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『喜びへの道 ―待降節における希望の光―』 2024年アドベント第3週 

2024年12月15日 礼拝

聖書箇所:ルカによる福音書1章46ー55節
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

聖書箇所:イザヤ書35章
35:1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。35:2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
35:3 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
35:5 そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
35:6 そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
35:7 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
35:8 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
35:9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
35:10 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。

タイトル画像:BrunoによるPixabayからの画像


はじめに


今回のメッセージは、マリアの賛歌に表された深い信仰と、イザヤ書の預言的ビジョンを手がかりに、アドベントの時期における「喜び」の本質を探求していきます。特に、現代を生きる私たちが直面している人間関係の困難さや自己開示への躊躇といった課題に触れながら、神が人となって私たちの中に来られたという出来事が持つ意味を考えていきます。

マリアが経験した困難と喜び、そして神との深い関わりの中で見出した希望は、2000年を経た今日でも、私たちの人生に深く響きかけます。このメッセージを通して、表面的な関係や物質的な満足を超えた、より本質的な喜びへの道を共に探っていければと願います。                                            

マリアの苦悩


マリアの賛歌(ルカ1:46-55)の瞑想
マリアはイエス・キリストの懐妊という、神の特別な召しを受けた時、単なる服従以上の深い応答をしました。その応答が、ルカによる福音書1章46-55節に記されている「マリアの賛歌」として知られている記事です。この賛歌は、マリア自身の個人的な信仰告白であると同時に、神の救済計画の本質を理解した預言でもあります。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」(ルカ1章46-47節)という言葉で始まるこの賛歌は、神への深い信頼と喜びに満ちています。

マリアは未婚の若い女性として、社会的な偏見や誤解、そして不確実な未来に直面していたにもかかわらず、神の約束を信じ、喜びをもって受け入れました。彼女の賛歌には、自身の状況を超えた神の大きな計画への深い理解が込められています。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、」(ルカ1章51-52節)という言葉は、未来にもたらされる神の正義と救いの普遍性を宣言しています。

イザヤ書35:1-10の預言的なビジョン
イザヤ書35章とマリアの賛歌(マグニフィカト)には、注目すべき共通点があります。神の救済的介入による状況の劇的な転換、抑圧された者や弱い立場の人々への神の配慮、そして喜びと希望に満ちた未来の約束という主題です。

マリアは、ユダヤ人の若い女性として旧約聖書の預言に親しんでいたと考えられます。彼女の賛歌には確かに旧約聖書の言語や表現が多く見られますが、イザヤ書35章を直接引用しているわけではありません。

より詳しく検討すると、マリアの賛歌により直接的な影響を与えたと考えられるのは、ハンナの祈り(サムエル記上2:1-10)です。形式や表現が非常に類似しており、特に社会的地位の逆転というテーマが強く共有されています。また、マリアの賛歌には詩篇からの影響も顕著で、賛美の言語や表現の多くが詩篇と共通しています。

むしろ、イザヤ書35章とマリアの賛歌は、神の民の解放という大きな物語の中で相互に関連していると考えるべきでしょう。両者は、メシア到来の預言とその成就という文脈において、神の救済計画における連続性を表現しています。

このように考えると、神の救済史における連続性と一貫性を示す証しとして理解するのが適切だと考えられます。このことは、神の救いの計画が、時代を超えて一貫して展開されていることを私たちに教えています。

こうした視点で、イザヤの預言を見ていきますと、荒野が花咲く園に変えられるという驚くべきビジョンを描いています。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。」この預言は、神の介入によって根本的に変えられることを示しています。

この変容は単なる物理的な変化以上のものを示しています。「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。」という預言は、弱者が負っているハンディキャップの癒やしと克服があることが示されています。

この二つの聖書箇所は、今回のアドベントの第3週を特徴づける「喜び」というテーマを深く理解する上で重要な視点を与えてくれます。マリアの賛歌は、個人的な信仰と応答の模範を示し、イザヤ書の預言は、神の救済計画の壮大なビジョンを提供します。両者は共に、困難や不確実さの中にあっても、神の約束に基づく確かな喜びがあることを教えています。

