私たちの願いはなにか Ⅱコリント人への手紙5:8-10
2024年5月5日 礼拝
Ⅱコリント人への手紙5:8-10
5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
タイトル画像:Gerd AltmannによるPixabayからの画像
はじめに
今回は、使徒パウロの教えとその神秘的な体験について深く掘り下げています。パウロの言葉を通じて、私たちは肉体を超えて神の栄光を追求することの重要性を理解し、その追求がどのように私たちの信仰と生活に影響を与えるかを考えていきたいと思います。
パウロの神秘的な体験とその解釈、そしてそれが私たちの信仰生活にどのように適用されるかについて考えることは、信じる者にとって非常に大事な点です。今回は、パウロの教えを理解し、それを自分の生活にどう適用できるかを探っていきましょう。
肉体を超えた栄光
Ⅱコリント5:8を読んでいきますと、ここでの主なメッセージは、私たちが肉体を離れて主のもとにいることを望む理由と、その確信の源泉についてパウロを教えます。
それは、死が復活の肉体の栄光をもたらすという信念から来ています。また、私たちが神の永遠の世界の目に見えない栄光をよりはっきりと見つめるために、肉体から離れることの喜びを強調しています。こうしたパウロの思想はどこから生じているのでしょうか。
ここで気になるパウロの言葉としてⅡコリント12:2があります。
Ⅱコリントの書簡が書かれたのは紀元57年とされています。14年遡ると、紀元43年となり、パウロがエルサレムを出発してから(使徒9:30)、アンテオケに到着する(使徒11:26)までの、記録に残っていない活動期間と一致します。この個所で語られているパウロの幻や啓示が、紀元37年の回心時に与えられたと考えられています。
この時の幻や啓示は、彼の困難な働きを励ますものとして、絶筆に尽くしがたい内容でした。おそらくは、アンテオケでの働きの開始時に与えられたものとするという説が有力です。有名なダマスコの途上でのパウロの記事のことであると考えられます。
この時の神秘体験は、キリストのうちに生き、キリストのうちに動き、キリストのうちに存在する者として、彼はそれまで生きていたときよりも高い経験領域に引き上げられました。この時の経験は、彼がそれまで生きていたユダヤ教の律法に根ざした信仰の時よりも高い領域に引き上げられたのです。
この時の復活のキリストとの出会いによって、彼は「新しく造られた者です。」という認識に至ります。(2コリント5:17、ガラテヤ6:15)
この時のパウロは恍惚状態にあったと考えられています。彼は死んだような状態になり、その後意識を回復した時、自分の精神が『第三の天』にまで引き上げられ、実際に未知の領域に旅立ったという経験を身体と精神が分離した状態―――つまり、幽体離脱した状態で、主の御元に行ったのか、それとも肉体もろとも引き上げられていったのか、自分では判別できないような体験をⅡコリント12:2で語っています。
パウロの臨死体験とも呼べるような幻や啓示を、非科学的として否定することもあるかもしれませんが、一方、脳科学のより深い知見を知る私たちからすれば、パウロの神秘経験を受け入れることに何のためらいもないことです。
史的に見ていきますと、パウロは、ケバル川の岸からエルサレムまで、神の幻を見ながら旅したエゼキエルの記録(エゼキエル8:3; エゼキエル11:1)などの旧約の預言者たちの神秘体験に目を向けると、そこに彼自身の体験の答えではないにせよ、類似性があることに気がつかされます。ここに、パウロの旧約的な預言者としての側面があるということに気がつきます。
パウロは第三の天にまで引き上げられたという神秘的体験が、今回の御言葉の基底にあって、『そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。』という8節の言葉につながっているというように考えられます。
神秘体験の解釈と御言葉
彼の体験は、特別なものでしたが、彼はこのような神秘的体験を神認識の高次の段階と見なしてはいません。また、すべての信仰者の神体験の最終目標とはしていないというところに注意しなければなりません。しばしば、私たちが曲解してしまうところに、神秘経験があるかないかで信仰の優劣があるとみなしてしまう傾向にあることです。パウロはこうした神秘経験について注意を促しているところに目を向けなければいけません。
