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復活祭メッセージ 喜びなさい! Jesus met them, saying, "Rejoice!"

2024年3月31日 礼拝

タイトル画像:Arnie BraggによるPixabayからの画像

マタイによる福音書28章1節―10節

28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
28:10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」
新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)


はじめに


復活祭の喜びに満ちたこの日に、心から歓迎いたします。
今日は、イエス・キリストの復活を祝う特別な日です。私たちにとりまして、主イエスの復活は、希望と喜びの源であり、私たちの信仰の根幹です。

この日を通して、私たちがいただいた新たないのちの始まりを祝うことができることを感謝いたします。

ところで、復活祭は、私たちにとって神の愛と恵みを再確認する機会でもあります。みなさまも御存知の通り、主イエスの復活は、私たちに永遠のいのちと救いをもたらし、罪と死の勝利を告げた日でもあります。

この日に、私たちはイエス・キリストの栄光に目を向け、その恵みに感謝するとともに、私たちの心をきよめ、新しい生活への奉仕の決意を新たにしていこうではありませんか。

今日のメッセージでは、イエスの復活が私たちの信仰と生活に与える深い意味について考え、その喜びを分かちあいたいと思います。
神の愛のあらわれである素晴らしい復活祭を迎え、共に喜びを分かち合いましょう。

祝福をこめて、復活の日を迎える喜びに満ちた挨拶を申し上げます。

復活の朝 神の愛と希望の証し


イエス・キリストの復活は、キリスト教信仰の核心であり、神の愛と救いの計画の頂点を示す出来事です。復活の朝、マグダラのマリヤと他のマリヤ、そしてサロメは、深い悲しみと共に、彼らの愛する主の遺体に香料を塗るために墓へと向かいました。彼女たちの行動は、イエスへの献身と敬愛の表れであり、同時に人間的な悲しみと喪失感を象徴しています。

しかし、神は驚くべき方法で彼女たちの信仰に応えられました。突然の地震と天使の出現は、神の超自然的な力と介入を明確に示しています。天使の姿と言葉は、神の栄光と復活の真実を伝え、恐れおののいた女たちに希望と喜びをもたらしました。この瞬間、死の力は打ち砕かれ、新しい命の約束が現実となったのです。

注目すべきは、神が最初に復活の知らせを女性たちに伝えたことです。当時のユダヤ社会では女性の証言が法的に認められていなかったにもかかわらず、神は彼女たちを選ばれました。これは、神の目には全ての人が等しく価値あるものとされていることを示す、革命的な出来事でした。また、この選択は、しばしば社会から見下されている者たちを神が用いられるという、聖書全体を通じて見られるテーマの継続でもあります。

復活したイエスとの出会いは、女たちの人生を永遠に変えました。彼女たちの恐れは喜びに、疑いは確信に変わりました。イエスの足を抱いて拝む姿は、深い愛と献身、そして完全な崇拝を表しています。イエスの言葉「恐れてはいけません」は、単に慰めだけでなく、新しい命と希望の約束でもありました。

この出来事は、私たちに多くの霊的な教訓を与えてくれます。まず、神の力は死さえも超越することを示しています。これは、私たちの人生のどんな困難や絶望的な状況でさえ、神の介入によって希望に変えられる可能性があることを意味します。次に、神は予想外の方法で働かれることを教えています。社会的地位の低い女性たちを選んだように、神は私たちの予想を超えて、しばしば「小さな者」を通して大きな目的を果たされます。

最後に、復活の朝の出来事は、私たちに個人的な出会いと証しの重要性を教えています。女たちはイエスと直接会い、その体験を他の人々に伝えるように命じられました。同様に、私たちも個人的に神と出会い、その体験を他の人々と分かち合うよう求められています。

復活の朝の物語は、単なる歴史的な記録以上のものです。それは、神の愛と力の究極の表現であり、全人類に対する希望と新しい命の約束なのです。この出来事を通じて、私たちは自分の人生における「復活」—困難からの解放、絶望からの希望、そして霊的な刷新—を体験するよう招かれているのです。

復活の主の愛 マグダラのマリヤとの出会い


イエス・キリストの復活後、最初に言葉を交わした場面は、深い霊的意義を持つ感動的な瞬間です。この出来事は、神の無限の愛と慈悲、そして私たち一人一人に対する個人的な関心を鮮明に表しています。