この待降節に私たちは、マリアのように信仰をもって神の約束を受け入れ、イザヤの預言のように希望に満ちた未来を待ち望むことができます。それは、表面的な楽観主義ではなく、神の誠実さに基づいた深い喜びと希望なのです。そして、この喜びは単に個人的なものにとどまらず、教会全体を励まし、強める力となります。

喜びへの道


アドベント第3週は伝統的に「喜び」に焦点を当てる週として知られています。しかし、この「喜び」とは何でしょうか。クリスマスを迎える喜びは、私たちが日常的に経験する一時的な感情の高まりとは、本質的に異なるものです。

アドベントにおける喜びは、神の約束に根ざした深い希望から生まれます。それは環境や状況に左右されない、より本質的な喜びです。この喜びは、神の誠実さへの信頼と、その約束の確実な成就への期待に基づいていることが基礎にあります。私たちは、この確信に支えられて、現在の困難を乗り越えることができるのです。

マリアの賛歌は、このような喜びの具体的な表現です。彼女は、社会的な誤解や偏見、そして不確実な未来に直面していました。しかし、その困難な状況の中でも、神への深い信頼に基づく喜びを見出しました。マリアの賛歌は、彼女個人の信仰告白であると同時に、神の救済計画全体を見通した預言的な宣言でもあります。

「待つこと」と「喜び」は、内容的には相反するものを持っていますが、密接に結びついている言葉です。「待つ」という行為は、しばしば不安や焦りを伴います。

しかし、クリスチャンの「待つ」という経験は異なります。それは、必ず成就される約束への期待に満ちた待望を意味します。この待望の過程そのものが、深い喜びの源となります。マリアが神の約束を待ち望んだように、私たちも確かな希望をもって待つことができるのです。

さらに、この喜びは個人的な経験にとどまるものではありません。教会全体として喜びを分かち合うことには、特別な意味があります。共に喜び合うことで、個々の信仰が強められ、教会全体が励まされます。困難な状況にある人々は他者の喜びによって希望を見出し、喜びに満ちている人々は、その喜びを分かち合うことでさらに深い喜びを経験します。

アドベントの第3週は、このような本質的な喜びを再発見し、深める機会です。それは、クリスマスを待ち望む時期にふさわしい、神の民としての根本的な姿勢を示すものです。私たちは、マリアの模範に倣い、神への信頼に基づく喜びを、個人としても教会としても、より深く体験することができるのです。

この喜びは、クリスマスを前にした一時的な感情の高まりではありません。それは、神の約束の確かさに基づく永続的な希望であり、困難な状況の中でも輝き続ける光なのです。私たちは、この光に導かれて、真の意味でのクリスマスの喜びへと歩んでいくことができるのです。

現代の私たちに


アドベントの時期を過ごす中で、私たちの日常生活における「待つこと」と「喜び」について考えてみましょう。

私たちの生活は「待つこと」の連続です。電車を待つ、返事を待つ、人を待つ。そんな日々の「待つ」という経験は、しばしば焦りや不安を伴います。しかし、期待して待つ時、その過程自体が豊かな意味を持ちます。例えば、大切な人との再会を待つ時、その待つ時間そのものが喜びに満ちているように。アドベントの「待つ」も同様に、神の約束を信頼して待ち望むことで、深い喜びを見出すことができるのです。

困難の中の喜び

また、現代社会において、多くの人々が様々な困難に直面しています。経済的な不安、関係の断絶、健康上の問題など、希望を見失いそうになる状況は少なくありません。しかし、マリアが絶望的な状況の中で神への信頼に基づく喜びを見出したように、私たちも現代の課題の中で希望を見出すことができます。それは、問題の即座の解決を意味するのではなく、困難の中にあっても神によって支えられているという確信です。

さらに、クリスマスシーズンは、消費社会の中で物質的な豊かさや表面的な華やかさに囲まれがちです。贈り物、装飾、パーティーなど、それ自体は喜ばしいものですが、時としてより本質的な喜びを見失わせる可能性もあります。この時期だからこそ、物質的な喜びを超えた、より深い喜びについて考える機会としたいものです。

それは例えば、家族や友人との真摯な対話、教会での分かち合い、静かな祈りの時間、あるいは他者に仕えることを通じて経験される喜びかもしれません。また、日々の生活の中で、小さな恵みに気づき、感謝することから生まれる喜びもあるでしょう。

喜びの実現を困難にしているものとは?

