五つの目標 ペテロの手紙第一 3章8節
最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。 ペテロの手紙第一 3章8節
Τὸ δὲ τέλος πάντες ὁμόφρονες, συμπαθεῖς, φιλάδελφοι, εὔσπλαγχνοι, ταπεινόφρονες,
2022年1月9日 礼拝メッセージ
はじめに
「なぜ、あの人は変わってくれないのだろう?」
私たちは人間関係の中で、このような思いを抱くことが少なくありません。職場の同僚、家族、配偶者—誰かの欠点や態度を変えたいと強く願うことがあるでしょう。しかし、使徒ペテロは私たちにある重要な真理を示してくれます。
Ⅰペテロ2章11節以降で、ペテロは当時の社会的弱者であったクリスチャンたちに、力強いメッセージを送っています。奴隷制度の中で苦しむ人々、家庭内で様々な制約を受ける妻たち——彼らは現代で言えば、職場でのハラスメントや家庭内の軋轢に悩む私たちと、さほど変わらない現実に直面していたのかもしれません。
そんな彼らに、ペテロは単なる処世術を説いたわけではありません。彼が示した生き方の指針には、ある決定的な基礎がありました。それは「キリストにならう」という、意味深くかつ実践的な知恵です。
では、他者の変化を望む前に、私たちはまず何をすべきなのでしょうか。人間関係に苦しむ現代人への、2000年の時を超えたペテロからのメッセージに耳を傾けてみましょう。
最後に言う
3章8節は、いままでのペテロの社会的弱者であるクリスチャンたちへのまとめのことばになります。『最後に申します。』と新改訳聖書にありますが、これは、この手紙が終えるという意味ではありません。2章11節から記してきた内容を総合するという意味です。
新改訳で『最後に申します。』と訳されたギリシャ語『テロス』は、「クリスチャンが到達すべき目標」や「信仰の完成に向けた到達点」という意味合いで理解する方が適切だと言えるでしょう。それは単なる終わりではなく、神の目的に向かって成長し続けるプロセス全体を含む概念なのです。
ですから、その言葉の深い意味を理解すると、ペテロが3章8節で語る五つの心構え——「心を一つにし」「同情し合い」「兄弟愛を示し」「あわれみ深く」「謙遜でありなさい」——は、単なる勧めの集大成ではないことが見えてきます。これらは、クリスチャンとしての成長過程における「到達すべき目標」であり、信仰の完成に向けた具体的な道標なのです。
ペテロは弱い立場にある信徒たちに、単に現状を耐え忍べと説いていたのではありません。むしろ、彼らの信仰生活が、段階的な成長を経て、神の意図される完成へと至るプロセスを示していたのです。それは、望遠鏡(テレスコープ)が一つ一つのレンズを通して、より遠くの像をより鮮明に映し出すように、これらの心構えを実践することで、私たちのクリスチャンとしての姿がより明確になっていくということです。
特に注目すべきは、これらの目標が相互に関連し合っている点です。「心を一つにする」ことは「同情し合う」ことへとつながり、それは自然と「兄弟愛」を生み出します。そして、その過程で培われる「あわれみ深さ」は、必然的に「謙遜」という態度を形作っていくのです。これは、信仰による一連の「完成」(テロス)のプロセスを表しています。
結論として、3章8節は単なるまとめの言葉ではなく、むしろクリスチャンの生涯における継続的な成長の目標を示す、力強い指針として理解すべきでしょう。それは、信仰者一人一人が、キリストの似姿へと変えられていく終わりなき旅路の道標なのです。この視点に立つとき、私たちは日々の試練や困難を、単なる苦難としてではなく、神の完全な目的に向かって成長する機会として捉え直すことができるのではないでしょうか。
あなたがたはみな
『あなたがたはみな』は、パンテスという言葉になります。パンテスとは、クリスチャン全体を表し、ペテロは、信者間で到達すべき目標を5項目あげています。
心ひとつにする ὁμόφρονες(ホモフロネス)
信者にとっては、聖霊によって生み出された合意において、一致して生きること(同じ心を持つこと)であり、それは神の信仰の働きを受け取ることから生じるとあります。
