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聖書の山シリーズ4 モーセ終焉の地 ネボ山(ピスガの頂)

Mount Nebo, view to north east. Photo by Berthold Werner


2022年8月14日 礼拝

聖書箇所 申命記34章1節-3節


申命記34:1
モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、
34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、
34:3 ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。
34:4 そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」
34:5 こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。


はじめに

今回取り上げる山はネボ山です。ピスガの峰として聖歌では歌われる山ですが、この峰は、モーセが亡くなった地として有名な場所になります。信仰の偉人モーセの最期を飾るにはふさわしい地であるこのネボ山をご紹介いたします。


ネボ山

ネボ山は、ヨルダンのアバリム山脈に属する重要な峰の一つです。民数記33章47節にも言及されているこの山は、その地理的位置と歴史的意義から、聖書の世界において特別な地位を占めています。
「アバリム」という名称は、「かなたの地方」を意味し、パレスチナの住民たちによって名付けられたと考えられています。この呼称は、山脈がパレスチナから見て遠方に位置することを示唆しており、当時の人々の地理的認識を反映しています。
ユダ山地から東方を眺めると、死海の向こう側に広がるアバリム山脈の姿を目にすることができます。この山脈は、その地質学的特徴として帯紅色のヌビア砂岩から構成されています。この独特の色彩は、日の出や日没時に特に美しく、地平線に壮大な景観を作り出します。

                                                Madaba Hills from Mount Nebo at sunrise.  Photo by Raya Sharbain

アバリム山脈は、その平均標高が約1000メートルに達する一連の山々から構成されています。この山脈は広範囲にわたって広がっており、その北限はヘシュボンになります。古代の重要な都市であるヘシュボンから山脈が始まります。南限はワディ・ゼルカ・マインで終わります。山脈の南端はこの渓谷まで続いています。ワディとは乾燥地帯に見られる季節河川のことで、この地域の地形と特徴を示しています。

アバリム山脈の中心的な峰がネボ山(ジェベル・エン・ネバ)になります。
現在ジェベル・エン・ネバとして知られるこの山は、標高802メートル。「ジェベル」はアラビア語で「山」を意味し、地元での呼称を反映しています。

この山脈は、古代から重要な交易路や軍事ルートを見下ろす位置にあり、地域の支配において戦略的に重要な役割を果たしてきました。

また、標高1000メートル前後の山々が連なることで、この地域特有の気候条件が生み出されています。山脈が障壁となって雨雲を捕捉し、周辺地域よりも比較的湿潤な環境を作り出しています。

こうした気候が、生態系の多様性を生み、標高の変化に富む地形は、多様な生態系を支える基盤となっています。低地と高地で異なる植生や動物相が見られ、地域の生物多様性に寄与しています。

特にネボ山(ジェベル・エン・ネバ)は、その標高802メートルという比較的低い高度にもかかわらず、周囲の地形との対比により際立った存在感を示しています。この山からの眺望は、聖書の記述にある「約束の地を望む」という象徴的な意味を現実のものとしています。

この山脈の構成岩石や地層は、地域の地質学的歴史を物語っています。特に先述のヌビア砂岩の存在は、古代の海底や砂漠環境の痕跡を示しており、地球科学的にも興味深い研究対象となっています。

このように、ネボ山を含むアバリム山脈は、その地理的特性によって、歴史、宗教、生態学、気候学など多岐にわたる分野で重要な役割を果たしています。その存在は、自然環境と人類の歴史・文化の密接な関係を如実に示す好例といえるでしょう。

死海から見上げたネボ山は、その実際の標高(802メートル)以上に高く見えます。海抜マイナス400メートルの死海から見上げますと、それは1200メートルの高さに見えます。低山に思えるネボ山ですが、死海から望むこの劇的な高低差が、ネボ山をより壮大に、より威厳のある存在として際立たせています。

ネボ山は死海の東北端から東に約9キロメートルの位置にあるため、この位置関係により、山頂からはイスラエルの聖地の広大な全景を一望することができます。さらに北方向には、ヨルダン川渓谷の一部を見渡すことができ、聖書の物語に登場する多くの重要な地点を一望できます。

