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永遠の愛から紡がれる和解の物語 ―Ⅱコリント5章16-19節
2025年2月23日 礼拝
Ⅱコリント人への手紙5:16-19
5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
タイトル画像:wal_172619によるPixabayからの画像
はじめに
前回、私たちはパウロの使徒職をめぐる重要な視点について考えました。パウロへの「狂気」という批判と、それに対する彼の応答を通して、真の奉仕者の姿が明らかにされました。それは、主への畏れを土台とし、キリストの贖罪の愛に動かされた奉仕でした。
今回は、この奉仕の本質をさらに深く掘り下げていきます。パウロは、キリストの十字架によってもたらされた劇的な変革について語ります。それは単なる個人の生き方の変化にとどまらず、世界の見方そのものを一変させる出来事でした。人をどのように見るのか、キリストをどのように理解するのか―パウロの言葉は、私たちの価値観の根本的な転換を迫ります。和解の使命を託された者として、私たちはこの変革をどのように受け止め、実践していくべきでしょうか。
新しい視点を得たパウロ (16節)
Ὥστε ἡμεῖς ἀπὸ τοῦ νῦν οὐδένα οἴδαμεν κατὰ σάρκα· εἰ καὶ ἐγνώκαμεν κατὰ σάρκα Χριστόν, ἀλλὰ νῦν οὐκέτι γινώσκομεν.
「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」Ⅱコリント5:16
「それゆえに」―この一語で始まる16節には、パウロの信仰における意味深い真理が込められています。ギリシャ語のὭστε(hoste)は、単なる接続詞を超えて、キリストの贖罪の死と復活という出来事が必然的にもたらす人間性の根本的変革を示す力強い言葉なのです。この接続詞は、15節で語られた贖罪の出来事と、それに続く人を見る目の変化が、論理的かつ必然的な関係にあることを雄弁に物語っています。
パウロの心に起きた劇的な変化は、人を見る目の完全な転換として表れました。「私たちは今後、誰一人として人を肉に従って知ることはない」―この宣言には、世俗的な価値基準による人間評価の完全な否定が込められています。ギリシャ語のoudenaは、いかなる例外も許さない絶対的な拒絶を意味します。それは、外見や地位、富といった「肉による」(κατὰ σάρκα)評価基準からの、決定的かつ完全な決別を表明しているのです。
かつてガマリエルの門下生として、最高の教育を受けた律法学者のエリートであったパウロは、キリストをも同じ肉的な基準で判断していました。貧しい大工の子、教養のない田舎の説教者、民衆を惑わす危険な革命家、そして最後には十字架という最も屈辱的な刑に処せられた罪人――それが彼のキリスト観でした。そのような偏見に満ちた見方こそが、「肉に従って」(κατὰ σάρκα)物事を判断することの本質だったのです。
しかし今や、パウロの目は開かれました。ダマスコ途上での劇的な回心体験を通して、彼の価値基準は完全に覆されたのです。十字架は、もはや罪人への刑罰の象徴ではありません。それは全人類の罪を贖う神の愛の最も崇高な啓示として、パウロの目に輝き始めたのです。かつて彼が軽蔑し、迫害さえした「十字架につけられた者」は、今や「私のために死に、よみがえられた方」として、彼の人生の中心に座すようになりました。
この視点の転換は、決して偶然の産物ではありません。それは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」という圧倒的な体験の必然的な結果でした。「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだ」という深い理解は、パウロの全存在を根底から変革したのです。この変化は単なる知的な理解の転換を超えて、存在そのものの変革をもたらしました。
そしてこの真理は、今を生きる私たちにも同じ変革を迫っています。私たちは今なお、人を「肉に従って」判断していないでしょうか。外見や地位、能力や性格といった外的な基準で、他者を、そして自分自身を評価していないでしょうか。パウロの証言は、そのような古い価値基準からの解放を告げる福音として、今なお力強く語りかけているのです。
十字架が開く新しい世界―キリストにある者の確かな希望(17節)
