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表面的なことに目を留めてはいないか Ⅱコリント人への手紙4:16-18

2024年4月14日 礼拝

Ⅱコリント人への手紙4:16-18

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

タイトル画像:rony michaudによるPixabayからの画像

はじめに


私たちは日々、様々な試練や困難に直面しています。そうした中、今回はその中でも特に重要な真理についてお話ししたいと思います。
今回ご紹介するⅡコリント人への手紙の言葉があります。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」

このパウロの言葉は、私たちが直面する困難や苦難に対して、新たな希望と力を与えてくれます。
私たちの人間的な弱さや困難にもかかわらず、私たちの霊的な成長や強さは決して失われることはありません。

また、現在の試練や悩みは、私たちの内なる人を磨き、測り知れない永遠の栄光をもたらす過程であることを忘れてはなりません。このような信仰を抱いた私たちは目に見える困難にとらわれるのではなく、永遠の価値と真実に目を向けることができるのです。

見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く。今、私たちはその永遠の価値に目を向け、内なる人に支えられて進んでいく時なのです。


実際の生活に苦悩したパウロ


前回までのあらすじを紹介しますと、パウロは、コリント教会の人々に対して、自分の使徒職の栄光を語る一方で、実際の姿は弱さと苦難に満ちていました。神から任命された使徒であるとしながらも、実際の彼の姿はどうであったのかといえば、パウロ自らが、肉体の「とげ」に苦しんでいました。その「とげ」は、彼の宣教活動に影響を与える大きな要因でした。人々はそうしたパウロが持つ「とげ」の姿を見てつまずきを覚えたようです。

 その「とげ」が具体的に何であったかについては諸説ありますが、それはおそらくパウロによる「高ぶることのないように」という神の目的を達成するための苦難であったと考えられています。

 古代のギリシャ・ローマ文化において、人間性完成のための教養としてギリシアの学芸を身につけることを重視し、人間性の普遍性を強調する立場がありました。ローマ文化では「フマニタス」と呼ばれる世界観が確立しており、これは「人間であること」を意味します。弱い人間たちが協力するとき人間の力が最大に発揮されるという考え方であり、教養が重要視され、文化の発展につながりました。

人間性完成の追求は、指導者に完全な人間像としての英雄が求められる時代であったわけです。そうした指導者像としての姿からすると、パウロの肉体の弱さはローマ文化の中心位置を占めていたコリントの人々の考えからすれば、使徒として、霊的リーダーとしての資質を疑わせるものであったことを前回の紹介したとおりです。

Ⅱコリント人への手紙 12:8
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

新改訳改訂第3版

このような苦悩の中、パウロは、主との祈りの対話の中で、「とげ」を通じて神の力が示されることを理解し、自らを土の器として神の栄光を明らかにする役割を受け入れました。

Ⅱコリント人への手紙4:7
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

新改訳改訂第3版

こうして、パウロは自分に課せられた「とげ」の意味を知り、それが人間にとってはつまずきとなるものが、実は、神の栄光を顕す原動力になるという真理を見出すに至ったのです。自らの苦難を通じて信仰を示し、信者にもその希望を訴えたのです。

前回取り上げたⅡコリント4章7‐15節のなかでパウロは、自分の苦難と弱さの中に神の計り知れない力が現れること、苦難の中で支えられることを伝えましたが、それは、同時にキリストのいのちと十字架をこの身に受けることを味わうとともに、やがてはキリストと同じく復活の恵みを受けることに等しいことであると教えます。

Ⅱコリント人への手紙
4:11
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

新改訳改訂第3版

受肉を経験したパウロ


Ⅱコリント人への手紙
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

新改訳改訂第3版

パウロは、自分に課せられた「とげ」が象徴する苦悩と艱難が、あたかもキリストの受難と重なるという点において、パウロ自身にキリストが受肉したというように私は考えます。

そもそも「受肉」とは三位一体の第2位格である永遠の神の御子であるイエス・キリストが歴史的人間性をとられたという独特無比な一回的出来事を表している神学用語です。

これは通常、キリスト教の教義において、神の御子が人間の形を取り、地上に生まれたという事実に限定される用語です。これは、神が人間の経験を共有し、人間の苦しみを理解するための手段であり、神と人間との間の隔たりを埋めるための重要なステップでした。