つまり、信者は、心を一つにしなければなりません。自分は、頭だ、目だ、足だと自己主張していては信者間(教会)はまとまりません。信者の間においては、心をキリストを中心に据えなければなりません。イエス・キリストを主とするところに一致があり、心が一つに結ばれるのです。しかし、どうでしょう。教会において、会議の中で意見が割れる、主の栄光よりも、安定的な教会運営や、チャレンジよりも事なかれ主義が蔓延していないでしょうか。また、声の大きい人の意見が幅を利かせ、主の御心が聞こえないということはないでしょうか。そうなってはいけません。主の御声は私たちの声よりも小さく聞き取りにくいものです。わたしたちは、自分の心の座を自分ではなく、主に座っていただき、教会を委ねていかなければ、教会が霊の働きではなく、肉の働きに満ちてしまうでしょう。同情しあう συμπαθεῖς(シュムパセイス)
英語のsympathy(シンパシー)の語源です。
συμは、(緊密な同一性で)一緒に接合されているため、同一視される;(緊密に一緒に同一視される)一緒にという意味を持ち、他人事ではなく、自分のこととして「ともに苦しむ」ということです。
『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。』ローマ書12:15とありますが、同情するというのは、簡単なようで、なかなか難しいのではないでしょうか。人が喜ぶのはうれしくないし、泣く者に対して無関心な態度を示すというのが、罪人本来の姿かと思います。こうした心の姿勢をあらためなければなりません。これも、主が私たちの中心になければできないことです。喜ぶものと一緒に喜び、泣く者と一緒に泣くことができれば、それは自分の力ではありません。主の御業がその人に臨んでいるということです。兄弟愛 φιλάδελφοι(フィラデルフォイ)
フィロス「親愛なる友」とアデルフォス「兄弟」から派生した形容詞で、「兄弟らしい」という意味です。この言葉は、聖書の中で、この節でのみ使用されている言葉で、兄弟愛という意味以上に、家族の一員である仲間、すなわち神の家族の中の贖われた人々の間の独特で強力な愛を指すということです。
すなわち、キリストの十字架の血潮による血縁関係に基づく強固な愛ということでしょう。私自身は、エキュメニカルには賛成はしませんが、現在の多教派が決して良いものではないと思います。過去、キリスト教では、教理が異なるということで、教派間の殺戮の歴史がありました。もともとは、同じキリストの血潮によって贖われたクリスチャン同士です。解釈が異なる、意見が異なるということで、対立が生まれ、同じクリスチャン同士が殺しあうということになりました。そこには、ここに示されている理想像はありません。私たちは、たとえ教派が異なるにせよ、教会が違うにせよ、兄弟を親密な家族の一員としてみなしているでしょうか。他国のクリスチャンが迫害にあっていることを、傍観してはいないでしょうか。また、主流派が少数者を飲み込む、少数者の意見が封殺されてしまうということが教会の中にはないでしょうか。空気を読まなければならない、忖度することがあるでしょうか。もし、そうだとすれば、兄弟愛はお題目に過ぎません。キリストは、そうした弱者の声の代表です。そのためにいのちを捨てたお方です。私たちは弱者を守る、支える、声を聞くように召されているのです。あわれみ深い εὔσπλαγχνοι(ユースプランクノイ)
ユースプランクノイは、eú「良い」とsplágxnon「内臓」に由来する言葉です。正しくは、内臓(「はらわた」)での共感(共感、同情)を意味します。転じて「優しい心」という意味になります。
はらわたが煮えくり返るなど、日本語でも「はらわた」に関することわざがあります。そのどれもが、理性を超えた深く強い感情を示すことばです。ですから、単に優しいという上っ面な言葉ではないことです。どうしても聖書のことばというものが、形而上学的であるとか、観念的にとらえてしまいがちだとおもいます。そこは、私のメッセージにおいても反省点ではありますが、そういう頭でこしらえたものではないのです。イエス・キリストは、私のために死なれた。それも、十字架の苦しみを通して私たちを贖ってくれました。しかも、腹には槍を突き刺させられ、まさに『断腸の思い』で、『腸がちぎれる』経験をした方です。深い悲しみと苦しみを経て、彼は私たちをあわれんでくれたということです。そうした、イエスが味わったあわれみの心を私たちは持ち合わせているでしょうか。なかなか、そうなっていないというのが現実ではないでしょうか。謙遜でありなさい ταπεινόφρονες(タペイノフロネス)
