ペテロの痛烈な叫び Ⅰペテロ5章8節
2023年6月11日 礼拝
Ⅰペテロの手紙
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
Νήψατε, γρηγορήσατε. ὁ ἀντίδικος ὑμῶν διάβολος ὡς λέων ὠρυόμενος περιπατεῖ ζητῶν [τινα] καταπιεῖν:
タイトル画像:Ian LindsayによるPixabayから
はじめに
皆さん、こんにちは。
私たちは日々さまざまな思い煩いや不安を感じることがあります。時には迷いや心配が私たちを取り囲み、どう対処すべきか分からなくなることもあるでしょう。しかし、そんなときには主イエス・キリストという支えを持つことと助言を求めることが重要です。
そのために、「ゆだねなさい」と前回の7節でペテロは語ります。これは神に心配や不安を投げかけることを意味します。私たちは心配事を完全に神に委ねる決意を持つことで、自己中心的な思考や計画にとらわれず、神の導きの下で生きることができるということを紹介しました。
ところが、ペテロはこうした慰めの言葉の後、内容が打って変わり、8節では悪魔(サタン)に注意することについて語ります。私たちが注意すべき対象としてサタンを挙げていますが、その意味についてご紹介したいと思います。
ペテロの命令
ペテロは、8節を見ますと、冒頭でΝήψατε, γρηγορήσατε.(ネファテ、グレーゴレーサテ)『 身を慎み、目をさましていなさい』と命令法で信徒に語りかけます。
身を慎むこと
『身を慎み』と訳されているギリシャ語ネファテの原型、νήφω(ネフォー)は、 「しらふである」(酔っていない)という意味です。ギリシャ語において、「酔わない、酔わない」ということは何を意味しているかといいますと、明瞭な判断力による心の余裕があることで、節制することができることだということです。
つまり、νήφωネフォー(酔っていない)は、「自分の知恵(能力)がある」ことを意味しており、不合理であることの反対であること、合理的知性と言い換えることができます。
この合理的知性とも言えるνήφωネフォーは、信仰に基づいた自制心を生み出し、信者が行き過ぎた(有害な)行動から免れることを意味します。こうした、力はどこから生み出されるのかと言いますと、それが聖霊の力によるものです。用心深く、聖霊が生み出す落ち着きで行動する人のことを伝えています。
さらには、ネフォーは、キリストの再臨を強く待ち望む信者を表しています。(Ⅰテサロニケ人への手紙5:6,8;Ⅰペテロの手紙4:7)。
目を覚ますこと
『目をさましていなさい』と訳されたγρηγορήσατε(グレーゴレーサテ)ですが、原型γρηγορέω(グレゴレウオー)は、「目を覚ましている」という意味であり、そこから「警戒する」「責任ある」「用心深い」という意味を持つ言葉です。
ところでグレゴレウオーの具体的な意味についてですが、下記にその詳細が紹介されています。
新約聖書の時代、神殿において監視の時間が決められていました。
Bullinger, Companion Bible, 74によると
第一監視 - 午後6時から午後9時まで
第二監視 - 午後9時から午前0時まで
第三監視 - 午前0時から午前3時まで
第四監視-午前3時から午前6時
というように決められており、その監視は厳格であったようです。つまり、間断なく監視し続けるということです。
再臨を覚えていくこと
主イエス・キリストは、マタイによる福音書の中でこう言います。
主イエス・キリストは、イエスの再臨があることを証言しました。ここで
アーチャーは、ほとんどのディスペンセーション主義者とは異なる見解を持っており、再臨はいつ起こっても不思議ではないことと、そのためには信徒の監視が重要だということです。
グレゴレウオーという言葉は、再臨の時を油断することなく、衛兵のように待つことを意味しているということです。それは、いつ来てもおかしくないという意識を持つことだという意味を含めているということをしっかりと持っていないといけない言葉だということです。特に説教者はこのことを深く覚えなければいけないでしょう。聖書の語る言葉は神話でも伝説でもありません。これから確実に起こり得ることをまっすぐに解き明かすメッセンジャーが必要であることです。
