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人々に懇願する神—Ⅱコリント5章20節-6章2節

2025年3月2日 礼拝

Ⅱコリント人への手紙5:20-6:2

5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

タイトル画像:canva.com/

はじめに


 前回、私たちはパウロが語る「和解の福音」の本質について考えました。神はキリストにあって世界をご自分と和解させ、その和解のメッセージを教会に委ねられたという驚くべき真理を学びました。それは単なる概念としての和解ではなく、キリストの十字架と復活という歴史的出来事に基づいた確かな現実でした。

今回は、この和解の福音を委ねられた者としての使命と責任について、さらに深く掘り下げていきます。パウロはⅡコリント5:20-6:2において、「キリストの使節」としての自らの立場を明確にし、和解の福音に対する応答の緊急性を訴えかけています。この箇所は、神の和解の業と人間の応答という救いの物語の核心に触れる重要な教えです。

キリストの使節としての使命(5:20)


Ὑπὲρ Χριστοῦ οὖν πρεσβεύομεν ὡς τοῦ θεοῦ παρακαλοῦντος δι' ἡμῶν· δεόμεθα ὑπὲρ Χριστοῦ, καταλλάγητε τῷ θεῷ.

「 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」Ⅱコリント5:20

パウロは、20節の冒頭で「こういうわけで」οὖν(オウン)と書き出します。このオウンという接続詞は、「拡張して言えば、点と点がこのように結びつく」という意味になります。つまり、前節までの内容と今から展開される結論としての「使命」との密接な関係を強調する言葉です。

この「こういうわけで」と訳された(オウン)は、神の和解の業を宣言した直後に置かれることで、その真理を前提とした実践的な結論を導き出しているのです。神が成し遂げた和解の業は、必然的に「使節」としての使命をもたらすということをοὖν(オウン)という言葉は示しています。

次にここでパウロが用いる「使節」πρεσβεύω(プレスベウオー)という言葉は、古代世界において非常に重要な地位を表すものでした。「使節」と訳されていますが、英語ではアンバサダー(大使)を意味し、それは単に王のメッセージを伝える者ではなく、自分を派遣した権威ある王の完全な代理人としての役割を担う者を意味していました。ですからパウロを含め、使徒たちは神の威厳と権威を完全に体現し、神ご自身の言葉として受け止められるべきものだったのです。

パウロがここで「キリストの使節」と宣言していますが、彼は単に自分の考えや意見を述べているのではなく、キリストご自身の権威と威厳を持って語っているのです。「ὑπὲρ Χριστοῦ(ヒュペル・クリストゥ)」という表現は「キリストに代わって」「キリストのために」という意味を持ち、パウロの宣教活動がキリストの直接的な代理としての性格を持つことを示しています。

さらに注目すべきは、「神が私たちを通して懇願しておられる」という驚くべき表現です。原文の「ὡς τοῦ θεοῦ παρακαλοῦντος δι' ἡμῶν(ホース・トゥ・テウ・パラカルントス・ディ・ヒュモーン)」は、神ご自身が使徒たちを通して語りかけるという衝撃的な真理を表しています。ここでの接続詞「ὡς(ホース)」は、単なる比較や例えではなく、実際の現実を示しています。つまり、パウロが語る時、それは神ご自身が語っているのと同じだということです。

παρακαλέω(パラカレオー)という動詞は、単なる「勧める」以上の意味を持ちます。それは「傍らに呼び寄せる」「励ます」「慰める」παρακαλέω(パラカレオー)といった豊かな意味を含む言葉です。ここでは特に「懇願する」という切実な願いを表現しており、神の深い愛と熱意が伝わってきます。全能の創造主である神が、被造物である人間に「懇願する」というこの驚くべき真理は、神の無限の愛と謙遜を示すものです。

そして最後に、パウロは「神と和解してください」καταλλάγητε τῷ θεῷ(カタラゲーテ・トー・セオー)と直接的な呼びかけを行います。この命令形は、和解が単なる理論や教理ではなく、具体的な応答を求める真理であることを示しています。神はすでにキリストによって和解の基盤を築かれました。今必要なのは、人間がその和解を受け入れることなのです。

ここで興味深いのは、前節では「神がこの世を和解させた」という能動的な表現だったのに対し、ここでは「神と和解してください」という受動的な呼びかけになっている点です。これは、神の主権的な業と人間の応答責任という聖書の教えのバランスを見事に表現しています。和解は完全に神の主導によるものでありながら、同時に人間の自由な受容を必要とするのです。

義とされるための土台(5:21)


τὸν μὴ γνόντα ἁμαρτίαν ὑπὲρ ἡμῶν ἁμαρτίαν ἐποίησεν, ἵνα ἡμεῖςεθα δικαιοσύνη θεοῦ ἐν αὐτῷ.