「内的観点によって調節された節度」に由来)- 正しくは、低い;謙遜、人間のプライドの「低さ」(自我);自分自身を謙虚に評価する心構え(自分の道徳的小ささを深く感じる、J・セイヤー)。
信者にとって、謙遜とは、主に完全に依存して生きること、すなわち、自己(肉)に依存しないことです。聖書では、謙遜は、他人と比較するのではなく、主と比較することを意味する言葉です。そうして、客観的に現実と自分を一致させ、自己顕示欲(自己決定、自己肥大)になることを防ぐことができるとあります。こうしてみますと、謙遜とは、人と比較して、自己卑下することやへりくだるでもなく、尊大になることでもありません。ただし、本当の意味で私たちが謙遜であるかというとそうは言えないのが現実です。私たちは、謙遜を知るためには、イエス・キリストに学ぶ必要があります。キリストは、自分からは強さを主張しませんでした。つねに、弱い人の側に立ち、支え続けた生涯でした。生まれたときも、宮殿ではなく、臭い家畜小屋でした。その最後は、死刑の中でも最低な刑である十字架刑によって消されました。その生涯は最低から最悪に至る歩みがイエス・キリストの生涯であったわけです。しかし、彼は、崇められるべきお方でありながらも、崇められることを避け、弱さ、苦しみに最後まで寄り添い続けた。それが、まことの神としての模範をのこしたのです。彼に見る、謙遜とは弱さではなく、神の強さの中で、神の支配のもとに生きることでした。 私たちは、キリストに従順であることによって、つまり、キリストの計り知れない計画のもとで謙遜に生きることを満足することによって、深い恵みを経験するのです。
これら5つの徳目——心を一つにすること(ホモフロネス)、同情し合うこと(シュムパセイス)、兄弟愛を示すこと(フィラデルフォイ)、あわれみ深くあること(ユースプランクノイ)、謙遜であること(タペイノフロネス)——は、ペテロが示す信仰者の到達すべき目標(テロス)の具体的な姿です。これらは単なる道徳的な教えや、外面的な行動の指針ではありません。むしろ、キリストの十字架によって贖われた者たちが、聖霊の働きによって内側から変えられていく成長の過程を示しています。
特筆すべきは、これらの徳目がすべて深く結びついているという点です。心を一つにするということは、キリストを中心に据えることから始まり、それは必然的に他者への同情を生み出します。そして、その同情は血潮による贖いに基づく兄弟愛へと発展し、その愛は「はらわた」のレベルでの深いあわれみとなって現れます。そして、これらすべては真の謙遜——すなわち、完全に主に依存して生きること——によって完成されるのです。
しかし、私たちの現実を見つめるとき、これらの目標からはまだ遠く及ばないことを認めざるを得ません。教会内の対立、弱者の声の無視、表面的な関係性、自己中心的な判断——これらは現代の教会が直面している課題です。だからこそ、ペテロは「パンテス」(あなたがたはみな)という言葉を用いて、すべての信徒にこの目標を示したのです。
この5つの徳目の究極的なモデルは、イエス・キリストご自身です。主は、最も低きところに来られ、最も弱い者たちと共に歩み、十字架という最も痛みを伴う方法で私たちへの愛を示されました。私たちが目指すべき「テロス」(完成の目標)は、このキリストの姿に他なりません。
結論として、これら5つの徳目は、単なる理想や目標ではなく、キリストにある新しいいのちの必然的な表れとして与えられています。私たちは、自分の力でこれらを達成しようとするのではなく、むしろキリストの十字架の恵みに立ち返り、聖霊の導きに従順に従うことを通して、これらの徳目へと成長していくのです。それは、一朝一夕には達成できない継続的な成長の過程であり、まさにテロスが示す「完成に向けた歩み」なのです。
このように理解するとき、ペテロの勧めは、私たちに重荷を負わせるものではなく、むしろキリストにある新しい生き方への招きとして、私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。