私たちの実際の生活において、人間関係の中での痛みや困難は避けられない現実です。家族や友人との対話が行き詰まり、教会での交わりにおいても傷つき、期待していた喜びの分かち合いが実現できないという経験は少なくありません。

このような現実に直面するとき、私たちは「真の交わり」や「喜びの共有」という言葉が、時として理想論のように感じられ、現実との間に大きな隔たりを感じることがあります。家族との関係では長年の複雑な感情が絡み合い、友人との間では誤解や失望が生じ、教会という場でさえも、人間関係の難しさから深い痛みを経験することがあります。

こうしたことで、人々は深い関係性を築くことに躊躇する傾向にあります。表面的な人間関係や、真剣な関わりを避けようとする態度の根底には、自己開示することへの深い躊躇があるのではないでしょうか。

この自己開示への躊躇には、様々な要因が考えられます。まず、本当の自分を見せることで拒絶されるのではないかという恐れ、弱さや不完全さを知られることへの不安があります。また、過去の痛みを伴う経験が、新しい関係を築くことへの障壁となっているかもしれません。

さらに、SNSなどで「完璧な自分」を演出することが求められる現代の文化や、「弱さを見せてはいけない」という暗黙の価値観も、この傾向に拍車をかけています。効率性や生産性を重視する社会の中で、時間をかけて信頼関係を築くことは、ますます困難になっているように見えます。

しかし、このような人間関係の現実こそが、神が人となって私たちの中に来られた意味を考える重要な文脈となります。神は、私たちの関係性の痛みや困難を十分に理解した上で、なお私たちと関わることを選ばれました。私たちの不完全さや弱さを含めて受け入れ、理解してくださるのです。神は私たちの全てを受け入れ、ありのままを愛してくださいます。パウロが語るように、むしろ弱さこそが神の力が現れる場となりうるのです(コリント第二12:9-10)。

この理解は、私たちの人間関係における現実的な困難を軽視したり、無視したりすることではありません。むしろ、それらの困難や痛みをも含めて、神の前に率直に持っていくことができるという希望を与えてくれます。完璧な関係性を求めるのではなく、互いの不完全さを認めながら、少しずつ歩みを進めていく勇気を与えられるのです。

自己開示できる場へと

教会とは、まさにこの神の愛を体現する場となるよう召されています。それは互いの弱さを受け入れ合い、共に成長し、支え合う関係性を築く場です。ここでは、赦しと和解が実践されることによって、真摯な自己開示が可能となる場です。

アドベントの時期に考える「自己開示」について、より本質的な視点があります。それは、自己開示が第一義的には神との関係において問われるということです。

私たちは他者との関係を深めようとしますが、その土台には神との関係が据えられていなければなりません。まず問われるべきは、私たち自身が神に対してどれほど心を開いているかということです。表面的な関係に留まることなく、神の前に自分のありのままを置く姿勢が求められています。

神との真実な関わりを持つとき、私たちは神の愛をより具体的に体験することができます。自分の弱さや不完全さを神の前に置くことができるという理解は、深い喜びと癒しをもたらします。なぜなら、神は私たちの全てを知りながら、なお愛し続けてくださるからです。

このような神との関係における自己開示の体験は、他者を理解し、受け入れる土台となります。神の前で自分自身を知り、受け入れられる体験を持つことで、私たちは他者に対しても開かれた心を持つことができるのです。
アドベントは、神が私たちに深く関わってくださることを待ち望む時期です。この時期に、まず神との関係における自己開示を深め、そこから他者との真実な関係へと歩みを進めることができるのです。

神みずからが心を開いたクリスマス

アドベントは、神が人となってこの世に来られたという究極の自己開示を待ち望む時期でもあります。神は、私たちと同じ人となり、この世に来られました。神はイエス・キリストを誕生を通して、人間に対して神とはいかなるお方であるのかを示したことであり、これほど徹底的な自己開示はありません。しかも、全能の神が、か弱い幼子として生まれ、私たちと同じように喜び、苦しみ、そして死を経験されたのです。

このことは、神が私たちとの関係をいかに大切にされているかを示しています。神は遠い存在として留まることなく、私たちの生活の現実の中に入ってこられました。それは、私たちが神をより深く知り、理解することができるようにとの深い愛の表現です。

