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仮面がもたらすもの『目の中のちりと梁のたとえ』

イエスのたとえ話シリーズ No.12「目の中のちりと梁のたとえ」

2024年9月8日

マタイによる福音書7:1-5

【新改訳改訂第3版】
7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

タイトル画像:AnnetteによるPixabayからの画像


はじめに


今回のたとえ話は『目の中のちりと梁のたとえ』を取り上げます。

私たちは、日々の生活の中で、他人の行動や性格について判断を下すことがあるのではないでしょうか。職場の同僚、家族、友人、あるいは見知らぬ人に対してさえ、私たちは無意識のうちに批判的な目を向けがちです。しかし、イエス・キリストは、このような人を裁く姿勢について重要な教えを残されました。

今日は、マタイによる福音書7章1節から5節を通して、イエスの言葉に耳を傾けたいと思います。この箇所は、「人を裁くな」という有名な教えで始まり、私たちの内面の偽善を鋭く指摘しています。

この教えは、単に他人への批判を控えるべきだという表面的なものではありません。むしろ、私たちの内面を見つめる姿勢の欠如と、他者への思いやりの必要性を指摘しているのです。

今日のメッセージを通じて、私たちは自分自身を深く見つめ直し、同時に他者に対してより思いやりを深めるための知恵を学びたいと思います。この教えが、私たちの日常生活にどのような変化をもたらすのか、一緒に考えていきたいと思います。

物 語


マタイによる福音書7章1節から5節は、イエス・キリストの有名な説教である「山上の説教」の一部です。この説教は、マタイによる福音書の5章から7章にかけて記録されており、イエスの教えの核心ともいえる箇所です。

このたとえ話が語られた背景は、イエスがガリラヤ地方で布教活動を始めた頃のことです。多くの人々が彼の教えに引き寄せられ、その評判を聞きつけてさまざまな地域から群衆が集まってきました。イエスは彼らに向けて、神の国(天の国)についての新しい理解と、それに基づく生き方を説いたのです。

この特定の箇所(7:1-5)の文脈を考えると、当時のユダヤ社会の状況を切り離して語ることはできません。パリサイ派や律法学者たちが、律法の厳格な解釈と実践を重んじ、しばしば他者を裁く立場にありました。また、ユダヤ人全体としても、自分たちが選民であるという意識から、他の民族を裁く傾向がありました。

イエスはこのような社会背景の中で、人々の日常的な態度や行動を根本から問い直す教えを展開しました。「人を裁くな」という教えは、単に他者への批判を控えるべきだという表面的なものではなく、自己認識の重要性と、他者への真の思いやりを説くものでした。

イエスはまず一般的な原則(人を裁くな)を述べ、次にその理由(自分も裁かれるから)を説明します。そして、より具体的なたとえ(目の中の梁とおが屑)を用いて、この教えの本質を分かりやすく伝えています。最後に、自己の内面を客観的に注視する必要性と、それが他者を助けることにつながるという積極的な側面を示しています。

この教えは、心理学も知らない当時の聴衆にとっては、新大陸発見のような衝撃的なものだったでしょう。しかし同時に、真の信仰と生き方とは何かを深く考えさせるものでもありました。イエスは、外面的な規則や儀式よりも、内面の態度や他者との関係性が重要である新しい視点を提示したのです。

この教えは、単なる道徳的訓戒を超えた、深い霊的真理を含んでいることが分かります。それは今日の私たちの生活にも大きな示唆を与えるものです。

律法学者のさばき


神に委ねられた働き

ユダヤ教の律法学者たちにとって、「裁く」ことは主にモーセの律法に基づいて人々の行動や状態を評価することを意味しました。これは単なる個人的な意見ではなく、神の法に照らし合わせて判断を下すことを指します。彼らはこの概念を様々な形で適用しました。

まず、日常生活のさまざまな状況に律法をどのように適用するかを解釈し、判断しました。例えば、安息日に許される行為の範囲などを決定しました。また、人々の行動が律法に照らしてどの程度罪深いかを判断し、懺悔や贖罪の必要性を決定しました。さらに、律法に基づいて人々の儀式的な清さや不浄さを判断し、それによって社会的な地位や宗教的な参加の可否を決定しました。