ὥστε εἴ τις ἐν Χριστῷ, καινὴ κτίσις· τὰ ἀρχαῖα παρῆλθεν, ἰδοὺ γέγονεν καινά·
「 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17
キリストの贖罪の死と復活は、人類史上最も劇的な転換点をもたらしました。新改訳では省かれているhosteで始まるこの宣言は、キリストの贖罪の死と復活についての議論から、パウロは必然的な結論として宣言します。
「それゆえ(ὥστε)」キリストのうちにある者には、決定的な存在の転換が起こるのです。εἴ τις ἐν Χριστῷ(エイ ティス クリストー)「もし誰かがキリストのうちにあるなら」という条件は、καινὴ κτίσις(カイネー クティシス)「新しい創造」という驚くべき現実をもたらします。
この接続は、キリストの贖いの出来事と、それがもたらす人間の根本的変革との間の必然的な因果関係を強調しています。これは偶然の結果でも、単なる可能性でもなく、キリストの十字架と復活から必然的に導かれる現実なのです。必然的な結果を示しています。
そして εἴ τις ἐν Χριστῷ(エイ ティス クリストー)「キリストのうちにある」という決定的な条件を通して、人間存在の根本的な革命が起こることを告げています。
これは単なる改善や変化ではありません。καινὴ κτίσις(カイネー クティシス)という表現が示すように、これは全く新しい創造への跳躍的な移行です。ここでカイノス(καινός)は、時間的な新しさを示すネオス(νέος)とは異なり、質的な革新を意味します。「今までに全く経験したことのないもの」「より高次の段階への進展」を表す言葉です。クティシス(κτίσις)は「無からの創造」を意味し、神の創造の業を表現する重要な用語です。
神は、私たちの古い存在を破壊して作り直すのではありません。むしろ、キリストにある者を、かつて経験したことのない質的に新しい次元の存在へと変革されるのです。これは「新しい契約」(ヘブル8:8)がそうであるように、古いものを否定するのではなく、完成させる変革です。
この革命的な変革において、人間に与えられた本来の特質――理性、道徳性、共同体、神への崇拝の本能は否定されるのではなく、むしろ罪の歪みから解放され、本来意図された輝きを取り戻します。一方で、堕落によって侵入した偽りの自己――高慢、自己中心性、偶像崇拝は完全に打ち砕かれ、新しい創造の光の中で消え去ります。
この「新しい創造」καινὴ κτίσις(カイネー クティシス)は、「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)や「新しいエルサレム」(黙示録21:2)に象徴される神の完全な支配の実現を予表しています。また「新しい自己」(エペソ4:24)という表現が示すように、これは神のかたちに従って造られた新しい人格への変革を意味します。
キリストのうちにあることは、このような決定的な存在論的転換をもたらすのです。これは願望でも理想でもなく、キリストの贖罪と復活という歴史的出来事が必然的にもたらす現実です。「見よ」(ἰδοὺ イドゥー)という言葉が強調するように、古い存在は確実に過ぎ去り、新しい創造の光が完全な変革をもたらすのです。これこそが、Ⅱコリント5:17が宣言する革命的なメッセージの本質なのです。
この変革は、黙示録に描かれる終末的な新創造を先取りする出来事です。私たちは今、キリストにあって、その新しい創造の始まりを経験しているのです。それは、罪と死の支配から解き放たれた新しい人間性の誕生であり、神の完全な統治が実現する新しい世界の予兆なのです。
和解の福音を託された者として(18-19節)
パウロは18-19節において、和解の福音の本質とその委託について驚くべき神学的展開を示しています。この箇所は、救いの歴史における神の主導的な働きと、それに対する人間の応答という壮大な物語を描き出しています。
まず、「これらのことはすべて、神から出ているのです」という根本的な宣言から始まります。ギリシャ語原文における冠詞の使用は、ここでの「すべて」が「新しい創造」(καινὴ κτίσις)に属する事柄を指していることを示唆しています。これは単なる創造行為の言及ではなく、キリストにおける贖罪と和解という特別な神の働きについての言及です。神は贖罪のわざを発議し、完成させる方なのです。
特に注目すべきは「和解させる」(καταλλάσσω)という表現です。これはパウロ書簡において、キリストにおける神の働きを表現する用語として初めて登場する重要な言葉です。この用語の使用は、この書簡とローマ書5章10節に限られており、パウロの救済論における重要な転換点を示しています。