このネボ山頂からの抜群の眺望は、聖書の地理を実感できる貴重な経験を提供します。たとえば、エリコの西岸地区です。山頂から西方向を望むと、ヨルダン川西岸に位置する古代都市エリコを見ることができます。エリコは世界最古の都市の一つとされ、聖書の多くの物語の舞台となっています。
また、エルサレムも目視できます。天候が良好な日には、さらに遠方にあるエルサレムまで望むことができます。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であり、この眺望は宗教的にも歴史的にも深い意味を持ちます。

この広大な眺望は、聖書に記されているモーセの最後の瞬間を想起させます。申命記34章1-4節には、神がモーセにこの山から約束の地を示したことが記されています。現代の訪問者は、モーセと同じ視点から景色を眺めることで、聖書の物語をより身近に感じることができます。

こうして、ネボ山の位置は、古代の交易路や軍事ルートを見下ろす戦略的な場所であり、文化的、歴史的に、この地理的特性は、考古学的発見と相まって、この地域の歴史的重要性をさらに裏付けています。

                                       A view of the Dead Sea from atop Mount Nebo, Jordan. Photo by   9999


申34:1に出てくるピスガの頂上は、ネボ山の西方にあり、鞍部で隔てられたラス・エス・シアガ(標高700メートル)とされています。
そこからは、死海が眼下に横たわり、荒野を見下ろすことができます。
この頂でモーセは、この山頂から約束の地を見渡して死んだとあります。

分水嶺であるネボ山

モーセの最期の地であるネボ山があるヨルダンと、約束の地カナンの地理的・気候的な対比は、非常に興味深い視点を提供します。この対照的な環境は、単なる自然現象以上の意味を持ち、聖書の物語や信仰の象徴として深い意味を持っています。

イスラエルとヨルダンの地理的特徴を見てみますと

イスラエル(カナン)
地中海性気候の影響を受ける
中央高原地域が分水嶺となり、冬季に雨をもたらす
比較的肥沃な土地で、「乳と蜜の流れる地」と表現される

ヨルダン
乾燥した砂漠気候
イスラエルの中央高原で雨を降らせた後の乾燥した空気が流れ込む
全体的に乾燥しているが、死海沿いにオアシスが点在

この地理的な違いは、イスラエルの中央高原地域が重要な役割を果たしています。このネボ山が代表する高原地帯が分水嶺となり、地中海からの湿った空気を遮り、西側(イスラエル側)に雨をもたらす一方で、東側(ヨルダン側)には乾燥した空気が流れ込むことになります。

さらに、地下水の流れも重要な要素です。中央高原に降った雨が地下を通って東に流れ、死海沿いにいくつかの泉となって湧き出すことで、乾燥地帯にオアシスを形成しています。

ヨルダン川と死海地溝は、この二つの地域の間の明確な境界線となっています。この地形的特徴が、「乳と蜜の流れる地」と呼ばれるカナンと、乾燥した砂漠地帯であるヨルダンとの対比を鮮明にしています。

このヨルダンとカナンの地理的な対比は、聖書の物語において深い象徴的意味を持ちます

約束と成就
カナンは神の約束の地を象徴し、ヨルダンは約束の直前の地を表します。
試練と報酬
ヨルダンの乾燥地帯での40年間の放浪は試練の時期を、カナンは神の祝福と報酬を象徴します
変容と新生
ヨルダン川を渡ることは、古い生活から新しい生活への移行を象徴します。
神の摂理
乾燥地帯でさえオアシスを生み出す水の流れは、困難な環境においても働く神の恵みを表しています。

モーセがヨルダンの地で最期を迎えたことは、彼の人生と使命の完遂を象徴しています。彼は民をエジプトから導き出し、約束の地の寸前まで連れてきました。カナンを目の当たりにしながらも入ることができなかったモーセの姿は、人間の限界と同時に、神の計画の壮大さを示しています。

