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ハムレット症候群

後が案外生きることよりも穏やかで、楽なものだとしたら、恐れる必要もないはずである。それを確認して帰って来れる人がいないものだから、本当のところどうかはわからないが。確かなことは、私たちが恐れているのは「死」という状態ではなく、その実「死ぬこと」という変化ということ。その恐れから、ただ生きている現状を維持し続けている、ということに気づくことができる。
「死ぬ」とは、エネルギーの遷移のようなもので、私たちがある意味で「死ぬ」という山を越えなければ、わざわざその先の境地に踏み入れることはできない。生きている状態と死んでいる状態に本質的な差がないと仮定したとすれば、私たちが生き続けてしまう理由は、「山を越えるのが面倒だから」ということになる。個々に生きる目的は数多あり、種々の生き方はあれど、結局それはその人生の枠内の話であって、死をも壇上に揚げ生きている理由を説明しようした時、ただ偶然生まれたからというもの以外に帰結のしようがない。
 

 もそも、人間を含む生命は「現状維持」することに存在の本質がある。生命を維持するために恒常性維持機能を備えており、身体は極端な温度変化を避け、代謝を調整しながら自らのバランスを保とうとする。限られた環境でしか生きられない身体を守るため、変化を抑え、安定を維持するこの本能的な仕組みこそ、私たちが現状維持を取り続けることに根拠を与えている。
 

 方で、集合体・共同体においてに限らず、個人においてまで現状維持を否定する向きがある。「変化しないことは衰退と同じ」などと言われ、前進することが求められる。しかし、恒常性維持の観点からすれば、個体にとって変化し続けることは積極的に死に向かう行為ではないか?もし「変化しなければ生き残れない」と言うのならば、それは個体の話ではなく、種や社会のレベルの話である。自然選択や適者生存といった理論は、集団の中での競争を説明するものであり、個体の生き方に対してではない。
 

 たちは「いつかは来るが、今じゃないもの」として死から目を逸らし続けており、生き続けることに関しては大義などなく、ただ偶然生まれ落ちたついでに生き続けているだけなのだ。変化がもたらす可能性や未来の価値を語る理論がいくらあっても、個々の人生において、山を越えるという行為は、言ってしまえば面倒な一歩に過ぎない。少なくとも、いま、わざわざ山を越える理由はないし、To beとNot to beの違いも大して重要じゃないのである。

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