神のことばと明らかに矛盾したり、神のことばによる確証を伴わない神体験は、その体験が旧約聖書や新約聖書に見られる宗教体験とどのような類似性があるにしてもキリスト教の神体験ではありません。また、自分が経験した神体験を誇るということがあってはいけません。
現代においては、自然科学の影響のもとに霊的な世界を否定する精神が支配的ですが、一方で人間の心には霊的な知識の要求があります。
しかも神を知るために、科学や理性で知ることの限界がある限り、今後とも様々な形態の神秘主義思想が生れてくるのは必然です。
科学が、そもそも心の必要を応えるどころか、不安をもたらす状況ではなおさらでしょう。こうした科学の限界に応えるのが神秘主義思想がクローズアップされてきます。キリスト教神秘主義が追求し、今も追求しようとしている深い神体験は、現代の教会が足りない部分を補うものとして最も必要としているものの一つであると考えられています。
しかし神体験というものは、いつの時代にも主観的な解釈の危険にさらされています。つまり、御言葉が何を語っているのかよりも自分の主観が恣意的な解釈が重要視されるという危険性を踏まえたうえで、つねに私たちの信仰が神秘体験ではなく、御言葉に立っているのかが問われることであると覚えていきたいと思います。
預言者的パウロ
使徒パウロが預言者であったかどうかについては、一概には答えられません。しかし、パウロの神秘体験がもとにある、『第三の天に引き上げられた』とする体験を見ていきますと、パウロが旧約の預言者の伝統を受け継いでいるように感じられます。
ところで、「預言者」をヘブル語で(ナービー)といういいます。車のナビゲーションシステムの語源ともいわれていますが、預言者とは神の言葉を預かり、人々に伝える者、の意味で、予言者(未来を予言する)とは違います。
パウロ自身は、預言者としての役割を明示的に主張したわけではありませんが、彼の行動や教えは預言者の特徴を示しているとも解釈できます。パウロは「キリストにある人」として神から啓示を受け、それを伝えることがありました。これは預言者が行うような行為です。一方パウロが預言者としての特定の役割を持っていたかどうかは明らかではなく、またパウロは自身を使徒と呼び、復活したキリストから直接召されたと主張しており、預言者ではないにしろ、預言者的な要素を含んでいます。
こう考えて、8節の言葉を預言として読み込むならば、彼が示した天国の素晴らしさというものは、私たちへの具体的な預言と捉える価値があります。
彼が経験した「第三の天に引き上げられた」体験は、パウロにとって、単に形而上学的な思想ではなく、肉体で感知、体験できるものとして経験したことを物語っています。
つまり、天の御国とは時空を超えたところにある実体のないものではなく、手で触れることができる、目で見ることができる、耳で聞くことができる実体のある場として私たちに語っていることです。
こうした、至高の経験をしたパウロは預言として私たちに提供したとすれば、それは、紛うことのない現実に与えられることであり、絶筆に尽くしがたい『天国』の魅力と経験と希望を語りたくて仕方なかったと思わずにはいられません。この素晴らしさを知った彼は、この世での生よりも来世を迎えたいと思うのは当然のことです。
至高の経験を経たパウロ
こうした特別な経験をしたパウロは、その体験を誇るのではありません。パウロは、こうした体験があるからこそ、『私たちはいつも心強いのです。』と力強く語ることができるのです。6節にも『心強い』(サレオー)という言葉がありましたが、ここでは「確固とした自信」という意味になりますから、パウロの天国の幻は、確信であったのです。
パウロは天国にいざなわれる確信があるゆえに、たとえ、この世にあろうと、不死の栄光が与えられたあかつきであろうとも、その一番の願いというものは、『主に喜ばれる』ことだと結論しています。
『喜ばれる』とあることばのもとの意味は、「受け入れられる」という意味です。さらに、念願とするという言葉は、フィロティメオマイという言葉です。フィロ「恋人、友人」とティメ「認められた栄誉」という言葉が組み合わさった言葉で、個人的に価値のあるものを追い求める(身を捧げる)ことを指す意味を持ちます。
パウロの経験は、私たちがいずれ体験する先駆であり、私たちの先達となったのです。ちょうど、バプテスマのヨハネが、『天の御国が近づいたから』と語ったことばに匹敵します。
バプテスマのヨハネは、悔い改めていない人に向かって、天の御国の存在について示しました。
パウロは、イエス・キリストを信じた人に向かって天の御国について語りました。
