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あなたの心に何の種をまくのか 『種まきのたとえ』

イエスのたとえ話シリーズ No.3 種まきのたとえ

2024年6月16日

マタイによる福音書13:1-23

マタイによる福音書
13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

タイトル画像:日没の種まく人 / Vincent Willem van Gogh 世界のタグ名画からの画像


はじめに


「種まきのたとえ」は、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカの福音書に記載されており、日曜学校や説教で頻繁に取り上げられる部分です。

その内容は平易で理解しやすく、子供から大人までが聞いて理解できるものです。これは、イエス・キリストのたとえ話の中でも特に重要な部分であり、マルコの福音書を除く共観福音書では、ほぼ1章の約半分の分量がこのたとえ話に割かれています。これは、聖書の著者たちがこの内容を非常に重要視していたことを示しています。

したがって、読者に対する著者の意図としては、この部分は特に注意深く記憶し、その言葉を深く考えてほしいという強い願いが込められていると言えるでしょう。

種まきのたとえ


マタイによる福音書
13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

さて、このたとえ話のあらすじを紹介しますと、まず、種をまく人が種をまき、その種が4つの場所に落ち、その結果がどうなったかというものです。
その種は何の種であったかといえば、大麦か小麦でした。
麦は、畑に直接種を蒔くことで栽培を始めます。現代は種まきは、うねに10cm間隔で深さ数センチの穴をあけ、2、3粒ずつ種子を入れ、パラパラと土をかぶせて種まきを行います。

イエス・キリストの時代は、耕した畑に農夫が種を直播きしたと言われています。農夫は畑の中を巡りながら種をまきました。また、穴を開けた袋に種を入れてろばに背負わせる方法もありました。現代のように種を無駄にしないという発想はあまりなかったようで、当然のことながら、意図しないところに落ちる種もあったようです。現代の感覚からすれば雑な気もしますが、機械もない時代ですから、広い耕地に蒔くというのは時間的な制約もあったことでしょうから、こういう方法が取られたのかもしれません。

畑のあぜ道に落ちる種は鳥のえさとなります。また、パレスチナの畑は岩が露出したところもありますから、岩地にまかれれば、直射熱ですぐに暖まるので、発芽は早いのですが根を深く張れないので、強い日差しに枯れてしまいます。また、繁殖力の旺盛ないばらの中に落ちれば、いばらにふさがれて実を結べません。

『イバラ:サルコポテリウム』By RickP - Self-photographed, CC BY 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2736457

しかし、よく耕された畑に落ちた種は、実りに違いはあってもたくさん実を実らせることが示されています。

イスラエルの麦畑 DaphnaAMによるPixabayからの画像

そうした当時の農作業を直接見ていた、あるいは、携わった農業を営む人々にとって、この種まきのたとえは非常に関心を惹いたことでしょう。

さて、18節から23節にかけては、たとえ話の解釈が示されています。この部分では、「種」は神の国の到来を告げる神の言葉を象徴しています。残念ながら多くの人々は、これらの言葉を聞いても理解できず、結果として悪魔によってその言葉が奪われてしまいます。

また、神の言葉を受け入れる人々の中には、困難や迫害に直面したときに信仰を失う人々や、世俗的な願望や富の誘惑によって信仰の成果を結ぶことができない人々もいます。しかし、神の言葉を真心から受け入れ、理解し、神の意志に従って行動する人々も存在します。同じ神の言葉を聞いても、聞く者の心の状態によって、その受け取り方には大きな違いが生じます。

神の国はイエス・キリストによって到来しましたが、この事実は、信じることによってのみ信仰を持つことができます。そのため、神の言葉を受け入れない人々が出てくることは仕方のないことかもしれません。また、神の言葉を受け入れる人々の中でも、その受け入れ方によって大きな差が生じます。これらの現実は、神が啓示した奥義であるということです。