「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」Ⅱコリント5:21

この節では、パウロは和解の神学的基盤について、簡潔ながらも深い説明を提供しています。これはパウロの十字架理解の中心的な表明であり、彼の和解の神学の核心を成すものです。

まず「罪を知らない方」τὸν μὴ γνόντα ἁμαρτίαν(トン・メー・グノンタ・ハマルティアン)という表現は、キリストの完全な無罪性(Impeccability:不可謬性)を強調しています。

ここでの「知らない」γνόντα(グノンタ)という言葉はギノースコーが原型ですが、その意味は「個人的な経験による知識」(A. T. Robertson)を意味し、すなわち関係性による知識を意味します。個人的な、直接的な知識(知覚、理解)を意味し、すなわち「個人的な経験に基づく」主観的な知識を意味します(J. Thayer)。

つまり、イエス・キリストは、罪という知識の欠如ではなく、罪との完全な無関係性、罪の経験の完全な不在を示しています。キリストは外側から見て罪がないというだけでなく、内面的にも完全に罪の影響を受けていない方であるという意味になります。

この「罪を知らない方」が「私たちのために罪とされた」ὑπὲρ ἡμῶν ἁμαρτίαν ἐποίησεν(ヒュペル・ヘーモーン・ハマルティアン・エポイエーセン)という驚くべき出来事が和解の中心にあります。ここでの「罪とされた」という表現は、キリストが実際に罪を犯したという意味ではありません。むしろ、彼が律法的・祭儀的な意味で「罪の捧げ物」となられたという意味です。

これは旧約聖書の犠牲制度、特にレビ記4-5章に描かれる「罪の捧げ物」を背景としています。罪の捧げ物においては、罪のない動物が罪人の代わりに犠牲とされ、罪人の罪が象徴的に動物に転嫁されました。キリストは、その完全な成就として、私たちの罪を担う「罪の捧げ物」となられたのです。

「ὑπὲρ ἡμῶν(ヒュペル・ヘーモーン)」「私たちのために」という表現は、キリストの死の代替的性格を強調しています。これは単に「私たちの益のために」という意味だけでなく、「私たちの代わりに」という代理的意味をも含んでいます。キリストは私たちが受けるべき罪の裁きを、私たちの代わりに受けられたのです。

そしてこの驚くべき出来事の目的は「私たちが、この方にあって、神の義となるため」ἵνα ἡμεῖς γενώμεθα δικαιοσύνη θεοῦ ἐν αὐτῷ(ヒナ・ヘーメイス・ゲノーメタ・ディカイオスネー・テウ・エン・アウトー)と表現されています。ここでの「義」は単なる属性や状態ではなく、神との正しい関係性を示しています。私たちは「神の義」とされる、つまり神との正しい関係に立つ者とされるのです。

注目すべきは、ここでパウロが単に「義とされる」ではなく、「義となる」と表現している点です。これは単なる法的宣言以上の、存在論的な変化を示唆しています。キリストにあって、私たちは実際に新しい存在へと変えられるのです。

また「ἐν αὐτῷ(エン・アウトー)」「この方にあって」という表現は、この義が私たち自身の業や功績によるものではなく、完全にキリストとの結合に基づくものであることを強調しています。私たちの義はキリストご自身であり、彼との結合によってのみ成り立つものなのです。

この節は、「罪」と「義」、「彼」と「私たち」の対比という修辞的構造を通して、贖罪の驚くべき「交換」を鮮やかに描き出しています。キリストは私たちの「罪」となることによって、私たちが神の「義」となることを可能にされたのです。この「交換」は、マルティン・ルターが「喜ばしい交換」と呼んだものであり、福音の核心を成す真理です。

神の恵みを無駄にしないために(6:1)


Συνεργοῦντες δὲ καὶ παρακαλοῦμεν μὴ εἰς κενὸν τὴν χάριν τοῦ θεοῦ δέξασθαι ὑμᾶς·

「私たちは神の協力者として、あなたがたに願います。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」Ⅱコリント6:1