私たちは油断して、まだ主は来ないから大丈夫というような気持ちであってはいけないということです。この言葉の深い意味を探っていきますと、油断して怠るとその罰もあるということを心に覚えなければいけません。つまり、監視(御言葉を伝える)の重い責任を伴っている言葉でもあります。
終末期にあること
医療関係に携わっている方ならご存知かと思いますが、ターミナルケアにある人のケアに関わると、監視の種類や頻度が増大していきます。
医療関係者は、余命がわずかになった方に対し残りの余命を少しでも心穏やかに過ごせるように痛みや不安、ストレスを緩和し、患者様のQOL(クオリティオブライフ:自分らしい生活の質)を保つように努力します。
そうした中で必要なのは、バイタルサインのチェックや切れ目ない巡視と巡回が必要になります。
監視を怠ったばかりに患者様の命を落とすということがあるからです。特に重い患者様のいる現場では、こうした緊張感が常につきまといます。患者様の状態から目を離すことは決して許されないことです。
医療現場と同様に、実は霊的な世界においてもこれは同様なのです。先ほど紹介した、Νήψατε, γρηγορήσατε.(ネファテ、グレーゴレーサテ)『 身を慎み、目をさましていなさい』の言葉は、後にかかる『悪魔』に対しての信徒の行為のように思われます。
たしかにそう読めます。
悪魔に対して、身を慎み、目をさましていなさいということになります。
一方、ギリシャ語本文を見ていきますと、単に悪魔に対してという意味ではなく、そこには、二つのキーワードが浮かび上がります。
表面的には、悪魔に対する監視
本質的には、主の再臨による世の終わり
Νήψατε, γρηγορήσατε.(ネファテ、グレーゴレーサテ)
『 身を慎み、目をさましていなさい』との訳を私訳いたしますと、
という意味が妥当かと思うのです。つまり、今は世の終わりの時代にありということです。
それでは一体世の終わりには何があるのでしょうか。
サタンの存在
8節後半を見ますと、悪魔は、なぜ吠えたける獅子のようであると記されています。なぜ、悪魔は吠えたけっているのでしょうか。それは、自分が滅ぼされることを強烈に意識しているからです。
Ⅰペテロ5:8を読むと、悪魔は食べ物を求める獅子のように滅ぼすべき人を求めています。ここでは悪魔のことを敵として定義しています。
敵である悪魔という呼称は、ヘブル語の「サタン」に相当します。サタンをどのような存在であるのかと言えば、
中傷する者・・・ヨブ記1・2章、ゼカリヤ3章1節以下
誘惑する者・・・マタイ4:1-11、創世記3:1-11
反逆者・・・ヨハネ13:2、Ⅱコリント4:4、Ⅰテサロニケ2:18
ペテロは、ここでサタンを『敵』として記述してますが、H. J. Shonfieldは、サタンを以下のように定義します。
人を落胆させ失望させること
誰かに対して偽りを言ってでも責めること
であると定義しますが、私たちも、自分の心に傾向があるかどうかを監視しなければなりません。特に、8節では、特に苦難をもって人を失望させ、人を信仰から落とそうとするサタンの働きが暗示されているとH. J. Shonfieldは言います。
悪魔は、世の終わりにあって、人々を落胆させ、自分と同じ道に歩ませようと、人々を落胆させ、失望に追いやり、神から離そうと躍起になっている姿が伺えます。しかも、「吠えたける獅子」と言われています。(詩篇22:13)
「吠えたける」のは、獲物を求めているライオンの唸り声であり、当時迫害をもって脅かす悪魔のわざを言います。
信仰を否定することへの誘惑
ペテロが活躍した時代、多くのクリスチャンが迫害に遭い、命を落としました。ここでペテロが危険に思っていることは、恐ろしさのあまり、信仰告白を否定してしまうことでした。
かつて、ペテロは同じ警告を主から与えられました。
主の警告どおり、主イエス・キリストの秘密裁判が行われている最中、自分も逮捕されることを恐れ、三度も主を否定してしまいます。
ペテロは、自分がかつて犯してしまった信仰告白を否定したことを回想しこの節の記述をしたのでしょう。