このような神の姿勢は、私たちに自己開示の真の意味を教えてくれます。それは単なる情報の開示ではなく、相手との深い関係を築くための愛の行為なのです。神は、キリストを通して私たちに完全な愛と理解を示してくださいました。アドベントは、この驚くべき神の自己開示を心に深く刻む時期なのです。

神が人となって私たちの中に来られたという深い関わりを知った私たちは、新しい関係性の可能性を見出すことができます。神は人となることで、私たちの喜びも、悲しみも、弱さも、全てを理解してくださいました。このような徹底的な理解と関わりを示してくださった神の愛を知ることは、私たち自身の人間関係のあり方を変えていくはずです。

表面的な関係や物質的な満足を超えて、より深い喜びへの道が開かれるのです。それは、神が私たちの現実に深く入り込んでくださったように、私たちも互いの人生により深く関わり合うことができるという希望です。クリスマスの出来事は、神が人となることで示された究極の理解と愛の形を私たちに教えてくれます。この神の模範に倣い、私たちも互いにより深い理解と愛を持って関わることができるのです。

このように、アドベントの期間は、現代を生きる私たちが「待つこと」の意味を再発見し、困難の中でも希望を見出し、より本質的な喜びを追求する機会となります。それは、2000年前のマリアの経験が、今を生きる私たちの人生にも深く関わっているということの発見でもあるのです。

喜びへと向かわせるために


アドベント第3週を過ごすにあたり、私たちは具体的な実践を通して、神の臨在をより深く意識し、喜びを体験することができます。

まず、日々の生活の中で神の臨在に気づく習慣を育むことから始めましょう。それは、朝の目覚めの時、通勤や通学の道すがら、仕事や学びの合間、そして一日の終わりに、神の存在を意識的に感じ取ろうとする実践です。たとえば、空の美しさに目を留める時、人々との出会いの中で、また日常の小さな出来事の中にも、神は私たちと共にいてくださることを覚えることができます。

次に、周囲の人々と喜びを分かち合う具体的な方法を実践していきましょう。それは必ずしも大きな行動である必要はありません。例えば、家族や友人に感謝の言葉を伝える、励ましの手紙を書く、必要としている人に手を差し伸べる、あるいは単に相手の話に耳を傾けることかもしれません。特に、普段は見過ごしがちな相手への配慮や、忙しさの中で後回しにしてきた関係の修復にも目を向けたいものです。

そして、感謝の祈りを実践することです。私たちはしばしば、問題や課題に目を奪われがちですが、感謝の祈りは私たちの視点を変えてくれます。その日に経験した恵みを振り返り、神に感謝を捧げる時間を持つことで、日常の出来事の中に神の導きを見出すことができます。小さな喜びや、当たり前と思っていた祝福に気づくことは、より深い喜びへとつながっていきます。

アドベントにおける私たちの実践は、単なる形式的な行為や、自己啓発的な努力に終わるものであってはなりません。むしろ、それは神が人となられたという驚くべき出来事に深く根ざしたものとなるはずです。

神は、遠い存在としてではなく、人となって私たちの現実の中に入ってこられました。この神の徹底的な関わりを思い巡らせることは、私たちの日々の実践に新しい意味を与えてくれます。私たちが神の臨在に気づこうとする時、感謝の祈りを捧げる時、あるいは他者との関係を深めようとする時、それは神が示してくださった具体的な関わりの道筋を辿る営みとなります。

神は抽象的な教えを与えるだけでなく、具体的な人としての生を生きることで、私たちに関わりの模範を示してくださいました。このことを心に留めながら、私たちも具体的な実践を通して、神との関係をより深く体験することができます。それは同時に、他者との関係においても、より深い理解と共感をもたらす道となるでしょう。

アドベントのこの時期、神の受肉という驚くべき出来事を黙想しつつ、私たちも具体的な実践を通して、神の臨在と喜びをより深く体験する機会としていきたいものです。それは、時として困難や痛みを伴うプロセスかもしれませんが、神が私たちと共にいてくださるという確信のうちを歩む道となるはずです。アーメン。

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高木高正|東松山バプテスト教会 代表・伝道師
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。