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パトリシア・ハイスミス『11の物語』(小倉多加志:訳)

「かたつむり観察者」(The Snail-Watcher)

 食用かたつむりを観察し、飼育するようになったピーター・ノッパードの「悲劇」。
 ハイスミス自身がかたつむりの飼育を趣味としていたことはよく知られていて、英語版Wikipediaには、かつて彼女は「レタス1個とカタツムリ100匹が入った」「巨大なハンドバッグ」を持ってロンドンのカクテルパーティーに出席したこともあったと書かれていたが。
 この作品にも出てくる、かたつむりのセックスについては、わたしも「虫」のいっぱい出てくる映画『ミクロコスモス』のなかで紹介されていたのを観たことがある。
 ‥‥全身が粘膜ともいえるだろうかたつむり同士が、ぴったりとからだをくっつけ合って、ヌメヌメとお互いのからだのうえを愛撫するように這い回るわけで、粘膜=性感帯だという通念で解釈すれば、それはいかほどの快楽になるのだろうと想像すると、ほとんど気が遠くなりそうになった記憶がある。
 この短編も、そんなハイスミスの「かたつむり観察」の成果が書かれていることだろう。かたつむりのセックスの描写は、ハイスミスの観察したものの記録だろう。

 主人公のピーター・ノッパードはかたつむりを飼うようになってからは仕事の業績も上がるのだが、その後「かたつむりの繁殖力」におそれをなしてか、かたつむりを飼育する書斎に二週間も足を運ばなかった。そしてピーター・ノッパードが意を決して書斎に入ってみると‥‥。

 ハイスミスのいつもの長編とは異なり、これは「怪異譚」とも言えるものだろうけれども、ラストのピーター・ノッパードを襲う恐怖は、やはりハイスミスならではのものだろう。


「恋盗人」(The Birds Poised to Fly)

 主人公のドンは、しばらくのヨーロッパ滞在からニューヨークへ戻ってきた。帰ってきてから、ヨーロッパで付き合ったロザリンドのことが忘れられず、「愛しているから結婚してくれ」との手紙を出した。「ニューヨークへ来てほしいが、望むなら自分がヨーロッパへ行ってもいい」とも。
 それから毎日のように郵便受けをのぞくのだが、ロザリンドからの返事は来ない。「性急すぎたか」と思うこともあったし、「彼女も気もちの整理がつかないのだろう」などと好意的に考えるドン。

 そのうち、自分の住まいのとなりの部屋の郵便受けが郵便物であふれていることが気になり始める。どうやら隣人は部屋にずっと帰っていないのだろう。ついには「ロザリンドからの手紙は間違えてとなりの郵便受けに配達されたのではないか」と思うようになり、となりに届いた郵便物をチェックすることになる。その中に、女性から隣人に宛てられた手紙を見つけ、ドンはその手紙を開封して読んでしまう。
 そこには、「あなたと別れてからもあなたのことが忘れられない。もう一度会っていただくか、返事を書いてくれないだろうか」という内容だった。
 ドンがロザリンドに書いた手紙に似ていると思ったドンは、その女性が隣人から返事をもらえないことに同情し、なんと隣人の名前でその女性に手紙を出してしまい、近くの駅で会うことを約束してしまう。

 ドンの行為は、そこに自分のロザリンドへの思いの反映があるだろうが、「いたずら」ではすまされない、一線を越えた行為ではあるだろう。
 このあとどうなったかは書かないでおくけれども、ハイスミスならばこの発端から、充分にハイスミスらしいヤバい長編を書くこともできただろう。


「すっぽん」(The Terrapin)

 ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』の中で、この短編のことがちょっと語られて、なんだか有名になってしまった作品。というか、『PERFECT DAYS』のおかげで、この『11の物語』はずいぶんと売れたようだが。

 主人公のヴィクターは11歳。母親とふたり暮らしらしいが、母親がいつまでも自分のことを「子供」扱いすることにうんざりしている。いつもピチピチの短いズボンとひざ下までの長靴下を履かせ「フランスの6歳ぐらいの子供」みたいで、学校でもバカにされる。ヴィクターは実は母親に隠れて心理学の本を読んだりもするのだが、母親はいつまでもヴィクターにスティーヴンソンの『子供の詩の園』から暗誦をさせ、いつも人にはヴィクターのことを「まるでねんねなんですよ」などと言う。ヴィクターがつい「無念無想」などということばを使ってしまうと、「おまえ、頭がおかしいんじゃないの?」となる。要するに、まるで子供のことを理解しようとしない母親なのだ。

 ある日、母親が来客用のシチューをつくるために、生きたすっぽんを買ってくる。さいしょは自分のためにすっぽんを買ってくれたのかと思ったヴィクターだが、料理用と知ってがっかりする。「このすっぽん、友だちに見せにいってもいい?」と聞くのだが、もちろん「ダメ!」といわれる。そして、ヴィクターの目の前で、お湯を沸騰させた鍋の中にすっぽんを放り込むのだった。鍋の中のすっぽんは口を開け、いっしゅんヴィクターをまっすