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恵みの時を生きる ―いちじくの木のたとえが問いかけるもの
イエスのたとえ話シリーズ No.18「実をつけないいちじくのたとえ」
2024年11月3日
ルカによる福音書13:1‐9
13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)
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はじめに
今日のみことばは、ぶどう園に植えられたいちじくの木のたとえ話です。一本の木についての、一見シンプルな物語ですが、その中に私たちの信仰生活の本質に関わる深いメッセージが込められています。
実は、このたとえ話は非常に緊張感の高まった状況の中で語られました。人々は、ガリラヤ人たちが神殿で殺された悲劇や、シロアムの塔の崩落で18人が命を落とした事故について、イエスに報告していました。そこには『なぜ、このような悲劇が起きたのか』という切実な問いがありました。
しかし、イエスはこれらの出来事を特定の人々の罪と結びつけることを否定されました。むしろ、『あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びます』と語られたのです。そして、その意味をより深く理解させるために、このたとえ話を語られました。
3年間実を求められ、なお実のならないいちじくの木。切り倒そうとする主人と、もう1年の猶予を求める庭師。この物語は、私たちの信仰生活の現実を鋭く映し出し、同時に神様の忍耐深い愛と期待を示しています。
このみことばに共に耳を傾けながら、私たちの信仰生活を振り返り、神様が期待される実とは何か、そして与えられている恵みの時をどのように生きるべきかを、ともに考えていきたいと思います。
実を求められる私たち ――いちじくの木のたとえが問いかけるもの
今日のみことばは、ぶどう園に植えられたいちじくの木のたとえ話です。一見シンプルなこの物語は、しかし、非常に緊張感の高まった状況の中で語られました。
それは、二つの衝撃的な出来事が報告された直後のことでした。一つは、ガリラヤ人たちが神殿で犠牲をささげている最中に、ピラトによって殺され、彼らの血が捧げものと混ぜられたという悲劇でした。もう一つは、シロアムの塔が崩れ落ち、18人もの命が一度に失われたという事故でした。
ガリラヤ人殺害の知らせ
いちじくの木のたとえは、非常に緊張感の高まった状況の中で語られました。
その直前、人々はイエスのもとに衝撃的な知らせを持ってきました。ガリラヤ人たちが神殿で犠牲をささげている最中に、ローマ総督ピラトの命令によって殺され、彼らの血が捧げものと混ぜられたというのです。この出来事は、当時のユダヤ社会が置かれていた危機的な状況を如実に表しています。
特にガリラヤ地方は、反ローマ的な傾向が強い地域として知られていました。「ガリラヤ人」という呼称自体が、しばしば反乱分子や過激派と同義に用いられるほどでした。ユダの反乱に代表されるように、この地域からは度々反ローマ運動が起こっており、ピラトにとって、ガリラヤ人たちは常に警戒すべき存在だったのです。
ピラトは、その冷酷な統治で知られていたローマの総督でした。一方、ガリラヤ人たちは特に信仰に熱心で、時として反ローマ的な態度を示すことでも知られていました。神殿での礼拝という最も神聖な行為の最中に起こったこの暴力的な弾圧は、ローマに従わない者はこのような目に遭うという見せしめでもありました。つまり、宗教と政治が複雑に絡み合った当時の社会状況を象徴する出来事でした。
ユダヤ教の一神教という特異性が、ローマとの関係をより複雑にしていました。ローマ帝国は一般的に被支配地域の宗教に対して寛容な態度を示していましたが、ユダヤ教は特別な課題を提示しました。唯一神信仰を徹底し、皇帝礼拝を拒否するユダヤ人たちへの支配に手を焼くローマ帝国。神殿祭儀の独立性を主張し、律法に基づく独自の生活様式を固持する彼らの姿勢は、ローマの統治方針と根本的に衝突するものでした。
1節で「ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。」と書かれていますが、ある人々がイエスのもとにピラトによるガリラヤ人殺害の件を報告したとき、そこには政治的な意図が込められていたと考えられます。それは単なる悲劇的な出来事の報告以上の意味を持っていました。
当時、ガリラヤはヘロデ・アンティパスの支配下にありました。一方、エルサレムはローマ総督ピラトの直接統治下にありました。ルカの福音書は、この二人が「仲が悪かった」と記しています。後にイエス・キリストが十字架刑に処せられる前に、ルカ28:12で「この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」とあります。
ヘロデ・アンティパスとポンテオ・ピラトは、元来深い対立関係にありました。ガリラヤ地方の支配者ヘロデと、ローマ帝国を代表するユダヤ総督ピラトは、権限と影響力を巡って常に緊張関係にあったのです。先のガリラヤ人殺害事件も、このような対立関係から生まれた悲劇の一つでした。
しかし、イエスの裁判の過程で、この二人の関係は思いがけない展開を見せます。ピラトは、イエスがガリラヤの出身だと知ると、ちょうどエルサレムに滞在していたヘロデのもとへ送りました。一見、責任回避のように見えるこの行動は、実は巧妙な政治的判断でした。
ヘロデは当初、イエスとの対面を楽しみにしていました。その評判は広く知れ渡っており、何か興味深い奇跡を見られるのではないかと期待していたのです。しかし、イエスはヘロデの前で一言も語りませんでした。失望したヘロデと兵士たちは、イエスを侮辱し、見せかけの王衣を着せて、ピラトのもとへ送り返します。
この出来事を通じて、それまで敵対していた二人の権力者は和解します。両者は、イエスという「共通の敵」を前に、互いの立場を尊重し合うようになったのです。ピラトはヘロデの司法権を認め、ヘロデもまたピラトに最終判断を委ねました。民衆の扇動を抑え、既存の支配体制を維持するという共通の利害が、二人を結びつけたのです。ガリラヤ人たちが神殿で殺害されたという事件は、このような政治的緊張関係の中で起きた出来事でした。
シロアムの塔の崩壊
一方、シロアムの塔の崩壊の事故は、当時のエルサレムで起きた痛ましいニュースでした。18人もの命が一度に失われた衝撃的な出来事でした。シロアムは、エルサレムの重要な水源地であり、キドロンの谷とテュロポイオンの谷が交わる場所に位置していました。そこには人工的な水路があり、複数の貯水池が連なっていました。
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特に重要なのは、この塔の建設がピラトの水道工事計画の一部であった可能性です。ピラトは神殿の聖なる献金(コルバン)を流用してこの工事を進めようとしており、それは多くのユダヤ人の反感を買っていました。彼らにとって、神聖な献金を世俗の工事に使うことは冒涜的な行為でした。
このような背景があったからこそ、人々はこの事故を単なる不慮の出来事としてではなく、神の裁きのしるしとして解釈する傾向がありました。塔の下敷きになって亡くなった18人は、特別な罪を犯したから、このような死に方をしたのだと考えられたのです。
しかし、イエスはここでも人々の解釈を正されます。「彼らがエルサレムに住む他の人々よりも罪深い者だったと思うのですか」という問いかけは、人々の思い込みに真っ向から挑戦するものでした。
イエスの指摘は二つの重要な真理を含んでいます。
災難や事故は、必ずしもその犠牲者の特別な罪の結果ではない
むしろ、そのような出来事は全ての人に悔い改めを促すしるしとして受け止めるべきである
このメッセージは、続くいちじくの木のたとえと深く結びついています。私たちは他者の不幸を裁きの目で見るのではなく、自分自身の霊的状態を吟味する機会として受け止めるべきです。――自分もその犠牲者になる可能性があるという認識を持つべきことです。
また、実を結ばない木とは、他人ではなく自分であり、この自分にこそ与えられている猶予の期間であることを学ぶべきことです。それはまさに悔い改めと新生のための恵みの時なのです。