PDCA
ペテロが示した、5つの徳目(心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。)という言葉は、簡単なようでいて、実は、人間が自分の力では達成し得ない、難易度の高い徳であるものであることに気がついたと思います。
多くの人は、そうできればいいなと思う箇所であると思います。努力すること自体が無理な目標であるから、クリスチャンの目標としてお題目程度に知っていればいいことではありません。また、ペテロは、このことを目標として努力することが義務ということでもありません。
最初にテロスということばを紹介したかと思いますが、そのテロスに立ち返ることが私たちの目的達成の緒(いとぐち)になるのです。
テロスをあらためて紹介しますと、
聖化における完成(完全な発展)を達成する力は、キリストからしか得られません。キリストは、ご自身の完全な生涯と死と肉体の復活によって律法を成就(完成)された方なのです。
つまり、私たちが5つの目標を達成していくためには、キリストに委ねていくことにあります。テロスには、目標達成のための旅という意味も含まれていますが、私たちの生涯は、自分の罪に気づき、キリストに教えられ、キリストに身を委ねていく旅でもあります。
PDCAサイクル
PDCAという言葉をご存知でしょうか。これは、Plan(計画)・Do(実行)・Check(評価)・Action(改善)という4つの段階の頭文字をとった言葉です。企業や組織での業務改善、目標達成のために広く使われている考え方です。
簡単に例を挙げて説明してみましょう。例えば、ダイエットを考えてみます。 まず、Plan(計画)では「3ヶ月で3キロ減量する」という目標を立て、そのための具体的な計画を立てます。次にDo(実行)では、その計画に従って実際に食事制限や運動を行います。そしてCheck(評価)では、体重の変化や体調を確認し、計画通りに進んでいるかを評価します。最後のAction(改善)では、その評価に基づいて、必要があれば計画を修正し、より効果的な方法を考えます。
このサイクルを繰り返すことで、より確実に目標達成に近づくことができる—これがPDCAの基本的な考え方です。企業では品質改善や業務効率化、学校では学習計画、さらには個人の目標達成にも応用できる汎用性の高い考え方として知られています。
ただし、人生のすべてがこのようなサイクルで解決できるわけではありません。特に信仰生活においては、このPDCAを超えた神様の恵みと導きが不可欠です。それでもなお、このような体系的な考え方を知っておくことは、私たちの日常生活において有益な指針となるでしょう。
信仰のPDCAサイクル
クリスチャン生活におけるPDCAサイクルは、世俗的なそれとは本質的に異なります。なぜなら、このサイクルの各段階において、私たちは自分の限界に直面するように設計されているからです。
PDCAの各段階を詳しく見てみましょう
Plan(計画)
ペテロが示した5つの徳目は、私たちの目標となります
しかし、これらは自分の努力で達成できる「計画」ではありません
むしろ、キリストの完全さを映し出す鏡として機能します
Do(実行)
自分の力で実行しようとすると、必ず壁に突き当たります
この「できない」という経験自体が、実は恵みの一部です
なぜなら、それは私たちをキリストに向かわせるからです
Check(評価)
自己評価の段階で、私たちは自分の不完全さを痛感します
しかし、この「気づき」は、否定的なものではありません
それは、キリストの恵みの必要性を教えてくれる贈り物なのです
Action(改善)
ここで重要なのは、自力での改善を目指すのではないということです
むしろ、キリストに委ねることが真の「改善」となります
主が私たちの弱さを通して働かれるのです