サタンは、何を誘惑するのか。それは、クリスチャンが福音を伝えることを止めさせる誘惑をします。
ペテロは自身の弱さだけでなく、その背後にあるサタンが、ペテロをそそのかし、イエスを否定するように仕向けたと思われます。クリスチャンも、サタンにそそのかされ、誘惑を受け、御心を損なう経験をした人もいるかと思います。そうした失敗から、信徒たちにサタンからの誘惑に陥らないよう励ましを与えているのです。
おそらく、イエスが「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われた言葉を思い出しつつ、この節を書いたとのだろうと松木裕三先生は記しています。
福音を伝えるのを止めさせる
松木先生の指摘するように、我々は常に失敗し易いものです。
サタンが私たちのどこを狙うのかと言えば、
福音を伝えることを止めさせることです
福音を伝えるということは、私たちの武具でもあり、同時に私たちの弱点でもあります。教会が、あるいはクリスチャンが力を失う、失わせることは簡単です。それは、主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、復活されたことを語らなければ何の意味もありません。パウロはこう言いました。
パウロが最も大切にしたのことは、
主イエスの贖罪と十字架の死と復活の三点です。
このことを私たちは伝えることを忘れてはいけないのです。
サタンは、特に、福音を伝えようとする人、教会を攻撃するものです。
もし、仮にあなたが迫害を受けない、毎日が安全・安心だとしたら、福音を伝えていないのかもしれません。私たちは、今は滅びの時にあるということを忘れてはならないですし、多くの人がサタンに騙されて、滅びに向かっているというビジョンを見なければなりません。
その人たちに向かって、私たちは何をしているのでしょうか。吠えたける獅子は、今も多くの人を滅びに向かわせています。たしかに、日本の現状を見ると非常に福音宣教が難しい状況があることは否定できません。キリスト教といっても異端が幅を利かせて誤解を招いているという状況もあります。しかし、私たちは、パウロが語った福音の原則である
主イエスの贖罪と十字架の死と復活を大胆に語っていくものでありたいものです。
異端は、この主イエスの贖罪と十字架の死と復活を語りません。語れるのは、私たちクリスチャンだけです。
最後に
ペテロは、Νήψατε, γρηγορήσατε.(ネファテ、グレーゴレーサテ)『 身を慎み、目をさましていなさい』
と命じてますが、これは、
羊飼いが、群れを守る者たちが眠ったまま安心している間に、暗闇の中で群れの周りを徘徊するライオンを見つけたときの突然の警告の叫びである。
と学者は言っています。その言葉を信じるならば、ペテロは、私たちの信仰の現状を見て相当危機感をもって見ているのではないかということです。
私たちの福音を伝える姿勢について、ペテロは強い口調で私たちに迫っているという自覚を持たなければならないでしょう。もし仮に、あなたの眼の前に死を迎えようとする患者がいた時に、私たちは何をしますか?救急車を呼ぶ、救命措置行うはずです。
肉体的なことに関して私たちは積極的に関わり救けようとするのに、霊的ないのちに関して私たちはどう取り組むべきでしょうか。
私たちは目の前に霊的な死を迎えようとする多くの方々を前にしているのです。そこで、あなたは、何を為すべきでしょうか。傍観しているのか、無視しているというわけにはいかないはずです。
ヨハネは次のように述べました。キリスト者は、あかしのことばを失ってはならないと。迫害を受けた者たちは、黙示録の記述にこうありますが、
彼らは、「子羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに」悪魔に打ち勝ったのです。終末に生きるクリスチャン一人ひとり福音の言葉を伝える役割を忘れることなく、実践できるものでなければならないというペテロの言葉に耳を傾けていこうではありませんか。
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。