ですから、パウロは、天に向かうことのできる喜びのゆえに、自分自身を神が喜ばれるために、喜んで自分を捧げたいのだということを9節で語っています。主に救われるということはこういうことです。主の救いの素晴らしさを知ったならば、私たちは、主が喜ばれるよう(受け入れられるよう)に積極的に変わることができますし、なんとかして家族、友人、知人、同胞、世界の人々…にイエス・キリストの素晴らしさを知って、ともに天国に向かってほしいと切望することでしょう。
また、その天国の素晴らしさを知ったならば、この命がたとえ損じたとしても、惜しくはないと思うことでしょう。パウロは実際そのように生きました。イエス・キリストが我々のいのちを救うがために十字架にかかり、いのちを失いましたが、私たちが救われるならば、天国に向かうならば、惜しくもないと思っていました。それは、父なる神が喜ばれることだったからです。
同様にパウロもそうでした。彼は、一流のユダヤ教の学者として身分も保証されて、尊敬を受けつつその職責を全うし、幸せに暮らしたに違いありません。しかし、彼の後半生はイエス・キリストの救いの幻を受けた時から一変します。今まで保障されたユダヤ教学者の価値以上の価値を、イエス・キリストの福音が持つことに気がつき、彼は福音を伝えることに身を投じていきます。彼は、イエス・キリストが喜ばれるように生きました。なぜならば、いのち以上の価値を持つからです。
キリストの愛に応える
パウロは、10節でキリスト者に対して忠告を与えます。なぜ、私たちが主に喜ばれる(受け入れられる)ように生きなければならないのかという理由が書かれています。
それは、世の終りに主のさばきがあることです。この肉体で行った善悪すべてについて『報いを受ける』からでもあります。
だからといって、救いを得るか、失うかというさばきではなく、信徒が肉体にあってした行為についてのさばきであることです。
こうして見ていくと、私たちにはこの肉体を管理し、神に喜ばれ、受け入れられるようにしなければならない義務があるということです。ですから、私たちに放縦や怠惰ということは許されません。たしかに私たち自身の弱さという面も考慮したうえで、主は私たちをさばくことでしょう。
だからといって、私たちは自分の弱さを言い訳にするべきではありません。弱さにあぐらをかいて、神の栄光をあらわすことを怠ったとしたら主はどう思われるでしょうか。
主は、私たちの罪のために、苦しみを負い、そのいのちを損じました。それは、私たちが永遠のいのちと栄光を受けるためでした。
罪のために滅びることが必定であった私たちを、あえて選んでくださったイエス・キリストの愛に、私たちは誠心誠意応えていくものとして召し出された者であります。
その愛を知ったならば、その方のために生きるのは人間として当然のことです。そうした召し出された者たちをさらに祝福しようと考えておられるのが、主のみこころであります。
いかがでしょうか。私たちは、パウロが示してくれた永遠の御国が確かなものであること、同時に、この与えてくれた肉体を通して私たちはより確かな神の栄光をあらわす事ができる者として選ばれていることです。私たちは、なおも神の栄光をあらわすものとしてこの肉体を自分の快楽や、放縦のために使ってはいけませんし、そうした肉体における喜びを求めた結果、破滅にいたるという現実の情報を数多く見たときに、私たちの国籍は天にあることを覚えて生きることが、これまで以上に求められていることとして覚えていきたいと思うのです。アーメン。
日々の暮らしのなかで
神の愛に応える生き方をもとめましょう
私たちが御国を求めることで、神に喜ばれ、受け入れられるように生きることの重要性を強調しています。私たちは、自分の行動や決定を通じて、神の愛に応える生き方を追求することができます。これは、私たちの日常生活の中での倫理的な決定、人々との関係、そして私たちの信仰生活における行動に良い影響をもたらします。神の栄光を追求する
パウロの神秘的な体験は、神の栄光を追求することの価値を示しています。私たちは、自分自身の生活、仕事、そして信仰生活の中で、神の栄光を追求することを目指すことができます。これは、私たちがどのように時間を使い、どのように他人と関わり、どのように神を礼拝するかに影響を与えます。神の愛と救いを共有する
パウロは、イエス・キリストの愛と救いを知った人々が、その素晴らしさを他人と共有することを強く望んでいました。私たちは、自分の信仰体験を共有し、他人がイエス・キリストの愛を知り、天国に向かうことを助けることができます。