心配してくださる神とは Ⅰペテロ5章7節
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2023年6月4日 礼拝
Ⅰペテロの手紙
5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
πᾶσαν τὴν μέριμναν ὑμῶν ἐπιρίψαντες ἐπ' αὐτόν, ὅτι αὐτῷ μέλει περὶ ὑμῶν.
はじめに
前回、6節でペテロが信徒にへりくだることを求めた理由は、主イエス・キリストの従順さが基準にあることを示しました。主イエス・キリストは、神の御心に完全に従いましたが、その御心とは、すべての人が救われて永遠のいのちを持つことです。その御心のままに従い通したことが、十字架の死でした。
主イエス・キリストがこの目的を達成するために行ったことは何だったのでしょうか?それは、「決定的に、意志的に、直ちにへりくだったこと」です。へりくだりの象徴が、自らを捧げた十字架の死でありました。
このへりくだりとは、私たちが神の力強い御手の下に自分自身を置くことを意味します。主イエス・キリストは自らの力を持ち上げず、神の力に頼って従いました。このようにして、彼は私たちにへりくだることの重要性を示してくれました。
前回の6節では、私たちは主イエス・キリストのへりくだりの模範にならい、神の御心に従うことの重要性をペテロは説きました。私たちも同じように、へりくだる心を持ち、神の力強い御手の下に自分自身を置くことで、神の目的が成就されることを期待できるということです。
今回7節を読んでいきますが、ペテロは思い煩いを委ねることを信徒に説きますが、その御言葉の意味を考えていきたいと思います。
思い煩い
「7節を見ていきますと、まず目に入るのは『思い煩い』という言葉です。その意味は『あれこれ悩むこと』と辞書にあります。」わかりやすく訳せば、それは「不安」という意味です。
二つの思いに引き裂かれた心
ギリシャ語で見ていきますと、メリムナンという言葉ですが、このメリナムンは、心がある方向に進もうとする意志がある一方で、別の要素が異なる方向に進もうとする心の動きであると、ギリシャ語は定義します。
例えば、私たちはある目標に向かって進みたいと思っている一方で、心配や恐れが私たちを後ろに引き戻そうとすることがしばしばあります。不安は、私たちが自信を持って前進することを阻害するものです。それは、心の中での矛盾や対立を引き起こし、私たちの行動や判断に影響を与えます。これが、『思い煩い』や不安の意味するところです。それは、車のブレーキを踏みながら、アクセルを操作するようなものです。私たちの不安の心理の中にはこうした心の動きがあることを聖書は教えてくれます。
実は、不安というものは、神の摂理に対する信頼の欠如を内包しています。またそれは、意識せずとも──────自分の力で物事をうまく処理できると信じていることをも示しています。
神への信頼の欠如と、自分の力への信頼。こうしたことが『思い煩い』の中心にあるということです。
思い煩いからの解放
人間は、不安を抱えている場合は、誰もが放っておくことはできません。
その不安に対処する必要があります。軌道修正を図るということです。
どう軌道修正するのかということですが、そのためには、2つのポイントがあります。
1.信頼できる支え持つことです
2.助言を求めることです
私たちにとって信頼できる支えは、聖書の言葉、御言葉にあります。神が語った御言葉に信頼することです。さらに、助言はイエス・キリストによってもたらされます。イザヤ書によれば、イエス・キリストは助言者(カウンセラー)であると紹介されています。ですから、私たちが本当に不安から軌道修正を図るためには、イエス・キリストに心を向けるということです。
こうして、主イエス・キリストによって私たちは、自己受容と自己肯定感を高めることができます。
神の言葉である聖書を読み、主イエス・キリストとの交わりである祈りによって、私たちはストレス管理の技術を取り入れることができます。不安を克服するためには、祈りと御言葉による主イエス・キリストとの対話や内省が必要です。
ところで、主とともに歩むということは、一朝一夕に身につくものではありません。祈りによって成長するためには、時間が必要です。最初は主は共におられるのだろうかと心配になることや、信仰を投げ出したいと思うときもあるかもしれません。しかし、一歩ずつ進みながら、不安の中で主イエス・キリストと向かい合い、交わりを通して自信を取り戻して前進することが重要です。
祈りの中で、主イエス・キリストと向かい合いながら、不安のブレーキを解除し、自分の目標や夢に向かってアクセルを踏むことができます。
ゆだねなさい
この箇所で「ゆだねなさい」とありますが、ギリシャ語では「ἐπιρίψαντες(エピリファンテス)」という言葉が使われています。この言葉は「投げる」という意味です。辞書を調べても「ゆだねる」という意味は見当たりませんでした。
新改訳聖書は意訳しているように思われますが、直訳すると、「彼にすべての心配を投げかけなさい」という意味になります。
英語の聖書でも、「casting all your care upon Him」
(彼にあなたのすべての心配を投げかけなさい)と訳されています。
「ἐπιρίψαντες(エピリファンテス)」という言葉は、不定法過去分詞が用いられているため、神に対する断固とした態度を示す意味があります。
したがって、この言葉の意味を考えると、「断固として、すべての心配を神に委ねなさい」という表現が適切でしょう。この表現は、断固とした態度や決断を示し、心配事を完全に神に委ねることを決意する意味です。
つまり、心配を捨て、主イエスに全面的に頼る姿勢が「ἐπιρίψαντες(エピリファンテス)」ということです。ただ「ゆだねなさい」と言われると優しい印象を受けますが、実際はそうではありません。この言葉は、信仰を選ぶか、自分自身で心配事を抱え続けるかを明確にするよう促しています。
自分の人生を自己中心的に生きるのか、それとも自分の人生を十字架に捧げるのかを問いかけているのです。
旧約にみるゆだねるということ
ここで、ἐπιρίψαντες(エピリファンテス)「ゆだねなさい」という言葉に関連する御言葉を紹介します。それは旧約聖書の伝道者の書の御言葉です。
このソロモンの言葉は、自信と信仰を示し、神の保護と導きを信じる者が完全に依存することを強調している言葉です。
水の上にパンを投げることほど、無駄なことはないように思われますが、そこにこそ、信仰があることを示す言葉です。
この言葉は、私たちに信仰の決断を迫るものであり、自分自身の力や計画に頼るのではなく、すべてを神に投げかけることを選ぶことを促しています。それは、イエス・キリストが私たちを救うために、自分を捨て十字架におかかりになった決然とした意志でもって神の御心に従ったことを意味します。
心配してくださるから
なぜ、私たちが神にすべてをゆだねることができるのかと言えば、それは、『神が~心配してくださるから』と、新改訳聖書は訳してます。
『心配してくださる』ギリシャ語ではμέλει(メレイ)と書かれてます。(メローの三人称単数で意味は、「気にする、心配する」。詳しくは特に注意を払う(考えを与える) - すなわち「関心を持つ」、「何らかの懸念を含む 」という意味です。
つまり、神は私たちに対して、単に心配してくれているということだけでなく、気にかけるという意味を持ちます。
かと言いましても、心配してくださるといいますと、どうでしょうか。
神が私たちに対する気持ちはそんなものなのかと感じてしまうのは、私だけではないでしょう。
そこを詳しく見ていきますと、神の御心がわかります。ギリシャ語では、
ὅτι αὐτῷ μέλει περὶ ὑμῶν.