この地理的な対比は、私たちの人生や信仰の旅路にも重要な示唆を与えています。時に私たちは「ヨルダン」のような乾燥した困難な場所にいるように感じることがあります。しかし、その経験を通じて成長し、やがて「カナン」のような祝福の地に到達する希望を持つことができるのです。
最後に、この地理的な対比は、自然環境が人々の歴史や信仰に与える影響の大きさを示しています。地形や気候が、単なる物理的な要素を超えて、人々の世界観や信仰体系の形成に深く関わっていることを教えてくれるのです。

モーセの生涯

モーセの死を告げる神

これからカナンの地にヘブル人が入ろうとする前に、神はモーセに語ります。

申命記
31:1 それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、
31:2 言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。
31:3 あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。

いのちのことば社 新改訳聖書第3版

モーセの生涯の最終章は、深い感動と静かな諦念が織り交ぜられた物語です。120歳を迎えた預言者は、神から最後の啓示を受け取ります。それは、彼の長年の夢であったカナンの地に足を踏み入れることはできないという、悲痛な知らせでした。

エジプトからの脱出を導き、シナイ半島での40年に及ぶ放浪を通じて民を導いてきたモーセ。彼の心の中には、約束の地に到達するという強い願いが燃え続けていたことでしょう。ヨルダン川のほとりまでたどり着いた時、その願いはより一層強くなっていたはずです。

しかし、神の計画は人知を超えるものでした。カナンの地に進むのは若きヨシュアであり、モーセ自身はその地を目にすることはできても、踏み入れることは許されませんでした。この啓示を受けた時、モーセの心中は複雑な感情で満ちていたことでしょう。

長年の奉仕の末に目標を達成できないという絶望感、自らの過ちを悔やむ後悔の念、そして神の意志に従う謙虚さ。これらの感情が交錯していたに違いありません。

しかし、モーセの偉大さは、この最後の試練においても神の意志を受け入れ、次世代の指導者にバトンを渡す決断をしたことにあります。彼の人生は、個人の願望よりも大いなる目的のために生きることの意義を体現しています。

モーセの物語は、人生の目標が必ずしも自分の手で完遂されるとは限らないという深遠な教訓を私たちに示しています。時として、私たちの役割は次の世代のために道を整えることにあるのかもしれません。この視点は、個人の成功や達成を超えた、より大きな使命感を私たちに与えてくれるのです。

モーセの人生

モーセの生涯は、壮大な神の計画の中で展開された波乱に満ちた物語です。エジプト王家で恵まれた青年期を過ごした彼は、同胞ユダヤ人の苦境に心を痛め、エジプト人への制裁を機に逃亡生活を余儀なくされました。

その後、異郷の地で80年に及ぶ羊飼いの日々を送ったモーセは、シナイ山で神の啓示を受けます。「わたしはある」と名乗る神は、後のイエス・キリストの前身とされ、モーセにヘブル人解放の使命を託しました。

エジプトからの脱出を成し遂げたものの、シナイ半島での40年に及ぶ放浪は、ヘブル人の信仰の試練となりました。奴隷の地エジプトを懐かしむ彼らの不信仰は、神の怒りを招き、約束の地カナンへの到達を遅らせることとなったのです。

モーセの120年の生涯は、個人的な富や名声とは無縁の、神の意志に従う道でした。しかし、この従順さゆえに、彼は神の導きの下で困難を乗り越え、民を導く偉大な指導者となりました。

モーセの人生は、神の計画に身を委ねることの意義と、信仰の力を如実に物語っています。彼の生涯は、世俗的な成功よりも高い目的のために生きることの価値を私たちに示しているのかもしれません。

自分の幸せに生きたのなら

モーセの人生と最期の場面は、人間の運命と神の計画が交錯する物語です。。この物語を現代的な視点で考えてみますと、そこで人生の意義と選択の重要性について深い洞察を得るでしょう。

もし、モーセが神の召命を拒否し、ミデヤンの地で羊飼いとして平穏な生活を送っていたら、確かに彼は「小さな幸せ」を味わいながら老年を過ごせたかもしれません。

この仮説は、ブロニー・ウェア氏が著書「死ぬ瞬間の5つの後悔」で指摘している人生の最期に感じる後悔と、興味深い対比を成しています。

ウェア氏が挙げる5つの後悔は、現代社会を生きる多くの人々の共通の悩みを反映しています:

  1. 自分に正直な人生を生きること

  2. 働きすぎないこと

  3. 気持ちを素直に表現すること

  4. 人間関係を大切にすること

  5. 幸せを追求し続けること

これらの要素をモーセの人生に照らし合わせると、彼の選択の重みがより鮮明に浮かび上がります。モーセは、後悔する選択をしました。
自身の安楽を捨て、神の召命に従う道を選んだのです。この選択は、一見すると「幸せをあきらめる」ことのように思えるかもしれません。しかし、それは同時に「神の前に正直な人生を生きる」ことでもあったのです。

モーセの人生は、確かに労苦と試練に満ちたものでした。彼は民を導き、神の言葉を伝えるという重責を担い、その使命に人生を捧げました。人間的な視点からすれば、そのような献身の末に何らかの報酬や慰労を期待するのは自然なことでしょう。しかし、神はモーセに約束の地への入場を許さないという、一見厳しい判断を下しました。

この神の決定は、人間的な基準では理解し難いものかもしれません。しかし、ここで注目すべきは、モーセの最期の状態です。申命記34章7節によれば、モーセは120歳でありながら、その目は曇らず、気力は衰えていなかったとされています。これは単なる肉体的な健康以上のものを示唆しています。それは、モーセが生涯を通じて保ち続けた精神的な明晰さと、神との深い関係性を象徴しているのです。

確かに、神のモーセへの言葉は、人間的な視点からは残酷に映るかもしれません。しかし、この場面は同時に、人生の価値が単に個人的な願望の達成や物理的な報酬にあるのではないことを示唆しています。モーセの人生の真の価値は、彼が神の計画の中で果たした役割、そして彼が民に示した導きと信仰の模範にあったのです。

モーセの物語は、私たちに人生の選択の重要性を教えています。それは、安楽や個人的な満足を超えた、より大きな目的のために生きることの意義を問いかけています。同時に、この物語は神の計画の神秘性と、人間の理解を超えた神の知恵についても深い洞察を与えてくれます。

最終的に、モーセの人生は「後悔」というよりも、むしろ成就と完成の物語として理解することができるでしょう。彼は自らの使命を全うし、民を約束の地の門前まで導きました。そして、神との親密な関係の中で、地上の生涯を終えたのです。

この物語は、私たち一人一人に、自らの人生の意味と目的について深く考えることを促しています。それは、単なる個人的な満足や成功を超えた、より大きな視点から人生を見つめ直す機会を提供しているのです。

ピスガの峰に登る

申命記
34:1 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、
34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、
34:3 ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。

いのちのことば社 新改訳聖書第3版
                 Mount Nebo, view to north east. Photo by Berthold Werner

モーセの生涯の最終章は、深い象徴性と静謐な諦念に満ちています。神は、約束の地を目前にしたモーセをネボ山の頂に導き、イスラエルの全土を一望させました。ギルガデからダン、ナフタリからユダ、そして遠くネゲブまで、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに約束された地の全容が、モーセの眼前に広がりました。

この光景は、モーセの人生と使命の集大成であると同時に、彼自身がその地を踏むことはできないという現実の象徴でもありました。一見、非情にも思えるこの神の決定は、しかし、モーセ自身の自覚と深く結びついていたのです。

申31:2 言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。

いのちのことば社 新改訳聖書第3版

申命記31章2節に記されているように、モーセは120歳という高齢に達し、自らの身体機能の衰えを強く意識していました。「もう出入りができない」という彼の言葉は、単なる謙遜ではなく、現実的な自己認識を示しています。さらに、これに続く彼の辞世の言葉は、自らの死期を悟っていたことを示唆しています。

モーセは、すでに次の指導者の選定や、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入る計画について、熟考を重ねていたことでしょう。神がモーセに死期を告げたのは、まさにこの深い内省の時期でした。それは突然の宣告ではなく、モーセの内なる準備と呼応するものだったのです。