マグダラのマリヤの姿は、多くの信仰者の心の状態を象徴しています。彼女の深い悲しみと混乱は、私たちが人生の困難や喪失に直面したときの感情を反映しています。主の遺体が見当たらないことに動揺し、泣いているマリヤの姿は、希望を失った時の私たちの姿でもあるのです。

しかし、この暗闇の中で、神の光が差し込みます。イエスが彼女に近づき、優しく語りかける場面は、神が私たちの苦しみの中にも共にいてくださることを示しています。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」というイエスの問いかけは、単なる質問以上の意味を持ちます。それは、私たちの心の奥底にある真の渇きと探求心に向けられた、神からの呼びかけなのです。

マリヤがイエスを認識できなかったことは、私たちが時に神の存在や働きを見逃してしまうことを思い起こさせます。しかし、イエスは諦めることなく、彼女の名前を呼びます。「マリヤ。」この一言には、創造主が被造物一人一人を個別に知り、愛していることが凝縮されています。この個人的な呼びかけによって、マリヤの目が開かれ、主を認識するのです。

イエスの「わたしにすがりついていてはいけません」という言葉は、一見厳しく聞こえるかもしれません。しかし、これは新しい関係の始まりを示唆しています。肉体的な存在としてのイエスから、霊的な主としてのイエスへの移行を意味しているのです。また、この言葉は、マリヤに使命を与えています。個人的な喜びにとどまらず、復活の証人となるよう導いているのです。

「わたしの兄弟たち」という表現は、復活後のイエスと信者たちとの新しい関係性を示しています。もはや単なる師弟関係ではなく、神の家族の一員としての関係が始まったのです。「わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神」という言葉は、イエスを通して私たちが神との親密な関係に入れることを示しています。

この出来事は、私たちに多くの霊的な教訓を与えてくれます。まず、神は私たちの悲しみや混乱の中にも寄り添ってくださることを教えています。次に、神は私たち一人一人を名前で呼び、個別的な関係を望んでおられることを示しています。さらに、神との出会いは必ず使命へとつながることを教えています。

マグダラのマリヤの経験は、私たち一人一人への招きでもあります。悲しみや絶望の中にあっても、復活の主が近くにおられ、私たちの名を呼んでおられることを覚え、その声に耳を傾けることが大切です。そして、主との出会いによって変えられた私たちは、マリヤのように、復活の証人として世界に出て行くよう召されているのです。

この復活の朝の出来事は、神の愛の深さ、赦しの力、そして新しい命の約束を鮮明に示しています。それは、私たち一人一人に向けられた、希望と慰めのメッセージなのです。

復活の主の最初の言葉 喜びと感謝への招き


マタイによる福音書28章8-10節に記された復活の朝の出来事は、キリスト教信仰の核心を鮮やかに描き出しています。墓から離れ、恐れと大きな喜びを抱きながら弟子たちに知らせるために走っていた女性たちに、復活したイエスが突如として現れる場面は、神の計画の劇的な成就を示しています。

この瞬間、イエスが口にした最初の言葉は、多くの日本語訳聖書では「おはよう」と訳されています。一見すると、これは単なる日常的な挨拶のように見えるかもしれません。しかし、原語のギリシャ語テキストを詳しく見ると、そこにはより深い意味が込められていることがわかります。

イエスが用いた言葉は、ギリシャ語でΧαίρετε(カイレーテ)です。この言葉の原型はカイローであり、その意味は単なる「おはよう」という挨拶をはるかに超えています。New King James Versionが"Rejoice!"と訳しているように、この言葉には「喜べ」「喜びなさい」という強い意味が込められています。

実用聖書注解では、この言葉を普通の挨拶と解釈していますが、NASEC辞書(New American Standard Exhaustive Concordance of the Bible)の解説はより深い洞察を提供しています。それによると、カイローは「神の恵みを喜ぶ」という意味を持ち、神の恵みを認識し、経験することを意味しています。つまり、この言葉は単なる挨拶ではなく、神の恵みに対する深い認識と喜びを表現する言葉なのです。

さらに重要なのは、この言葉が新約聖書の他の箇所でも重要な文脈で使用されていることです。例えば、ピリピ人への手紙4章4節、Ⅰテサロニケ人への手紙5章16節と18節では、同じカイレーテという言葉が使われています。これらの箇所では、「いつも喜びなさい」「すべてのことについて感謝しなさい」という、クリスチャンの生き方の本質を表す教えとして用いられています。