そして、驚くべきことに、私たちが自分の無力さを認め、キリストに委ねるとき、思いがけない変化が起こり始めます。それは、まるで気づかないうちに、聖霊が内側から私たちを変えていってくださるようなものです。これこそが、真の「証し」となるのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。今、あなたは自分の不完全さに悩み、苦しんでいるかもしれません。ペテロが示した5つの徳目は、あまりにも高く、手の届かない目標のように感じられるかもしれません。しかし、これは決して重荷ではありません。なぜなら、これらの目標は、私たちが達成すべき課題ではなく、キリストが私たちの内に実現してくださる約束だからです。
今日から、あなたの視線を自分の弱さから、キリストの完全さへと移してみませんか。私たちの人生のPDCAサイクルの主役は、実は私たちではなく、キリストなのです。このことを覚えるとき、私たちは新しい自由と喜びをもって歩み始めることができます。なぜなら、「私たちの信仰の創始者であり完成者であるイエス」(ヘブル12:2)が、必ずご自身の良い働きを完成してくださると約束されているからです。
さあ、希望をもって前進しましょう。私たちの弱さは、キリストの力が完全に現れる場所となるのです。テロス(完成)に向かう旅は、決して孤独な歩みではありません。主が共にいて、一歩一歩を導いてくださいます。その確信をもって、今日も喜びをもって歩んでいきましょう。ハレルヤ!
Translation 聖書対訳
(NASB)To sum up, all of you be harmonious, sympathetic, brotherly, kindhearted, and humble in spirit;
結論から言うと、皆さんは調和と共感、兄弟愛、心優しさ、そして謙虚な心を持ってください。
(KJV)Finally, be ye all of one mind, having compassion one of another, love as brethren, be pitiful, be courteous:
最後に、あなたがたは心を一つにして、互いに憐れみ、兄弟として愛し、憐れみ、礼儀をわきまえなさい。
(TEV)To conclude: you must all have the same attitude and the same feelings; love one another, and be kind and humble with one another.
結論から言うと、あなたがたは皆、同じ態度、同じ気持ちを持ち、互いに愛し合い、親切で謙遜でなければならないのです。
(新共同訳)終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
Lexicon レキシコン
ὁ,ra {ho}
CaseA NumberS GenderN
1) しかし、さらに、そして、など
Τὸ δέ,c {deh}
1) but, moreover, and, etc.
τέλος,n {tel'-os}
CaseA NumberS GenderN
終了 1a) 終了、物事がなくなる限界(常に何らかの行為または状態の終了を意味し、期間の終了を意味しない) 1b) 終わり 1b1) 連続または一連の最後のもの 1b2) 永遠 1c) 物事が終了するもの、その終わり、問題 1d) すべてのものが関係する終わり、目的、目的 2) 料金、習慣(商品に対する間接税など)
5056 télos(中性名詞) - 正しくは、完了(すべての結果を伴う閉鎖などの最終目標、目的)。
[この語根(tel-)は「終わり(目的)に達する」という意味で、古い海賊の望遠鏡に例えられ、一度に一段階ずつ展開(拡張)して全能力(効果)に到達する] 。
5056/telos(「最終目標」)は「完了」を意味し、「終了」ではない!? 完全な発展(永遠の意義)に向かうために到達する様々な段階を伝えているのです。 従って、「キリストは律法の終わり(完成、5056/télos)」(ロ10:4)である。 彼はその完璧な人生と死によって、OTのすべての構成要素を完全に成就させたのである。
πᾶς,a {pas}
Case V Number P Gender M
1)個々に 1a)それぞれ、すべて、どんな、すべて、全体、みんな、すべてのもの、すべて 2)集合的に 2a)すべての種類の一部分
ὁμόφρονες ὁμόφρων,a {hom-of'-rone}
Case N Number P Gender M