一方、パウロが自身の苦悩を「とげ」と表現したことは、彼が自身の困難を通じてキリストの受難を共有し、それによってより深い信仰の理解に至ったことを示しています。

パウロのこの経験は、彼がキリストの受肉を個人的なレベルで経験したと解釈することができます。キリストの受難が神と人との断絶を取り除いた仲保者としての役割を得たのと同様に、パウロも彼の「とげ」は、結果的に異邦人への伝道の力ともなり、異邦人を神に結びつける仲保者となる役割を担ったという点で共通するものでありました。

しかし、パウロがキリストの「受肉」を経験したと言うとき、それは文字通りの意味ではなく、象徴的な意味であるということに注意してください。つまり、パウロがキリストの受肉を経験したというのは、彼が自身の苦悩を通じてキリストの受難と復活の意味を深く理解し、それを自身の信仰の生活に取り入れたということを意味します。

したがって、パウロにキリストが「受肉」したと表現することは、神学用語の乱用と思われかねない危険性を含むと考える人もいるかもしれません。

しかし、それはむしろ、私たちが自身の信仰の過程で神の愛と恵みをどのように経験し、それがどのように私たちの生活に影響を与えるかを理解するための有用な視点を提供しているということです。

パウロが語る勇気


Ⅱコリント人への手紙
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

実際、神が受肉するというのは、神が肉体において生き、働くということであり、その実質において肉となり、一人の人間になるということを意味するものですが、神が我々に受肉するということの具体的な説明を16節で『ですから』と次のように結論しています。

受肉の直接的な意味は、神が人となられたイエス・キリストが、肉を裂き、血を流し、贖罪の死を遂げられたことにあるのはいうまでもありませんが、同時に、受肉によってキリストが、私たちと全く同じ人間になられたという連帯性が私たちの信仰にとって、とても大きな意味を持ちます。

神の御子であらられる救い主は、ただひとり栄光と賛美を受けるにふさわしいお方であり、私たちはただひれ伏して礼拝する以外ないお方であるのにもかかわらず、私たち人間と同じように生活し、困窮し、疲れも体験し、限りなく私たち人間と等しくなられ、しかも味方となり手本となられた救い主です。

そのイエス・キリストからの御霊が、いまやパウロの内にある。聖霊が私たちに宿っている限りパウロは、『勇気を失わない』という真理を見出したのです。

ここで、『勇気』と訳された部分は、ἐγκακοῦμεν(エグカコーメン)厳密には、『内面的な疲れを経験する結果、否定的な影響を受けることはない』という意味です。勇気とすると、積極的すぎる意味になりますが、本来のパウロの言葉によれば、勇気というよりも、たとえ心が折れるようなことがあったにせよ、そこでつまずくのではなく、むしろ、そのことが神の力をもたらすということです。つまり、神の支えによって歩むということです。

それが、パウロの語る勇気です。パウロは完全無欠な、勇気ある人間として捉える向きもありますが、決してそうではなく、自分の欠点に悩み、絶えざる迫害や艱難にさいなまれていた人物でした。

キリストも神でありながらも、人の苦悩や痛みを知っていたように、パウロは超人的な活躍を見せてはいましたが、内面は私たちと変わらない苦悩を持っていた人でした。たとえ心が折れても、彼が伝道に立つことができたのは、『上からの力』によるものでした。同じ苦しみを負ったキリストが傍らにいてパウロの伴走してくれた。それが、エグカコーメンであるということです。

新たにされる

『内なる人は日々新たにされています』と16節にあります。ここで、『新たにされています』という言葉は、ἀνακαινοῦται(アナカイノータイ)というギリシャ語から訳されたものです。アナカイノータイは、ある段階からより高いあるいは、より発展した段階へ移ることによって新しくなることを意味しています。

ですから、16節では、信じる者が肉体的に弱くなっていきますが、一方で神の刷新によって霊的に永遠にますます強くなっていくという、霊と肉が反することが同時に働く意味を示しています。神がキリストのうちに「新しい人」さらに新しくすることによって、常に信者が神のかたちに変容させることを指している言葉です。