特筆すべきは、これらの用例がすべて現在命令形で表現されていることです。この文法的特徴は、喜びと感謝が一時的な感情ではなく、継続的で中断のない姿勢であるべきことを示しています。つまり、イエスの「カイレーテ」という言葉は、「絶えず喜び、感謝しなさい」という永続的な命令なのです。

このように理解すると、復活の朝にイエスが女性たちに語った言葉は、単なる「おはよう」ではなく、「喜び(感謝し)なさい!」と訳すべきであることが明らかになります。この言葉は、イエスの復活が神の最高の恵みの表れであり、その恵みを認識し、喜び、感謝するようにという招きなのです。

イエスのこの言葉は、十字架の苦しみと復活の栄光が共に神の計り知れない恵みであることを認めるよう私たちを導いています。それは、単に過去の出来事を振り返るだけでなく、現在も続く神の恵みの働きを日々認識し、喜び、感謝する生き方への呼びかけなのです。

残念ながら、多くの日本語訳聖書がこの深い意味を「おはよう」という日常的な挨拶に置き換えてしまっていることは、この言葉の持つ霊的な重要性を損なう可能性があります。「カイレーテ」の本来の意味を理解することで、私たちは復活の主の最初の言葉に込められた深い霊的真理を把握し、日々の生活の中でその教えを実践することができるのです。

この理解は、私たちのクリスチャンとしての生き方に大きな影響を与えます。困難や試練の中にあっても、復活の主の「喜びなさい」という言葉を思い起こし、神の恵みと愛を認識し、喜ぶことができるのです。それは、単なる感情的な反応ではなく、神の救いの業に対する深い理解と感謝に基づいた、信仰の本質的な表現なのです。

このように、復活の朝のイエスの言葉を正しく理解することは、私たちの信仰生活全体に新たな光を当て、より深い喜びと感謝に満ちた歩みへと導いてくれるのです。

復活の喜び 苦難を超えて輝く希望の光

イエス・キリストの復活は、人類の歴史において最も驚くべき出来事の一つです。その朝、墓に向かったマグダラのマリヤたちが経験した感情の激しい起伏は、私たち現代の信仰者の心の動きを映し出す鏡のようでもあります。

彼女たちの置かれた状況を深く考えると、その心中は計り知れないものがあったことでしょう。イエスの十字架刑は、単に愛する師を失ったというだけでなく、彼女たちの人生の根幹を揺るがす出来事でした。イエスに従うために全てを捨てた彼女たちにとって、その死は自己のアイデンティティーの喪失を意味していたのです。

さらに、当時のユダヤ社会における彼女たちの立場を考えると、その苦悩はより深刻なものだったと想像できます。イエスの弟子であることが知られれば迫害される可能性があり、自らの生命の危険さえ感じながら、それでも早朝に墓を訪れる決意をしたのです。この行動には、悲しみと恐れ、そして最後の希望が入り混じっていたことでしょう。

マグダラのマリヤの涙は、この世の残酷な現実を映し出すものでした。強者が勝ち、弱者が敗れるという、この世の冷酷な摂理を痛感させられる涙だったのです。イエスの死は、彼女たちの目には、この世の不条理さを象徴する出来事として映っていたかもしれません。

しかし、そのような絶望的な状況の中で、復活したイエス・キリストが現れたのです。この出来事は、彼女たちの理解を超えた、まさに奇跡的な出来事でした。私たちの常識や経験則では到底理解できない、神の力の現れだったのです。

イエスの最初の言葉「Χαίρετε(カイレーテ)」、つまり「喜びなさい!」という言葉は、この文脈において極めて重要な意味を持ちます。この言葉は単なる挨拶ではなく、深い霊的な意味を持つ命令でした。それは、たとえ状況が最悪に見えても、神の計画が勝利していることを喜べという招きだったのです。

この「喜び」は、表面的な幸福感や一時的な高揚感を意味するものではありません。それは、神の主権と愛を認識し、どんな状況下でも感謝する姿勢を指します。イエスはこの言葉で、彼女たちに新しい視点を与えようとしたのです。つまり、この世の苦難や悲しみを超越した、永遠の希望に目を向けるよう促したのです。

私たち現代の信仰者も、マグダラのマリヤたちと同じような経験をすることがあります。信仰を告白しながらも、現実の苦難に直面すると半信半疑になることもあるでしょう。しかし、イエスの復活は、そのような私たちの疑いや恐れを超える力強い真実なのです。