律法学者たちは共同体内の争いや法的問題を、律法に基づいて裁定する役割も担っていました。同時に、律法の正しい理解と実践について人々を教え、導く教育者としての役割も果たしました。彼らは聖書の預言を解釈し、現在の出来事との関連を判断する一方で、口伝の律法(ミシュナなど)を解釈し、適用することでユダヤ教の伝統を維持しました。

政治的な面では、特にローマ支配下において、政治的な問題に対して律法の観点から判断を下しました。日常生活における倫理的な問題に対しては、律法に基づいた指針を提供しました。さらに、メシアの到来に関する預言の解釈と、現れた人物がメシアの条件を満たしているかどうかを判断する重要な役割も担っていました。

律法学者たちにとって、「裁く」ことは単なる個人的な意見の表明ではなく、神の意志を解釈し、それを現実の生活に適用する重要な役割でした。

律法学者たちは、神に従おうとして、高い信仰性のゆえに「裁く」ことを行っていました。それは、単に人のあら捜しをして貶めるというものではありませんでした。神の前に正しく導くという信仰に基づく、高い道徳性によるものでした。

さばくことの弊害

律法学者たちにとって、裁くことには様々な弊害があります。まず、自己の正義感や道徳観に基づいて他者を裁くことで、客観性や公平性を失っていました。自分の解釈や価値観を絶対視してしまい、相手の立場や状況を十分に考慮できなくなっていました。

ヨハ8:1‐11
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

このヨハネによる福音書の記事は、律法の適用における深刻な問題点を浮き彫りにしています。イエスは、パリサイ派や律法学者たちの偽善的な態度を巧みに暴露しながら、同時に律法の本質的な意味を示しました。

彼らは、モーセの律法を純粋に正義のために用いるのではなく、自らの地位や権力を守るための道具として利用していました。これは、律法の本来の目的である人々の幸福と社会の秩序維持から大きく逸脱していました。イエスは、この状況を通して、律法の字面だけでなく、その精神を理解することの重要性を教えようとしました。

さらに、イエスの対応は、裁くことの難しさと危険性を明確に示しています。「罪のない者が最初に石を投げなさい」という言葉は、自分の罪を省みる重要性を強調し、他人を裁く前に自分自身の行いを顧みることの必要性を説いています。これは、律法学者たちが陥りがちだった自己正当化と他者批判の姿勢を正す上で、非常に効果的な教えでした。

さばくとおりにさばかれる


マタ
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

この御言葉は、律法学者やパリサイ人たちにとって、深刻なジレンマを引き起こしていたことでしょう。彼らは、自らの権威を維持するために律法を利用し、他者を裁く立場に立っていましたが、同時に自分たちも裁かれる可能性を常に意識せざるを得ませんでした。

この状況下で、彼らは二つの方向に引き裂かれていました。一方では、神の御心を真に理解し実践することの重要性を認識しながらも、他方では人々の目に映る外見的な正しさにより注力するようになっていったのです。結果として、彼らの信仰の焦点は、内なる真の義よりも、外面的な行為や姿勢に移っていきました。

このような傾向は、彼らをして、より厳格な行動規範や複雑な律法解釈を生み出すことにつながりました。自らが裁かれることを恐れるあまり、他者を裁くための基準をより高く設定し、同時に自分たちもその基準に合わせようと努力したのです。しかし、この努力は往々にして形式主義に陥り、信仰の本質から乖離していく結果となりました。

律法学者やパリサイ人たちは、この御言葉のジレンマに最も深く苛まれていたと言えるでしょう。彼らは、自らの立場を守りつつ、同時に神の基準に適う生き方を模索していたのです。しかし、その過程で、彼らは真の信仰の核心である「愛と赦し」から遠ざかり、外見的な正しさを追求することに終始してしまったのです。

この状況は、信仰における真の義と外面的な行為のバランスの難しさを浮き彫りにしています。イエスの教えは、こうした形式主義に陥りがちな信仰のあり方に警鐘を鳴らし、内なる心の変革の重要性を強調したのだと言えるでしょう。

ちりとは

この部分は、マタイによる福音書7章3節「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」について見ていきましょう。