 この節において、パウロは自らの役割をさらに発展させ、「神の協力者」Συνεργοῦντες(スネルグーンテス)と表現します。これは5:20の「キリストの使節」(プレスベウオー)という表現と並んで、パウロの使徒職の重要な側面を示しています。

「協力者」という言葉は、神との完全な同等性を主張するものではありません。むしろ、それは神の救いの計画における人間の役割の尊厳と責任を示しています。神は全能であり、人間の協力を必要としませんが、それでも人間を神の計画に与させるという恵みを与えられました。これは創造における「神のかたち」としての人間の尊厳の延長線上にある真理です。

「παρακαλοῦμεν(パラカルーメン)」「願います」という言葉は、再び5:20の「懇願」(パラカレオー)と呼応しています。これはパウロの訴えの切実さと緊急性を示す表現です。彼は単に情報を伝えるのではなく、魂の深みから発する熱意を持って訴えかけています。

パラカレオー(παρακαλέω)という動詞(そして「パラカルーメン」はその1人称複数形)の語源をたどると、まさに「傍らに立って(παρά/para=傍らに、そばに)」「呼びかける(καλέω/kaleo=呼ぶ)」という意味で構成されています。

この接頭辞「パラ」(παρά)は、まさに神と人間の位置関係について重要な示唆を与えています。神は高みから命令する方としてではなく、私たちの傍らに立ち、寄り添いながら呼びかける方として描かれているのです。これは神の姿勢の謙遜さと親密さを表しています。

この言葉は新約聖書において非常に豊かな意味を持ち、文脈に応じて「慰める」「励ます」「勧める」「懇願する」などと訳されます。特に「パラクレートス」(助け主、慰め主)として聖霊を表現する言葉も同じ語源から来ています。

Ⅱコリント5:20での使用は、神が上から命令するのではなく、キリストを通して、そして使徒たちを通して、人間の傍らに立ち、熱心に和解を求めておられるという神の態度を見事に表現しています。それは強制ではなく、親しい関係の中での切実な勧めなのです。

これは神の自己限定の思想とも深く結びついています。全能の神が人間と同じ目線に立ち、傍らから語りかけるという姿は、神の愛の驚くべき表現と言えるでしょう。

そして彼の訴えの内容は「神の恵みをむだに受けないように」μὴ εἰς κενὸν τὴν χάριν τοῦ θεοῦ δέξασθαι(メー・エイス・ケノン・テーン・カリン・トゥ・テウ・デクサスタイ)というものです。ここでの「むだに」εἰς κενὸν(エイス・ケノン)は「空しく」「効果なく」という意味です。神の恵みを「受ける」δέξασθαι(デクサスタイ)とは、単に知識として理解するだけでなく、心の深みでそれを受け入れ、人生をそれに従わせることを意味します。

このパウロの懸念は、コリント教会の具体的な状況に向けられています。彼らは福音を聞き、バプテスマを受けましたが、その生活は必ずしも福音に相応しいものではありませんでした。分派、不道徳、訴訟問題、偶像の肉をめぐる争い、礼拝の混乱など、彼らの教会には多くの問題がありました。

パウロはここで、単なる知的同意や形式的な信仰告白を超えた、真の福音理解と実践を求めています。神の恵みは単に罪の赦しをもたらすだけでなく、生き方の変革をもたらすものです。それを「むだに」するとは、恵みの変革的力を自分の人生に実現させることなく、古い生き方にとどまることを意味します。

この「神の恵みをむだに受けない」という訴えは、恵みによる救いという福音の核心と、その恵みに応答する人間の責任という緊張関係を示しています。救いは完全に神の恵みによるものですが、その恵みは人間の責任ある応答を求めるのです。

救いの日にある緊急性(6:2)


λέγει γάρ· καιρῷ δεκτῷ ἐπήκουσά σου καὶ ἐν ἡμέρᾳ σωτηρίας ἐβοήθησά σοι. ἰδοὺ νῦν καιρὸς εὐπρόσδεκτος, ἰδοὺ νῦν ἡμέρα σωτηρίας.