この和解は、敵対関係にあった人間が神との一致へともたらされる出来事として描かれます。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ」という表現の文法的構造は、贖罪の普遍的な広がりと深さを強調しています。ここでの「世界」(κόσμος)は人類世界を指し、神の和解の業が特定の民族や集団に限定されない普遍的な拡がりを持つことを示しています。
和解の具体的な内容は、「違反行為の責めを人々に負わせない」という表現に集約されます。これは単なる罪の見過ごしではなく、神の積極的な赦しの宣言です。
原文では次のように記されています:ὡς ὅτι θεὸς ἦν ἐν Χριστῷ κόσμον καταλλάσσων ἑαυτῷ, μὴ λογιζόμενος αὐτοῖς τὰ παραπτώματα αὐτῶν, καὶ θέμενος ἐν ἡμῖν τὸν λόγον τῆς καταλλαγῆς.19節
パウロが19節で用いているπαράπτωμα(パラプトーマ)という言葉は、人間の罪の本質を理解する上で重要な神学的洞察を提供しています。この用語は、本来「寄り添った後に離れること」あるいは「正しい道から逸れること」を意味します。重要なのは、この言葉が必ずしも意図的な反逆や故意の違反だけを示すものではないという点です。
むしろ、それは人間の弱さや不注意から生じる過ちや失態を含む、より広い範囲の罪を指し示しています。「無意識の罪」や「過失」であっても、神の前では依然として贖いを必要とする罪として扱われます。これは旧約聖書のレビ記や民数記に見られるように、「知らずに」あるいは「意図せずに」犯した罪であっても、神の律法の違反として、いけにえによる贖いを必要としたことと一致します。
19節でパウロが用いるλογίζομαι(ロギゾマイ)という言葉は、神の和解の働きの本質を理解する上で決定的な意味を持ちます。この言葉は本来、「計算する」「考慮に入れる」という意味から派生し、論理的な思考過程を経て結論を導き出すことを示します。古代においては、会計士や簿記係が帳簿をつける際に用いた専門用語でもありました。パウロがこの用語を用いて「違反行為の責めを人々に負わせない」と述べる時、それは単なる罪の見過ごしや忘却以上の意味を持ちます。それは神による公式な判断、つまり人類の罪を「もはや計上しない」という法的かつ永続的な決定を表現しているのです。
さらに、パウロはこの和解の出来事が「和解の言葉」(λόγος τῆς καταλλαγῆς)として教会に委ねられたことを語ります。ここでの代名詞の使用の変化は示唆的です。和解の対象としての「彼らαὐτῶν」(人類全体)と、和解の使者としての「私たちἡμῖν」(使徒たち)が区別されることで、教会に委ねられた特別な使命が浮き彫りにされています。この「和解の務め」は、神から発する主権的な救いの業であり、キリストの十字架と復活によって歴史的に成就された出来事であり、そして教会を通して世界に伝えられ、実現されていく現在進行形の使命なのです。
この理解は、現代の教会の宣教と奉仕の在り方に深い示唆を与えます。和解の使者として、私たちは常に神の主導的な働きに依存しつつ、その恵みを具体的な形で世界に示していく責任を負っています。これは、分断と対立に満ちた現代世界において、特別な意味を持つ使命といえるでしょう。パウロの教えは、神の救いの業の壮大さと、それに対する教会の応答の重要性を鮮やかに描き出しています。それは私たちに、神の恵みの深さと、その恵みに生きる者としての責任を同時に示しているのです。この和解の福音は、神の正義と恵みが完全に調和した形で実現される救いの出来事として、今日も私たちに語りかけています。
最後に
時を超えて人々の心を揺さぶり続けるパウロの言葉は、18-19節において壮大な和解の物語を紡ぎ出します。それは単なる教義を述べるだけではなく、永遠なる神が人類に差し伸べられた愛の手紙とも言えるでしょう。
「これらのことはすべて、神から出ているのです」というパウロの力強い宣言は、まるで深い静寂を破る雷鳴のように響きます。ギリシャ語原文の冠詞が密やかに示唆する「新しい創造」(καινὴ κτίσις)という概念は、私たちの想像を遥かに超える神の創造的な愛の業を指し示しているのです。それは夜明けの光のように、古い我々の世界に新しい希望をもたらす神の贖罪と和解の輝かしいご計画なのです。