(ホティ ハウトー メレイ ペリ ヒュモーン)
直訳すると『なぜなら、神はあなたについて関心がある』と訳せます。
実は、このⅠペテロの手紙5章7節は、詩篇55:22を引用した言葉であると考えられています。詩篇55篇はダビデのマスキール(教訓)ですが、そのなかでダビデはこう言います。
詩篇からの引用
この詩篇の中で、「心配してくださる」のヘブル語 כּוּל (クル)は「保持する、世話をする、養う、扶養する、老後を看取る」という強い意味があります。これは生存を保障する意味を持つ言葉であるということです。
ダビデは歴戦の勇士ではありましたが、決してほめられた人生を送ったわけではありません。幾多の困難や失敗を重ねてきた人物です。順境にあるよりも窮地にあったことのほうが多かったような人物です。そうした逆境の人生のなかで生み出された言葉が「心配してくださる」のヘブル語 כּוּל (クル)という言葉です。
ダビデいわく、神は私たちの全生涯を担う保証を持つお方であるという表明です。単に心配するだけではない、私たちの責任をとってくれるお方だということです。主は、そういうお方であると知ると私たちの心にやすらぎがきますね。
私が成人した時に、納税の書類や年金の支払いの通知が来ました。その時初めて、大人になったことを悟りました。
通知書を見て、これから親から離れて自分で生活を成り立たせていかなければならないのだと思った時に、自分の肩にずしりと重荷を覚えたことを思い出します。今までは、親の扶養に入っていたため、だいぶ楽していたんだということを知ったのです。
自分が結婚し、家庭を持ち、子供を育てる。私は、開拓伝道を始めましたが、先のことを考えると不安になります。健康のこと、経済のこと、教会が建て上げられていくのか等々悩むものです。
また、節目節目で担う重荷は変わってきます。その度ごとに不安にさいなまれるという経験をしてきました。こうした悩みは、自分だけではなく、誰しも迎えるものです。
それこそ、人生というのは、思い煩いであり、心配の連続であり、悩みは尽きることはありません。自分の仕事、家族を守ること、社会の中での責任。
若い人であれば、自分の進路や将来への見通し。定年を間近に控えた人にとっては老後の不安・・・。
そこで思うことは一つ。
多くの人は、結局人生は孤独だという結論にいたるかと思います。ダビデの息子ソロモンは、非常に繁栄し、人間が考えつくあらゆる事を実践し成功を収め、知力や財力、人材に恵まれて幸せな生涯を送ったかと思いますが、彼は伝道者の書の冒頭で次のように人生を総括します。
そうした中で、人々は様々な反応を示します。
人生は孤独だと受け止め忍耐する人、あるいは直視せずに、力ある人に依存する人、集団の中に溶け込む人、また、人生を放棄する人・・・。
ところが、主なる神を知り、信じた人には神は祝福を与えるのですね。
どのような祝福かといいますと、私たちの存在が空でないことです。
主は、私たちに関して、常に関心を持っておられる。とペテロは語りました。しかも、その言葉の元になった詩篇では、わたしたちの全生涯への保証と、神は常に安心をもたらそうと心くだいてくださっているということです。私たちは『空』で終わることはありません。
同じダビデの言葉が、詩篇23:1にはこうあります。
主は私の羊飼いであるとダビデは語りました。羊飼いなのです。私たちの飼い主であるとイスラエルの名君ダビデは言っております。
この言葉を聞いた時に、大人になった自分にとって、たましいの親となってくださるお方が確かにいらっしゃるという実感を持たずにはいられません。
かつて小さな頃、実の親に抱かれ頭を撫でられた記憶。そうした脳裏にある幼き頃の原風景と、親となってくださっている神が重なるものです。
私たちを愛し、慈しんでくれているということが、『心配してくださる』という意味です。今も、私たちを心配でならない。なんとかしたいと手を伸ばした姿が、イエス・キリストであり、その十字架です。
私たちを実の子として扱い、今も私たちを守ってくだっておられる。そうした姿をイエス・キリストに見出した方は幸いであります。
今も、この愛のお方に守られているということを覚えて今週も歩んでいきましょう。ハレルヤ。
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。