「なぜなら、神はこう言われるからです。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助けた。」見よ。今は恵みの時、見よ。今は救いの日です。」Ⅱコリント6:2

 最後にパウロは、イザヤ書49:8からの引用を通して、和解の福音に対する応答の緊急性を強調します。この引用は元々、捕囚からの解放とイスラエルの回復という文脈で語られたものですが、パウロはそれをメシアによる究極的な救済の成就として解釈しています。

まず注目すべきは、パウロがこの旧約聖書の引用を「神はこう言われる」λέγει γάρ(レゲイ・ガル)という表現で導入している点です。これは旧約聖書の言葉が神の直接の言葉として持続的な権威を持つことを示しています。古代の預言者を通して語られた神の言葉は、今なお現在形で語り続けているのです。

イザヤ書からの引用では、「恵みの時」καιρῷ δεκτῷ(カイロー・デクトー)と「救いの日」ἡμέρᾳ σωτηρίας(ヘーメラ・ソーテーリアス)という二つの表現が用いられています。これらは同義的並行法であり、同じ現実の二つの側面を示しています。神が人類の救済のために定められた特別な時、それが「恵みの時」「救いの日」なのです。

そしてパウロは、この引用の後に独自の解釈を加えます:「見よ。今は恵みの時、見よ。今は救いの日です。」ἰδοὺ νῦν καιρὸς εὐπρόσδεκτος, ἰδοὺ νῦν ἡμέρα σωτηρίας(イドゥー・ニュン・カイロス・エウプロスデクトス、イドゥー・ニュン・ヘーメラ・ソーテーリアス)。

ここで「見よ」ἰδοὺ(イドゥー)という感嘆詞が二度繰り返されることで、パウロの言葉に強い緊急性と重要性が加えられています。これは何気なく読み流すべきではない、注意を払うべき重要な宣言です。

また「今」νῦν(ヌン)という言葉も二度繰り返されることで、現在という時の決定的な重要性が強調されています。これは単なる時間的な「今」を超えて、キリストの到来によって開かれた救済史的な「今」、つまり「終わりの時代」の開始を意味しています。

興味深いのは、パウロが引用における「δεκτῷ(デクトー)」「受け入れられる」という言葉を、「εὐπρόσδεκτος(エウプロスデクトス)」「最も受け入れられる」という、より強い表現に変えている点です。これは現在の時代が、単なる「受け入れられる時」を超えた、特別に「好ましい時」「神の恵みが最も豊かに注がれる時」であることを示しています。

この「今」というメッセージには二重の意味があります。まず、歴史的・救済史的な意味では、キリストの到来によって開かれた「メシア的時代」「恵みの時代」という新しい時代区分を指しています。私たちは今、キリストの初臨と再臨の間の「終わりの時代」に生きているということです。

同時に、個人的・実存的な意味では、福音を聞き、応答するこの「今」という瞬間の決定的重要性を示しています。明日や来週ではなく、「今日」こそが救いの招きに応答すべき時なのです。これはヘブル書3:13の「今日、互いに励まし合いなさい」というメッセージと響き合うものです。

この「救いの緊急性」は、キリストの再臨が近いことを念頭に置いたものではなく、むしろ人生の不確実性と、福音への応答が持つ決定的重要性に基づくものです。今この瞬間こそが、神の招きに応答する唯一確実な機会なのです。

なぜ神は、人々に懇願するのか?


神がなぜ人々に懇願するのか。この問いは今回のメッセージの核心に触れる重要な問いかけです。「神が私たちを通して懇願しておられる」という表現には、宇宙の創造主と被造物の間の驚くべき関係性について述べられていることです。

全能の神が人間に懇願するという、一見ありえないような逆説的な構図は、まず第一に神の無限の愛を映し出しているということです。これは創造主が、被造物に対して単なる支配や命令によって従順を求めるのではなく、愛する者が愛する者に語りかけるような姿勢をもっているということです。

それは人を人として「自由意志を持つ尊厳ある存在」として創造されました。その尊厳を尊重するがゆえに、神は強制ではなく懇願という形で和解を求めておられるのです。

次の理由として、和解を求めていると19節にありますが、和解とは本質的に関係の回復です。真の関係というのは決して強制によって成立するものではなく、自由な応答を通してのみ実現します。神は私たちとの真実な関係を望んでおられるからこそ、命令ではなく懇願という形で呼びかけられるのです。これは神学的には「神の自己限定」としても理解できます。全能の神が、人間の応答の自由のために自らの力の行使を制限されるという神秘です。