この文脈で見ると、神の決定は非情なものではなく、むしろモーセの人生の自然な結論であり、彼の使命の完遂を意味するものだったと理解できます。モーセは、約束の地を目にすることで自らの使命を全うし、次世代にバトンを渡す準備を整えたのです。

この物語は、個人の願望や成功を超えた、より大きな目的のために生きることの意義を私たちに示しています。同時に、人生の終わりに向き合う勇気と、次世代に道を譲る謙虚さの重要性を教えてくれるのです。モーセの最後の瞬間は、彼の生涯全体を象徴する、崇高な精神性に満ちた出来事だったと言えるでしょう。

死ぬ前に考えていたこと

モーセの人生の最終章は、深い洞察と霊的成熟の結晶と言えるでしょう。彼は自身の死期を悟りながら、同時に民の未来と神の計画を見据えていました。神がモーセに死を告げたのは、単なる宣告ではなく、彼の内なる準備と神の計画が合致した瞬間だったのです。

申命記30章16節に示されているように、モーセが最後に民に伝えようとしたメッセージの核心は、神への愛でした。「あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守る」という言葉は、モーセの生涯をかけて得た深い洞察を反映しています。

申命記
30:16 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。

いのちのことば社 新改訳聖書第3版

注目すべきは、このメッセージの順序です。律法や戒めを守ることが前提ではなく、まず神を愛することが最も重要であるとモーセは強調しています。これは、形式的な宗教的義務よりも、心からの信仰と愛情を重視する姿勢を示しています。

モーセの人生を不遇だったと評するのは、表面的な見方に過ぎません。彼が過酷な召命に従い続けられたのは、まさに神への深い愛があったからこそです。この愛は、見返りを求めるものではなく、純粋で無条件なものでした。

モーセは、自らの経験を通して、神との関係の本質が愛にあることを深く理解していました。彼は、この根本的な真理を次世代に伝えることを、自らの最後の使命として認識していたのです。

この視点から見ると、モーセの人生は決して不遇ではなく、むしろ神の愛に満ちた、深い意味を持つ旅路だったと言えるでしょう。彼の最後のメッセージは、形式的な宗教観を超えた、真の信仰の本質を指し示しています。

モーセの物語は、私たちに、人生の真の成功とは何か、信仰の本質とは何かを問いかけています。それは、地位や富ではなく、神との深い関係性にあること、そして、その愛を他者に伝えることにあるのかもしれません。モーセの最後の教えは、時代を超えて、今なお私たちの心に響く普遍的な真理を含んでいるのです。

受けたから愛するのではないこと

モーセの信仰と現代の人間関係理論の対比は、非常に興味深い視点を提供します。返報性の原理は確かに人間社会で広く観察される現象ですが、真の信仰とは本質的に異なる性質を持っています。

モーセの神への愛は、チャルディーニが『影響力の武器』で説明した返報性とは一線を画すものでした。彼の信仰は、神からの見返りを期待するような取引的なものではなく、むしろ無条件の献身と信頼に基づいていました。

聖書の民数記12:3に記されているように、モーセは「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」とされています。この謙遜さは、神への絶対的な依存と信頼を表しています。モーセは、自身の能力や業績ではなく、神の導きと恵みに全幅の信頼を置いていたのです。

現代社会においても、この姿勢から学ぶべき点は多々あります。人間関係や日常生活において、「与えたから必ず返ってくるはず」という期待は、しばしば失望や軋轢を生み出します。代わりに、モーセのような無条件の愛と謙遜さを持つことで、より深い関係性と精神的な豊かさを得ることができるでしょう。

さらに、日常生活の中で当たり前と思っていることへの感謝の念を持つことも重要です。電気、水道、食事など、私たちの生活を支える全てのものが、実は驚くべき恵みであることを認識することで、より豊かな人生観を持つことができます。

モーセの生涯は、困難や苦難に直面しながらも、常に神への信頼を失わなかった姿勢を示しています。これは、現代を生きる私たちにとっても、深い示唆を与えるものです。物質的な見返りや即時的な報酬を求めるのではなく、より高い目的や価値観に基づいて生きることの重要性を教えてくれています。