なぜピラトはユダヤ人を挑発したのか
この2つの事件には、共通点があります。そこには、ローマ帝国の総督ピラトの陰謀が垣間見えます。ピラトは、この2つの事件の背後に、ユダヤ人に対する度重なる挑発的行為がありました。
このような状況の中で、ピラトは対話ではなく、力による威圧的な統治を選びました。神殿の献金(コルバン)を水道工事に流用したことは、その典型的な例です。これは単なる経済的な必要性からではなく、ユダヤ人の宗教的自治への介入であり、彼らの権威への意図的な挑戦でした。
そして、神殿で礼拝中のガリラヤ人たちを殺害し、その血を捧げものと混ぜ合わせるという行為。これは最も神聖な場所と時を選んでの暴力行為であり、最大限の衝撃を与えることを意図した見せしめでした。それは反抗的な態度への警告であり、ローマの権力を誇示する行為だったのです。
このような弾圧は、ユダヤ人社会に深い傷跡を残しました。それは単なる政治的な抑圧以上の、信仰の本質に関わる挑戦として受け止められたのです。イエスがこのような状況の中でいちじくの木のたとえを語られたことは、重要な意味を持ちます。それは政治的な抵抗や報復ではなく、より本質的な霊的刷新への招きでした。外からの圧迫に対して、内なる悔い改めと実りある信仰生活こそが、真の応答であることを示されたのです。
人々は、この深刻な事態についてイエスの見解を求めました。彼らはおそらく、ピラトの暴虐への非難や、ヘロデの対応への評価、さらには抵抗の正当性についての判断を期待していたでしょう。また、これらの出来事を神の裁きとして解釈し、どのような政治的・宗教的対応を取るべきかの指示を求めていたのかもしれません。
しかし、イエスの応答は人々の期待とは全く異なるものでした。イエスは政治的な判断を下すことも、抵抗や報復を促すこともありませんでした。代わりに、「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びます」という、より本質的な問題を提起されたのです。
そして、続くいちじくの木のたとえを通して、外的な状況への対応ではなく、内なる霊的刷新の必要性を説かれました。それは、政治的な解決策を示すのではなく、一人一人が神との関係を見直し、真の実りを結ぶ者となることへの招きでした。
このイエスの応答は、当時の人々にとって意外なものだったかもしれません。しかし、それは今日の私たちにも重要な示唆を与えています。政治的な問題や社会的な課題は確かに重要です。しかし、より本質的なのは私たち一人一人の神との関係であり、その関係から生まれる実りなのです。
たとえ話に込められた意味
このたとえ話には、一見シンプルでありながら、深い霊的な意味が込められています。登場する三者―ぶどう園の主人、いちじくの木、そして庭師――は、それぞれが重要な象徴的意味を持っています。
まず、ぶどう園の主人は神様を表しています。聖書において、ぶどう園は一貫してイスラエルを象徴する重要な比喩として用いられてきました。その園の所有者である主人は、被造物に対して実りを求める創造主なる神様の姿を映し出しています。主人は3年もの間、忍耐をもって実を求め続けますが、同時に実を結ばない木に対しては厳しい判断を下します。これは、恵み深く、同時に義なる方である神様のご性質を表しています。
次に、いちじくの木は私たち一人一人を象徴しています。この木は神の園に植えられ、養われ、実を期待される存在です。いちじくの木は当時のパレスチナ地方で重要な果樹でした。その価値は、実を結ぶことによって証明されます。同様に、私たちも神様から実りを期待されている存在なのです。
そして、注目すべきは庭師の存在です。これはイエス・キリストを表しています。切り倒そうとする主人に対して、もう一年の猶予を求めて執り成す姿は、私たちのために父なる神の前で執り成してくださるキリストの働きを予表しています。庭師は単に待つだけでなく、土を掘り起こし、肥料をやるという具体的な働きかけを提案します。
ここで語られる「3年間」という期間は、イエス・キリストの公生涯と重ね合わせて理解することができます。キリストは約3年間、イスラエルの民の間で精力的に働かれました。力強い教えを語り、数々のしるしを行い、神の国の福音を宣べ伝えられました。それは、実を求めて来る主人の姿と重なります。