これらは、神が人間を単なる自然物や機械的存在ではなく、自由な人格的存在として創造するために、意図的に全能の力を抑制されたという理解です。もし神が自然界に対するように人間にも全能を完全に行使されたなら、人間は真の自由を持つことはできず、神のかたち(イマゴ・デイ)を反映する人格的存在になれなかったでしょう。しかし神は人間を「自由な愛の主体」として創造することを選ばれ、そのために自らの力を制限されたのです。

これらの神学的洞察は、Ⅱコリント5:20で神が人間に「懇願される」という驚くべき表現を理解する上で重要な鍵を提供します。全能の神が被造物に懇願するという逆説は、創造の時から一貫して見られる「神の自己限定」の原理の延長線上にあるのです。神は創造において自らを限定されただけでなく、救済の過程においても同様に自らを限定し、人間の自由な応答を尊重されます。

神が懇願するという行為は、単なる修辞的表現ではなく、神の本質的な在り方—自らの全能性を限定することで、人間との真の関係性を求める神の愛—を表しているのです。これは神の弱さではなく、むしろ神の愛の最も崇高な表現と言えるでしょう。

このような神学的視点から見ると、キリストの十字架は神の自己限定の究極的な表現と理解することができます。全能の神が、自らを限定し、弱さと脆弱性を受け入れること――キリストが神としてのあり方を捨て人となられたことで――人間の救いを成し遂げられたのです。神の自己限定は、創造から贖罪に至るまで、一貫した神の愛の原理として働いているのです。

和解の障壁は確かに神の側ではなく、人間の側にあります。神は自らの全能性を抑制することで、人間に歩み寄ってくださいました。もし神がその全能性を完全に発揮するならば、和解を「懇願する」必要など全くないはずです。神はただ命じるだけで十分でしょう。

しかし聖書が描く神の姿は、権威を振りかざして従順を強制する支配者ではなく、愛をもって人間の自由意志を尊重し、応答を待つ方です。これこそが「神が私たちを通して懇願しておられる」という驚くべき表現の真意でしょう。

神はすでにキリストの十字架において和解のための完全な基盤を整えられました。これは神からの一方的な愛の行為であり、人間の側からの何らかの貢献によるものではありません。障壁となっているのは人間の罪と高慢さ、神に対する誤解や反抗です。

神が懇願されるという事実は、神の弱さではなく、むしろ神の愛の深さと人間の価値を示すものです。全能の創造主が被造物に懇願するという逆説は、聖書の啓示の中でも最も驚くべき真理の一つと言えるでしょう。

Ⅱコリント5:20-21の文脈はまさにこの点を強調しています。私たちが「神の義」となるために、神は「罪を知らない方を、私たちのために罪とされた」のです。これは神の側からの一方的な恵みの行為であり、人間に求められているのはただこの恵みを受け入れ、神との和解に応じることだけなのです。

この懇願にはまた、緊急性がともないます。「今は恵みの時、今は救いの日」という言葉が示すように、神の懇願には決断の時が設定されています。この招きを無視したり先延ばしにしたりすることには、取り返しのつかない危険が潜んでいるのです。

最終的に、神の懇願は神の愛の測り知れない深さと、その愛に応答する人間の自由と責任の重さを同時に映し出す恵みの奇跡です。創造主が被造物に懇願するという驚くべき逆説は、福音の核心にある神の愛の本質を雄弁に物語っているのです。

今こそ救いの時


 今日、私たちは二千年前のパウロの言葉を通して、いまこの瞬間も迫り来る神の招きに耳を傾けました。「キリストの使節」としてのパウロの情熱的な訴えは、心を揺さぶります。これは古びた羊皮紙に記された遠い過去の言葉ではなく、今この瞬間にも鼓動する神の生きた言葉として覚えていただきたいことです。

「神と和解してください」—この切迫した五つの言葉の中に、宇宙の創造主が今、あなたに差し伸べる愛の手があります。これは冷酷な命令でも、威圧的に強制するでもありません。むしろ、あなたの傍らに寄り添い、目をじっと見つめながら、深い愛と切なる願いから発せられた懇願の言葉です。まるで長い間離れ離れになった家族が、「もう帰っておいで」と涙ながらに呼びかけるように、神はあなたを今呼びかけている言葉です。

この和解の基盤は、5:21に描かれる贖罪の驚くべき「交換」にあります。「罪を知らない方」が「私たちのために罪とされた」という衝撃的な現実。これは単なる感傷的な物語ではなく、宇宙的な正義と愛が奇跡的に調和した神の知恵の極致です。その十字架で流された血は、今もなお「戻っておいで」と叫び続けています。