1)一心同体、一致した
675 homóphrōn(3674/homoú「同じように」と5424/phrēn「外側の行動を規制する内側の見通し」から)-正しく、視点を共有し、同じ志を持つこと。
信者にとっては、聖霊によって生み出された一致(合意)において、一致して生きること(「同じ心を持つこと」)であり、それは神の信仰の働き(「神の説得」)を受け取ることから生じるのである。
3675/homophrōn(「同じ観点の」)は1ペト3:8でのみ使用されています。まとめると、あなたがたは皆、調和が取れ(「心を一つにして」3675/homóphrōn)、同情的で、兄弟的で、親切で、精神的に謙虚でありなさい」(NASB)とあります。
これは、信者が神の霊感による調和を享受していることを表している。 KJVでは、「最後に、みな同じ心になりなさい」、つまり、神が信仰を通して明らかにされる神の心(神の考え)を知ること(4102/pístis)と適切に表現されています。
συμπαθεῖς
Case N Number P Gender M
4862 sýn(原始前置詞、すなわち語源不明) - 正しくは、(緊密な同一性で)一緒に接合されているため、同一視される;(緊密に一緒に同一視される)一緒に。
4862/syn(「共に」)は、「3326(metá)で表現されるよりもはるかに近く、親密な交わり」を表すために使われている。 この区別はあまりにも頻繁に無視されている」(J. セイヤー。G. ワイナー、G. アーチャーなども同様)。
φιλάδελφος,a {fil-ad'-el-fos}
CaseN NumberP GenderM
1)兄弟または姉妹を愛する 2) 広い意味で、兄弟のように人を愛する、同胞を愛する 2a) イスラエル人の 2b) クリスチャンを愛する クリスチャンを愛する
(同義語)。5361 フィラデルフォス(5384/フィロス「親愛なる友」と80/アデルフォス「兄弟」から派生した形容詞)- 「兄弟らしい」、家族の一員である仲間、すなわち神の家族の中の贖われた人々の間の独特で強力な愛を指す(1ペト3:8のみ使用)。 5360(フィラデルフィヤ)参照。
5360 philadelphía(5384/phílos「愛する友」と80/adelphós「兄弟」から)- 正しくは、兄弟(信者仲間)に対する愛情です。
5360/フィラデルフィヤ(「兄弟愛」)は、神が作り出された超自然的な絆であり、同じ志を持つ人々を、神と神の業(王国)に対する独特の愛情で結びつけます。 それは、キリストに属する人々、すなわち、キリストの体そのものに神秘的に移植され、キリストにおいて共同している人々にのみ起こります(1コリ12:13,27を参照)。
5360(フィラデルフィヤ)とは、神が信者たちの間に創られた特別な愛情("同胞")のことです。 彼らは互いに神の信仰の業を大切にすることによって、このことを認識し、経験します。
εὔσπλαγχνος,a {yoo'-splangkh-nos}
CaseN NumberP GenderM
腸が丈夫であること 2) 思いやりのある、優しい心の持ち主であること
2155 eúsplagxnos(形容詞、2095/eú「良い」と4698/splágxnon「内臓」に由来)-正しくは、内臓器官(「腸」)が積極的に腸レベルの共感(共感、同情)-すなわち「腸で生きる」、「優しい心」-を行使します。
ταπεινόφρονες
5012 tapeinophrosýnē(名詞、5011/tapeinós「低い、謙遜な」、5424/phrēn「内的観点によって調節された節度」に由来)- 正しくは、低い;謙遜、人間のプライドの「低さ」(自我);自分自身を謙虚に評価する心構え(自分の道徳的小ささを深く感じる、J・テイヤー)。 信者にとって、5012/tapeinophrosýnē(「謙遜」)とは、主に完全に依存して生きること、すなわち、自己(肉)に依存しないことである。
聖書では、5012/tapeinophrosýnē(「卑しさ、謙遜」)は、他人と比較するのではなく、主と比較する、内側から外側への徳目です。 これにより、現実と一致させ、自己顕示欲(自己決定、自己肥大)になることを防ぐ。