ここで、「ちり」という言葉は、空気中に漂う細かい塵の粒子ではなく、「茎」または「小枝」を意味します。このたとえはユダヤ人の間でよく知られていたようで、言葉の上ではほとんど同じことわざがラビ・タルフォンの格言として見つかります。

同様の例は、あらゆる国のことわざや風刺の中に見つかり、すべて、人は他人の欠点には鋭く見つけるが、自分の欠点には盲目であると教えています。例えば、『グラックス兄弟は反乱を訴え、クロディウスは他人を姦通で告発する。』という西洋のことわざや、スコットランドの詩人ロバート・バーンズの言葉「ああ、われわれが他人の目に映るわれわれの姿を見る力が与えられんことを!」と語っているように、自分のことを棚において人のことを非難することはよくあることです。

「気がつかない」(ギリシャ語本文では、カタノエオー)という言葉には、マタイによる福音書の他の箇所(6章26節、28節)と同様に、単に「見る」ことと「注意深く考える」という意味が含まれています。

私たちは自分自身の欠点に対しては、注意深く見る必要であり、他人の欠点に関しては、一目と見る程度で十分であるべきだということを示しています。

目の梁

「目の梁」という比喩は、自己認識と他者への理解の重要性を巧みに表現しています。この教えは、私たち人間の持つ二つの傾向を指摘しています。一つは、他人の些細な欠点に注目しがちであること、もう一つは、自分自身の重大な問題を見過ごしてしまうことです。

イエスは「目の梁」という表現を用いて、私たち自身の内にある大きな問題や欠点を指摘しています。これは、私たちの視野を遮り、正しい判断を妨げる大きな障害物のようなものです。イエスはこの比喩を通じて、まず自分自身を厳しく、しかし誠実に見つめ直すことの重要性を説いているのです。

自己の罪や欠点を客観的に認識できるようになると、驚くべき変化が起こります。他者の弱さや欠点に対して、批判や非難ではなく、同情や思いやりの心が自然と湧いてくるのです。この過程を通じて、私たちは「愛」の本質をより深く理解し、実践できるようになります。

イエス・キリストの神性は、まさにこの点に顕著に表れています。罪を知らないお方でありながら、罪を犯した私たち人間の状況を深く理解し、同情し、自らのこととして憐れみを持ち、そして解決をもたらそうとする姿勢を示されました。これは、完全な愛の具現化と言えるでしょう。

この「目の梁」の教えは、自己改善と他者理解の両方を促す、非常に深い教えです。自分自身の欠点や罪を認識し、それと向き合う勇気を持つことで、私たちは他者に対してより寛容になり、真の意味での愛を実践できるようになるのです。これは、個人の成長だけでなく、より調和のとれた社会の形成にも寄与する重要な教えです。

自己変革と認罪


マタ
7:5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

自己変革はどのようにすればいいのか

この箇所に関する解説を見ると、自己変革を促すメッセージは多々あります。しかし、自分の罪を真に認識するためには、自分の力では難しいというのが実際です。

自己変革を経験するためには、罪を犯したことのないイエス・キリストを自分の神として信じることが出発点となります。信仰なくしては、自分の罪を深く理解することは困難でしょう。「救いの証拠は認罪意識にある」と私の教師は教えましたが、非常に示唆に富んでいると思います。

律法学者やパリサイ人がイエス・キリストを信じることができなかったがゆえに、真の認罪意識を持つことができなかったのは、この教えの重要性を裏付けています。彼らは自分を罪人と認められないように外見を取り繕うことに終始し、罪の本質が理解できないがゆえに、詳細な律法に頼らざるを得なかったのです。

日本人にとって、この概念は馴染みにくいかもしれません。日本社会では、「世間体」や民意によって自分の行動の是非を判断する傾向がありますが、道徳的基準を外部に依存している点では、ユダヤ人も日本人も本質的には変わりがないと言えるでしょう。

結論として、私たちに真に必要なのは、イエス・キリストを信じることによってもたらされる「救い」です。そして、その救いが生み出す「認罪による悔い改め」こそが、私たちの内面的成長と他者への真の愛の実践につながるのです。この過程を通じて、私たちは自己と他者、そして神との関係をより深く、より意味のあるものへと発展させていくことができるのです。