このたとえを語った時の状況

マタイによる福音書
13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

マタイによる福音書13章1節を見ていきますと、『その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。』と書かれています。これは、マルコの福音書4章の記事もイエスの母と兄弟たちが面会する記事の後に種まきのたとえが記されていますが、ルカによる福音書では、母と兄弟たちの面会後、たとえが語られるという順序になっています。

物語の順序に相違があるものの、パリサイ人の悪意のある中傷や、主イエスを殺害しようとする陰謀から身を守る意図もあったため、彼のメッセージを聞こうとして殺到する群衆にこのたとえを語りかけるために、家から出て、ガリラヤ湖に出て舟を漕ぎ出し、みぎわに群がる群衆を前に舟からたとえを語り始められました。

マタイによる福音書
12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
12:24 これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

なぜたとえ話で語られたのか


イエスがたとえを語り終えられると、すぐに弟子たちが疑問を挟みます。

マタイによる福音書
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

どうしてたとえでなく直接語らないのかと弟子たちは質問します。この問いに対して、イエスは神の国の教えを理解する者としない者に分れることは避けがたいことであると説明します。11節には『奥義』とあります。ギリシャ語本文では、μυστήρια(ミステリア)原型はミステリオン。英語の ミステリーの語源です。 神秘であるとか、 聖書では、「謎」というように訳出されますが、その意味は、知ることのできないものではなく、神の啓示によってのみ知ることのできるものを意味します。

ですから、イエスがたとえを用いて語ったのは、人間の洞察や学問や学識によってではなく、神の啓示によってのみわかる真理を語ったということです。イエス・キリストはマタイ13:12の中で、『 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。』と語られましたが、霊的な理解においても同樣なことが起きます。

たとえを用いるのは、見ているようで実は見ていない者たち、聞いているようで真に把握していない者たちがいることを教えます。

神の奥義と選び


マタイによる福音書
13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

イエスは、弟子たちにたとえの意味を答えるにあたって、マタイ13:14-16の中で、イザヤ書6:9-10の引用をしますが、そこには、神の民イスラエルが霊的に鈍い姿を語るだけでなく、彼らに対するさばきを示しています。

そのさばきとは、救い主イエス・キリストを目撃していながら、神の子、メシアとも認識できなかったことです。イエス・キリストは旧約聖書を成就したお方でしたが、彼らは一言一句旧約聖書を知ってはいました。しかしながら、旧約聖書を成就したお方を前にしても、その存在を認めることができず、死に追いやりました。

ですから、聖書を詳しく知っている学者であっても、永遠のいのちのことばを持つイエス・キリストを自分の救い主であると信じていないならば、その聖書の学識は空文であるのです。

一方、弟子たちは無学に等しい人物たちでした。しかし、知識においては完全でなくとも霊的な理解力を持っているので幸いでした。旧約の預言者たち、義人たちが知りたいと切望したメシアの目撃をかなえられなかったことが、直接に出会っているからです。

私が神学校に在籍していた際、教師がある神学者について言及していました。過去のことですので、その神学者の名前を思い出すことができないのですが、その神学者は、ある地方を訪れた際に、年配の女性と出会ったとのことです。その女性の行動や信仰を目の当たりにしたとき、神学者は深く感銘を受けたと言います。彼は、素朴な信仰がどれほど美しく、福音をどのように表現しているかを認識しました。

その神学者は、キリスト教界で名を知らしめるような学者でありながら、この女性との出会いは彼に強烈な印象を与えたと述べています。キリスト教の学問を極めたとしても、真の意味でキリストの救いを理解したわけではありません。

たとえ、神学についての深い理解は無くとも、それが素朴な信仰であったとしても、イエス・キリストとの交わり、出会いというものが人を大きく変えるということです。

御言葉を語る時の注意すべきこと

この部分でも明らかですが、イエス・キリストを直接目撃しながらも、否定的な立場を取った人々や拒否する人々は、表面的な意味は理解できても、そのたとえ話の真の意味は理解できませんでした。もし、神の言葉を直接的に語ったとしたら、その結果はどうなったでしょうか。