「今」—この一言に特別な緊急性と恵みが込められています。「見よ。今は恵みの時、見よ。今は救いの日です。」この言葉は、古代のコリント教会の信徒だけでなく、あなたに、今日、この瞬間に向けられています。明日は約束されていません。ましてや次の呼吸すら確かではありません。神は「いつか」「そのうち」ではなく、「今」あなたを呼んでおられるのです。生きているこの瞬間こそが、救いを受け入れる唯一の確かな時です。

あなたが今直面している選択は、明確かつ緊急なこととして覚えていただきたいのです。神の恵みを「むだに受ける」か、その恵みに心を開き、今すぐ生き方を変えていくか。これは単なる頭の理解や教理への同意ではなく、イエス・キリストを自分の救い主として信じるかどうか――それが、死後裁きに会い天国へと誘われるのか、罪のために地獄に投げ落とされるのかを決める大きな結果をもたらす決断です。その決断は今、すべての人に求められています。

この選択の重要性は、私たちの時代――世の終わりが確実に近づきつつあるこの現代においてさらに増しています。分断と憎しみ、孤独と不安が深まる世界の中で、和解のメッセージはいのちの水のように渇望されています。私たちクリスチャンは「キリストの使節」として、この和解の緊急メッセージを人々に託されているのです。

「神の協力者」として、私たちは自らの弱さを認めつつも、神の恵みに頼って今この使命を果たしていこうではありませんか。それは安全な教会の壁の中だけの活動ではなく、今日の家庭、明日の職場、学校、そして社会のあらゆる場所での具体的な和解の実践です。それは口先だけの言葉ではなく、今日から始める行動と真実をもって示される愛の生き方なのです。

「見よ。今は恵みの時」—この言葉を心に刻みながら、この瞬間から、神の和解のわざに参与する特権と責任を果たしていこうではありませんか。明日ではなく今日、後ではなく今、この瞬間に。

ハレルヤ!アーメン!

「キリストの使節」としての私たちの使命


この「神が私たちを通して懇願しておられる」という真理の光を、今日の私たち自身の生活と使命に適用してみましょう。

1. 神の和解のメッセージを生きる

パウロが「キリストの使節」として語ったように、私たちも同じ使命を帯びています。私たちは単に教理を守る者ではなく、生きた和解のメッセージそのものとなるよう招かれています。家庭や職場、学校、地域社会の中で、分断を癒し、和解をもたらす者となりましょう。誰かと衝突や対立があるなら、率先して和解の手を差し伸べることで、この使命を実践できます。

2. 神の自己限定に倣う謙遜さ

全能の神が自らを制限し、私たちの傍らに立って懇願されるという謙遜な姿に、深い感動を覚えずにはいられません。この神の姿に倣い、私たちも他者に対して権威や力を振りかざすのではなく、寄り添い、共に歩む謙遜さを持ちましょう。特に信仰を持たない人々と接する時、強制や押し付けではなく、愛と尊重を持って接することが大切です。

3. 「今」という時の重要性を認識する

「今は恵みの時、今は救いの日」というパウロの言葉は、私たちに「今」この瞬間の大切さを教えています。明日は約束されていません。今日という日を、神との関係を深め、与えられた使命を果たす貴重な機会として大切にしましょう。心に感じる神の促しがあれば、「そのうち」と先延ばしにせず、今行動することを決意しましょう。

4. 神の恵みを「むだに」しない生き方

神の恵みを「むだに受けない」とは、恵みによって変えられた新しい生き方を実践することです。日々の選択において、「この決断は神の恵みを反映しているだろうか」と自問するよう心がけましょう。恵みは単に赦されるためだけでなく、変えられるためにあることを忘れないでください。

5. 和解のメッセージを他者に伝える

最後に、私たちは「和解のことば」を委ねられた者として、この素晴らしい福音を他者と分かち合う責任があります。身近な人々に、言葉と行動を通して神の和解の福音を伝える具体的な機会を求めましょう。それは大げさな説教である必要はなく、日常の会話や親切な行動を通して自然に行うことができます。

これらの適用を通して、私たちが真に「キリストの使節」として生き、神の和解の恵みを世界に示す者となれますように。今日から、この召しに応える決意を新たにしましょう。

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高木高正|東松山バプテスト教会 代表・伝道師
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。