衰えるという言葉は、ギリシャ語では、διαφθείρεται(ディアセイレタイ)。これは、完全に堕落する、徹底的に崩壊するといった意味を持つ言葉ですが、日々私たちの肉は、誕生から死に向かって崩れていく運命にありますが、神は新たな人(聖霊)を信仰によって与えてくれたことにより、体は朽ちていくと同時に、内なる人はますます神に近づいていくということになります。

死において完成する


Ⅱコリント人への手紙
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

新改訳改訂第3版

使徒パウロの弱さと苦難の歩みの行き着く先は死です。しかしその死さえも、神の恵みによって絶望ではありません。ここでは死を超える希望についてパウロは語ります。私たちは、物質的な存在としてだけではなく、魂を持つ存在として歩んでいます。そして、その歩みは死によって完成します。

艱難は死への象徴であり、一見すると恐ろしいものです。しかし、キリストと共に歩む私たちにとって、は永遠の救いの完成へと繋がる栄光なのです。苦難は確かに深刻な苦しみをもたらします。しかし、永遠の命という栄光の素晴らしさに比べれば、それは取るに足らない「軽い患難」とパウロは言います。

地上の苦難(艱難)は、そこに神の贖いのご計画(目的)があると神のみこころを信じる者にもたらされる『測り知れない、重い永遠の栄光』に比べれば、比較にならないほど軽いものだと言います。
パウロはここで、『測り知れない、重い永遠の栄光』ὑπερβολὴν εἰς ὑπερβολὴν(ヒュペルボレーン エイス ヒュペルボレーン)というようにヘブライ語の慣用句である、同じ言葉の繰り返しによって強さを表現することにならい、彼は同じ句を重ねて、とてつもない計り知れない栄光の感覚を表現しようとしているのが見て取れます。

たとえ私たちに艱難があったにせよ、信仰を持つ者には、キリストが私とともにおられますから恐れることはありません。

詩篇23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

ここが、信仰を持つ者の素晴らしさです。艱難に対して多くの人々は苦しみを「受け入れる」ために諦めるしかありません。しかし、クリスチャンは、人生の最も暗い時に、キリストの受肉を経験し、新たにされるという聖化を経験するものです。

こうして私たちは、状況の結果から常に切り離された状態でいる必要があります。 真の聖化というものは、状況が良い悪いに左右されず、喜びに基づくものであり、地上の状況という「結果」ではない神の恵みによって歩むものです。

具体的にいえば、肉体の老化や障害、不健康といった問題は、私たちの生活上における非常に大きな苦悩を私たちにもたらします。そこに私たちはしばしば目を留めてしまい、絶望へと心が傾いてしまうものです。

しかし、パウロは、こうした私たちの苦悩や苦しみにキリストの受難との共通性を見出し、そこにキリストの十字架が関わっているということを信仰によって知ったパウロは、肉体のトゲと呼んだ著しい障害をもっていたとしても、自分は内に働く『新たにされています』ἀνακαινοῦται(アナカイノータイ)という事実を発見したのです。

それは、死によって滅びるどころか、永遠の栄光の完成の時であることを示してくれました。その源泉はなにかと言いますと内に住まわれる『聖霊』の働きです。死は聖霊の力と永遠の栄光を明らかにし、艱難は聖霊の内住と助けを経験させてくれるものです。

古代ローマ社会は、結果や可視的な業績を重視し、人間性の完全性を追求しました。これに対して、使徒パウロが伝える福音は、その逆の視点を提供します。肉体が衰えていく過程で、それが終わりを意味するのではなく、むしろ、内在する霊が完全性に向かって進化していくという真理を強調します。これはクリスチャンの生き方を特徴づけています。私たちの希望は、可視的なものに依存するのではなく、見えないもの、すなわち霊的な真理に根ざしていることを私たちは見逃してはなりません。アーメン。

Ⅱコリント人への手紙
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


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高木高正|東松山バプテスト教会 代表・伝道師
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。