「和解させる」(καταλλάσσω)という言葉には、深い思いやりの心が込められています。まるで長く離れ離れになっていた家族が再会する、「放蕩息子のたとえ」を彷彿させるような、そんな温かい和解の情景がそこには描かれているのです。パウロ書簡の中でこの言葉が初めて登場する瞬間は、まさに新しい夜明けの到来を告げる詩のようです。
敵対関係という深い闇から、神との親密な交わりという光へと導かれる人類の物語。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ」という言葉には、迷子の子どもを抱きしめる父親のような神の深い愛が映し出されています。そこにはあらゆる民族や文化の壁を超えて、全人類を包み込もうとする神の限りない慈しみが息づいているのです。
パウロが用いるπαράπτωμα(パラプトーマ)という言葉は、人間の弱さを優しく理解する神の眼差しを感じさせます。それは意図的な反抗というよりも、むしろ群から離れた一匹の羊のような私たちの姿を映し出しているのです。たとえ気づかずに犯してしまった過ちであっても、神は深い憐れみをもって私たちを受け入れてくださいます。
さらにλογίζομαι(ロギゾマイ)という言葉に込められた神の決断は、揺るぎない愛の宣言のようです。それは会計帳簿から永遠に消し去られた負債のように、私たちの罪を完全に赦すという神の心からの約束なのです。この永遠の赦しは、春の訪れのように確かで、朝日のように新しい希望に満ちています。
そしてこの壮大な和解の物語は、「和解の言葉」(λόγος τῆς καταλλαγῆς)として教会に託されました。それは神から人類への愛の手紙を届ける使命、分断された世界に和解の架け橋を築く神聖な務めなのです。私たちは今、この尊い使命を担う者として、神の愛の物語の新しい章を紡ぎ出すように召されているのです。
この深遠な真理は、現代を生きる私たちの心に新鮮な感動を呼び起こします。分断と孤独に苦しむ世界の中で、私たちは神の和解の真実を生きる証人として立っているのです。それは単なる教理ではなく、私たちの存在そのものを通して輝き出る、生きた福音のメッセージなのです。このようにしてパウロの言葉は、二千年の時を超えて、今なお私たちの心に温かい光を投げかけ続けているのです。ハレルヤ!
適用
人を見る目を変えていこう
私たちは日常生活において、しばしば人を外見、地位、学歴、能力といった「肉による」基準で判断してしまいがちです。しかし、パウロが経験した視点の転換は、私たちにもそのような古い価値基準からの解放を迫っています。特に職場や教会での人間関係において、意識的に神の目で人を見る訓練が必要です。具体的には、苦手な人や対立関係にある人に対して、その人の内に働く神の恵みを見出そうとする姿勢を持つことから始められるでしょう。
新しい創造としての生き方
キリストにある者として、私たちは日々、古い性質との戦いを経験します。高慢な態度、自己中心的な判断、人への偏見などが顔を出す時、それを認識し悔い改める必要があります。同時に、神が本来与えてくださった特質―理性的な判断力、道徳的な識別力、共同体への貢献―を積極的に活かす機会を求めていきましょう。これは日々の小さな決断や選択の積み重ねを通して実現されていきます。
和解の使者としての具体的実践
和解の使者としての使命は、まず私たちの最も身近な場所から始まります。家庭における不和、職場での軋轢、教会内の意見の相違――これらの分断に対して、私たちは和解の架け橋となるように召されています。特に重要なのは、相手の過ちを「計らない」という赦しの精神です。これは単なる感情的な許しではなく、神の永遠の赦しを反映した、意識的な決断として実践されるべきものです。
教会の共同体としての取り組み
教会は、この世界における和解の共同体として召されています。そのためには、まず教会の交わりの中で、互いを「肉によって」判断しない雰囲気を意識的に育てていく必要があります。また、和解のメッセージを効果的に伝えるための具体的な宣教・奉仕活動を、教会として計画し実行することも重要です。特に現代社会における様々な分断――世代間、文化間、価値観の違いなどに対して、和解の共同体としての具体的な証しを示していくことが求められています。
このような適用は、一朝一夕に実現できるものではありません。しかし、日々の祈りと御言葉の学びを通して、少しずつでも実践していくことが、私たちに託された使命なのです。それは時に困難を伴うかもしれませんが、神の変革の力によって、必ず実を結ぶことができるのです。
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