こうして、自分の罪の姿を客観視できれば、相手に対する同情や思いやりというものが生まれてきますし、そこから「愛」というものの本質が理解できるようになるのです。

偽善者


私たちに必要なのは、イエス・キリストを信じることによる「救い」であり、その救いがもたらす「認罪による悔い改め」です。

認罪意識の欠如は、「偽善者」の特徴の一つと言えるでしょう。「偽善者」という言葉は、ギリシャ語で「ヒポクリテース」と呼ばれ、その語源は非常に示唆に富んでいます。この言葉は、「下」を意味する「ヒポ」と「さばき」を表す「クリノー」が組み合わさってできた複合語です。

元来、この言葉は舞台上で仮面を着けて演技する俳優を指していました。そこから派生して、表面的な姿と内面の本質が異なる人々を表現するようになりました。つまり、仮面の下で演技をするように、外見と本心が一致しない人を指す言葉として使われるようになったのです。

現代では、この言葉は「二枚舌」や「言行不一致」の人を形容する際に用いられます。表向きは道徳的や宗教的な態度を示しながら、実際の行動や内面の思いがそれと矛盾している状態を指します。

この概念は、私たちに自己の言動と内面の一致の重要性を問いかけています。真の誠実さや信仰は、外面的な行為だけでなく、内面の態度や認識にも深く根ざしているべきです。特に、自身の罪や不完全さを認識し、それを素直に認める姿勢(認罪意識)は、霊的成長と真の人格形成において極めて重要な要素と言えるでしょう。

自己の言動を常に省みて、外面と内面の一致を目指すことは、個人の誠実さを育むだけでなく、より健全な人間関係や社会の構築にもつながります。偽善を避け、真摯な態度で自己と向き合うことが、私たちの人生をより豊かで意義あるものにする一歩となるのです。

福音書に登場するユダヤ人の偽善者たちは、「自分たちは真の宗教の理念を擁護する善良な人間である」と考えていました。しかし、彼らの善良さは、偽善であるばかりか、欠陥だらけであることに気づいていませんでした。彼らが真の宗教の本質であると考えていたものは、本質的なものではまったくありませんでした。イエスが指摘したように、彼らは「盲目の指導者」であった(マタイによる福音書23章24節)。道徳的・精神的な盲目こそが彼らの最大の欠陥であったが、彼らは常に、自分たちほど明確に物事を見通せる者はいないと信じていた」。

マーシャル博士著『新約聖書倫理の課題』1947年、60ページ

「二つの顔を持つ」俳優のように生きることは、皮肉にも二重の悲劇を生み出します。「仮面の下で生きる」ことは、現世においても来世においても、真の人間関係を築く貴重な機会を失うことにつながります。律法主義は、神の律法の文字を、その真の精神や意図よりも重視してしまう傾向があります。

偽善者は往々にして律法主義者であり、特定の真理を過度に強調する一方で、他の重要な真理を軽視することで、歪んだ見解を示すことがあります。極端な例では、人命よりも律法の遵守を優先するような考え方さえ生まれかねません。これは形式的には「文字を守る」という点で正しいように見えるかもしれませんが、律法の本来の意図や精神から大きく逸脱していると言えるでしょう。

宗教的な偽善は、残念ながらキリスト教界においても見られることがあり、一部の偽善的な牧師たちの常套手段となっていることもあります。彼らの特徴的な態度は律法主義に表れており、往々にして本質的に重要性の低いことを過度に重視し、逆に真に重要なものよりも高く評価する傾向があります。

このような態度は、信仰の本質から外れ、形式主義に陥る危険性を孕んでいます。真の信仰は、律法の文字だけでなく、その精神を理解し、愛と慈悲を持って実践することにあります。偽善や律法主義を避け、神の真の意図を理解し、それに従って生きることが、信仰者にとって重要な課題となるのです。

これらの問題に気づき、克服することで、私たちはより 本物の信仰生活を送り、神と人との間により深い、意味のある関係を築くことができるでしょう。それは、現世での人間関係を豊かにするだけでなく、来世への備えともなるのです。アーメン。



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高木高正|東松山バプテスト教会 代表・伝道師
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