イエス・キリストは、舟を沖に出してまでメッセージを伝える必要があったということです。12章から続く一連の周囲の動きに不穏な空気を感じ取っていました。彼は命の危険ということも考慮に入れながらメッセージを語る必要あったことです。直接的に語らなくても、理解できる人には理解できるように、反感を抱く可能性のある相手には言質を取られないように語ることが必要だったのでしょう。

実際に、現代社会でも、福音を公に語ることが許されない状況が多く存在します。福音を公に語ると逮捕される国も存在します。そうした国では、人々に福音を伝えるためには、相当な注意を払う必要があると聞かれます。

日本においては、直接的に語ることは法的に許されていますが、直接的に語ると反感を持たれるという状況がしばしば生じます。この国では、語る際の配慮が非常に重要とされています。

たとえ話を理解できる恵み

イエス・キリストの時代にも、そして現代の日本においても、神の言葉を聞き、それを信じることの価値は計り知れません。私たちは、イエス・キリストが語ったたとえ話を理解できるように選ばれていることを心に留めておくべきです。さらに、その神の言葉を深く思い巡らし、それを行動に移すように変わっていくことが求められます。
また、選びのうちにあって、人それぞれに違いはあるかもしれませんが、どのクリスチャンも必ず実を結ぶようにされているということを忘れてはなりません。

今日、あなたの心の畑に、主は何の種を蒔きましたか。その種はすでに発芽し、生命の芽吹きを見せていますか。それは十分に成長し、力強く立っていますか。そして、それはどのような実をつけているのでしょうか。

これらの問いは、私たちが日々直面する生活の中で、イエス・キリストが私たちに投げかけ続けている問いです。湖面から、彼は私たち一人ひとりに向かって、自身のいのちをかけて問いかけています。

そして、その問いに対する答えは、私たち自身の心の中にあります。私たちの信仰、行動、そして生き方が、その答えを形作ります。

だからこそ、私たちは日々、自分自身を見つめ直し、神の言葉を心に留め、それを行動に移すことが求められます。そして、その過程を通じて、私たちは神の愛と恵みをより深く理解し、それを周りの人々と共有することができます。

だからこそ、私たちは「アーメン」と言います。それは、「そうあらんことを」という意味で、私たちの信仰と希望、そして神への信頼を表しています。私たちは、神の愛が私たちの生活の中で実を結び、神の国がこの世界に広がっていくことを信じて、「アーメン」と言います。

だから、今日も私たちは、心を込めて「アーメン」と言います。それは、私たちが神の愛と恵みを信じ、それを日々の生活に生かしていくという強い決意を表しています。ハレルヤ!

適 用


  1. 信仰を深めていただこう
    私たちは、イエス・キリストが語ったたとえ話を理解し、それを行動に移すことが求められています。単純かつ平易な御言葉の中に私たちに語りかける聖霊の声に耳を傾ける姿勢こそが、イエス・キリストに立ち返ることであり、私たちが日々の生活の中で神の言葉をどのように適用していくかということが問われています。

  2. 信仰を共有する思いを強めていただこう
    イエスは、今回のたとえを語るにあたり、ある意味命がけであったことが想像されます。そうした中でも語り続けた。それは、信仰を他者に共有する重要性を示しています。イエス・キリストの時代にも、そして現代の日本においても、神の言葉を聞き、それを信じることの価値は計り知れません。時が良くても悪くても、伝えるチャンスを逃さないようにしましょう。

  3. 信仰のチャレンジに応えよう
    イエス・キリストは、このメッセージを語るうえで、自分の命の危機を覚えつつつ、人々の伝える挑戦についても教えてくれています。福音を公に語ることが許されない状況が多く存在します。福音を公に語ると逮捕される国も存在します。そうした国では、人々に福音を伝えるためには、相当な注意を払う必要があると聞かれます。これは、私たちが信仰に直面する挑戦にどのように立ち向かうのかということも教えてくれます。

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高木高正|東松山バプテスト教会 代表・伝道師
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