帰のようなものがイーゴの元に訪れたのだろう。

もちろんレミーのラタトゥイユの美味しさもそうなのだが、イーゴの改心はこのノスタルジーが強く影響していると思う。

この映画を彩る美術と音楽

この映画における見所というのは先ほど紹介した名言やストーリーの良さであることは確かなのだが、その背景や音楽もかなり心打たれるものがある。

まずレミーとリングイニというネズミと人間という視点の位置が全く違う二人が主人公で出ているからこそ、ネズミの視点と人間の視点でのパリをふんだんに楽しむことが出来るだろう。

下水から壁の間、天井、机の下、屋根の上などレミーのサイズ感で見るパリも新鮮だし、リングイニの視点で映る色鮮やかな花の都パリだって最高だ。度々現れる窓や屋根から見るパリの夜景は、とても旅行欲を掻き立てられる。

そして一番の目玉はこの映画の劇中歌にもなっている『Le Festin』という曲。

フランス語で歌いあげられているこの曲を聞けば、眼前にパリを感じることが出来ると言うのは言い過ぎか。でもこの曲が劇中でとても良いところで流される。

サビに移る時の、歌手の甲高い歌声とポップでキャッチーなリズムは何度聞いても飽きない。作品と音楽がマッチしすぎていて、映画を見たらこの曲を聴きたくなり、この曲を聴いたら映画を見たくなるみたいな、本当に良い関係にあると私は思う。

バックトゥザフューチャーのメインテーマや、スターウォーズのメインテーマのように、この作品を象徴するに値する音楽と言おうか。

この作品にはあらゆる最高が詰まっている。私はそう思う。

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