イエス・キリストが完全な肉体を持って復活されたように、私たちも将来、肉体を伴って復活することが約束されています。これこそが、キリスト教信仰の核心的な希望です。「喜びなさい!」というイエスの言葉は、この希望に基づいた生き方への招きなのです。

この復活の喜びは、私たちの日常生活にも大きな影響を与えます。困難や苦しみの中にあっても、復活の主が共にいてくださるという確信は、私たちに力と慰めを与えてくれます。それは、この世の論理や常識を超えた、神の愛と力の現れなのです。

最後に、イエスの「喜びなさい!」という言葉は、私たちに継続的な姿勢を求めています。それは一時的な感情ではなく、信仰に基づいた生き方全体を指し示しています。たとえ環境が厳しくても、神の愛と計画を信じ、喜び続けることが私たちに求められているのです。

この復活の喜びを心に刻み、日々の生活の中で実践していくことで、私たちはキリストの復活の証人となることができるでしょう。それは、マグダラのマリヤたちが経験したような、絶望から希望への劇的な転換を、現代世界に示すことになるのです。

復活の奇跡 「見よ、喜びなさい!」

マタイの福音書28章9節の日本語訳には、残念ながら、原文のギリシャ語や英語訳に含まれる重要な要素が欠けています。
ギリシャ語の「ἰδοὺ(イドゥー)」や英語の「behold」に相当する「見よ!」という命令形が日本語訳では省略されているのです。この「見よ!」という言葉は、続く「喜びなさい!」(Χαίρετε、カイレーテ)という言葉と共に、復活の出来事の重要性を強調する役割を果たしています。

この聖書箇所は、私たちに復活の奇跡の真実に目を向けるよう促しています。「見よ!」という命令は、単に物理的な視覚だけでなく、霊的な洞察力を用いて復活の現実を理解し、受け入れるようにという呼びかけです。そして、それに続く「喜びなさい!」は、この驚くべき出来事に対する適切な反応を示しています。

復活の奇跡を真に理解し、その喜びを体験するためには、マグダラのマリアや弟子たちが経験したような深い悲しみと喪失感を認識することが重要です。彼らの絶望的な状況こそが、復活の喜びの大きさを際立たせるのです。イエスの死による希望の喪失と、墓に向かう彼らの震える心は、私たちが日々直面する苦難や喪失感の象徴とも言えるでしょう。

しかし、まさにその絶望の淵で、イエス・キリストの復活の驚異が彼らを待っていました。イエスの出現は、彼らの悲しみを喜びに、絶望を希望に変えました。この劇的な転換は、私たちの人生における神の働きの象徴でもあります。

私たちも同様に、人生の苦難や喪失の中で、イエス・キリストの復活の力と希望を信じることができます。復活は、私たちが直面するあらゆる困難を超越する神の力の証です。「見よ!」という命令は、私たちの目を現在の苦しみから離し、永遠の希望へと向けさせます。そして「喜びなさい!」という言葉は、たとえ状況が変わらなくても、神の勝利を確信して喜ぶようにという励ましなのです。

復活の日に、私たちはこの奇跡的な出来事を新たな目で見つめ直し、心から喜ぶべきです。イエス・キリストの復活は、死の力に打ち勝つ神の愛と力の究極の表現です。それは、私たちの信仰が永遠のものであることを保証し、どんな状況下でも希望を持ち続けることができる根拠となります。

この復活の奇跡は、私たちの日常生活にも大きな影響を与えます。苦難や喪失感に直面したとき、私たちは「見よ!」というイエスの言葉を思い出し、目に見える現実を超えた神の働きに目を向けることができます。そして「喜びなさい!」という励ましに応えて、たとえ状況が厳しくても感謝と喜びを持ち続けることができるのです。

最後に、復活の日を祝うにあたり、私たちはこの驚くべき出来事の証人となるよう召されていることを忘れてはいけません。マグダラのマリアたちが復活の証人となったように、私たちも自分の人生を通して復活の力と希望を世界に示す責任があります。

ですから、この復活の日に、私たちは心を新たにして「見よ!」という神の命令に従い、復活の奇跡に目を向けましょう。そして「喜びなさい!」というイエスの言葉を胸に刻み、どんな状況下でも希望と喜びを持ち続ける決意をしましょう。この復活の奇跡が、私たちの信仰を強め、日々の生活に新たな意味と目的をもたらしますように。ハレルヤ!

復活の主をほめたたえます。