結論として、モーセの信仰と生き方は、返報性の原理を超越した、より深い愛と献身の形を示しています。これは、単なる宗教的な教訓にとどまらず、現代社会における人間関係や生き方の指針としても大いに参考になるものと言えるでしょう。

終焉の地ピスガ

申命記
34:1 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、
34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、
34:3 ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。
34:4 そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」
34:5 こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。

いのちのことば社 【新改訳改訂第3版】

モーセの最後の旅路、ピスガの頂きへの登攀は、人生の集大成と信仰の極致を象徴する感動的な場面です。この物語から、私たち一人一人が人生において学び、励まされるべき深遠な教訓を汲み取ることができます。

120歳のモーセが、身体的な衰えを感じながらも、なお気力と認知力を保ち、ピスガ山に登ったという描写は、人間の精神力と信仰の力強さを雄弁に物語っています。彼の旅は、単なる地理的な移動ではなく、霊的な昇華の過程でもありました。

ピスガの頂上から約束の地を眺めるモーセの姿は、人生の終わりに立つ者の深い省察と満足感を表しています。彼の目に映った風景は、単なる地形ではなく、神との歩みの軌跡であり、民族の未来への希望でもありました。モーセにとって、この瞬間は神との親密な交わりの集大成であり、地上の目標を超えた永遠の視点を得る機会だったのでしょう。

私たちも、モーセのように壮大な使命を担うことはないかもしれません。しかし、各々の人生には「ピスガの頂」があります。それは、私たちが日々の苦労や試練を乗り越え、信仰によって高みに登る過程です。この旅路は、時に険しく困難を伴うかもしれませんが、頂に到達したときに得られる視野は、すべての苦労を償って余りある価値があるのです。

モーセの生涯から学ぶべき重要な教訓は、目の前の困難や一時的な挫折に惑わされることなく、常に高い理想と永遠の価値観を見据えて歩み続けることの大切さです。私たちの人生も、日々の小さな選択と行動の積み重ねが、最終的には壮大な旅路となるのです。

ですから、皆さん、自分自身の「ピスガの山」を見出し、それに向かって歩み続けましょう。たとえ道のりが長く、険しいものであっても、信仰と希望を持って前進し続けることが大切です。モーセのように、最後まで神との親密な関係を保ち、与えられた使命に忠実であり続けることで、私たちの人生も豊かな意味と深い満足感に満ちたものとなるでしょう。

どんな状況にあっても、自分の「ピスガ」を目指して歩み続けることを忘れないでください。そうすることで、私たちは日々の生活に新たな意味と目的を見出し、最終的には神の約束の地へと到達することができるのです。共に、信仰と希望を持って歩み続けましょう。

日々の暮らしのなかで


  1. 神を愛しましょう
    モーセの人生は、神を愛することが重要であることを教えてくれます。彼は困難な状況に直面しながらも、神への愛を失うことはありませんでした。私たちも同様に、日々の生活の中で神を愛し、神の道に歩むことを心がけるべきです。神を愛することは、私たちの信仰生活の中心であり、全ての行動と決定の基礎となります。

  2. 神の命令を守りましょう
    モーセは神の命令を忠実に守りました。彼は神の命令を守ることによって、神の約束の地を目の当たりにすることができました。私たちも神の命令を守ることによって、神の恵みと祝福を受け取ることができます。神の命令を守ることは、私たちが神を尊敬し、神の意志を尊重する証となります。

  3. 神の計画を信頼しましょう
    モーセは神の計画を信頼し、神が彼に与えた使命を果たすために全力を尽くしました。彼は自分の力ではなく、神の力を信頼しました。私たちも同様に、神の計画を信頼し、神が私たちに与えた使命を果たすことが求められます。私たちの力ではなく、神の力を信頼することで、私たちは神の恵みと祝福を受け取ることができます。神の計画を信頼することは、私たちが神の主権を認め、神の意志を尊重する証です。神の計画は完全であり、私たちの最善の結果を考慮に入れています。だからこそ、私たちは神の計画を信頼し、神の意志に従うことが求められます。神の計画を信頼することで、私たちは神の恵みと祝福を受け取ることができます。