この3年間は、十分な機会として与えられた時でした。キリストは様々な方法でイスラエルの民に働きかけられました。説教を通して、奇跡を通して、また個人的な出会いを通して、人々を悔い改めへと招かれました。しかし、多くの人々は、待ち望んでいたはずのメシアを認めることができませんでした。
そして、庭師が求める「もう1年」は、十字架へと至る最後の期間として理解することができます。それは特別な恵みの時であり、さらなる機会として与えられた期間でした。庭師の具体的な働きかけの提案は、キリストによる最後の執り成しの業を表しているのです。
恵みの時としての今
このたとえ話の中で、庭師は切り倒されようとする木のために執り成します。「もう一年だけ待ってください。私が土を掘り起こし、肥料をやります」。この言葉には、キリストの深い愛と具体的な働きかけが表されています。
キリストは今も、私たちのために執り成してくださっています。それは単なる形式的な取り次ぎではなく、具体的な養いを伴う働きかけです。土を掘り起こすという行為は、私たちの頑なな心を柔らかくする働きを象徴しています。また、肥料を与えることは、信仰が成長するために必要な養分の供給を表しています。
この養いは、様々な形で与えられます。みことばによる励まし、祈りを通しての力、交わりにおける支え合い、奉仕の機会を通しての成長――これらは全て、キリストが私たちに与えてくださる具体的な養いなのです。時には試練を通しても、私たちの信仰は深められていきます。
しかし、この恵みの時は永遠ではありません。「もう一年」という期限付きの猶予には、決断の緊急性が示されています。与えられた機会を活かすかどうかは、私たち一人一人の応答にかかっています。
では、私たちはこの恵みの時にどのように応答すべきでしょうか。それは単なる決意表明や感情的な応答ではなく、具体的な実践を伴う歩みでなければなりません。例えば以下のような実践が求められます。
みことばに深く根ざした生活
祈りを通しての神との交わり
交わりにおける愛の実践
与えられた賜物による奉仕
日々の生活における証し
これらの歩みは、決して重荷としてではなく、神の恵みへの応答として始められるべきものです。キリストが執り成し、具体的に働きかけてくださるからこそ、私たちも具体的に応答することができるのです。
今という時は、特別な恵みの時です。切り倒されるべき運命にあった木に、新たな機会が与えられたように、私たちにも悔い改めと変革の機会が開かれています。しかし、この機会は永遠ではありません。「もし実を結ばなければ、切り倒してください」という言葉は、決断の緊急性を示しています。
形式的な信仰生活に満足することなく、真の実りを求めて歩み出す時、それが今なのです。キリストの執り成しと具体的な働きかけに応答して、実り豊かな信仰生活を始めることができますように。主の恵みの時を、私たちは決して無駄にしてはならないのです。
恵みの時を生きる
私たちはいちじくの木のたとえを通して、神様の深い願いと期待を見てきました。それは決して厳しい要求ではなく、私たちがより豊かな実りある人生を生きるようにという愛の招きでした。
形式的な信仰生活は、一見安定しているように見えます。教会に通い、礼拝を守り、祈りの時を持つ―――これらは確かに大切な実践です。しかし、たとえ話の中のいちじくの木が教えてくれるように、外見的な信仰生活だけでは十分ではありません。神様は私たちの人生に、より深い実りを期待しておられるのです。
その実とは何でしょうか。それは、神様との真実な関係から自然に生まれる実りです。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22-23)―――これらの実は、形式的な努力によってではなく、神様との生きた関係から生まれてきます。
そして今、私たちには恵みの時が与えられています。庭師であるキリストは、今も私たちのために執り成し、具体的に働きかけてくださっています。土を掘り起こし、肥料を与えるように、様々な方法で私たちを養い、導いてくださるのです。
しかし、この恵みの時は永遠ではありません。「もし実を結ばなければ、切り倒してください」という言葉は、決断の緊急性を私たちに示しています。今という時が、神様の招きに応答するための大切な機会なのです。
私たちは選択を迫られています。形式的な信仰生活に留まるのか、それとも真の実りを求めて歩み出すのか。神様は私たち一人一人に、より豊かな信仰生活への道を開いてくださっています。
このメッセージを締めくくるにあたり、もう一度考えてみましょう。私たちは神の園に植えられた木として、どのような実を結んでいるでしょうか。キリストの具体的な働きかけに、どのように応答しているでしょうか。そして何より、与えられている恵みの時を、どのように用いているでしょうか。
神様の期待に応える実りある人生を送ることができますように。そして、今という恵みの時を決して無駄にすることなく、真の信仰の実りを追い求める者となることができますように。
「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(第二コリント6:2)
『招きの祈り』
天の父なる神様。 今日も、私たちに語りかけてくださり、ありがとうございます。
主よ、私たちはあまりにも長い間、形だけの信仰生活に満足してきたかもしれません。 外見的な敬虔さにとどまり、真の実りを結ぶことから遠ざかっていたかもしれません。
しかし今、あなたは私たちに新しい機会を与えてくださっています。 キリストは今も、私たちのために執り成し、 土を掘り起こし、肥料を与えるように、 具体的に働きかけてくださっています。
どうか私たちの心の頑なさを打ち砕いてください。 あなたの恵みの雨を注いでください。 みことばという養分で、私たちを養ってください。
そして、この恵みの時を無駄にすることなく、 真の実りを結ぶ者として歩み始められますように。
私たちの人生が、あなたの期待に応える実りある生き方となりますように。 愛と喜びと平安の実を結び、 周りの人々への祝福となれますように。
また、イエス・キリストを信じていない方々におすすめします。
今日、あなたに語りかけたいことがあります。
私たちは皆、神様の園に植えられた木のようなものです。神様は私たち一人一人に、豊かな実りのある人生を送ってほしいと願っておられます。しかし、私たちの力だけでは、その期待に応えることはできません。
あなたは今まで、自分の人生に何か足りないものを感じていませんでしたか? 形だけの宗教や、自分の努力だけでは満たされない空虚さを感じていませんでしたか?
神様は、そんなあなたを愛しておられます。そして今、新しい人生への招きの手を差し伸べておられます。イエス・キリストは、あなたのために十字架で死に、復活されました。それは、あなたが本当の意味で生きる者となるためです。
主は今も、あなたのために執り成してくださっています。「もう一年待ってください。私が土を掘り起こし、肥料をやります」という庭師のように、あなたの人生に働きかけようとしておられます。
このメッセージを聞いているあなたに、今という特別な恵みの時が与えられています。しかし、この機会は永遠ではありません。今日が、あなたにとって救いの日となるかもしれません。
あなたがしなければならないことは、ただ素直な心で、自分の罪を認め、イエス・キリストを救い主として受け入れることです。
「主よ、私は罪人です。自分の力だけで生きようとしてきました。しかし今、あなたの招きに応えたいと思います。私の人生に入って来てください。新しい実りある人生へと導いてください」
このように祈ることから、あなたの新しい人生は始まります。主はあなたを受け入れ、導いてくださいます。そして、あなたの人生に本当の意味での実りをもたらしてくださるお方であること信じましょう。
今、この招きにどう応答するかは、あなた次第です。しかし、どうかこの機会を見過ごさないでください。神様はあなたを愛しており、あなたとの出会いを待っておられます。
新しい人生への一歩を、今、踏み出してみませんか?アーメン。
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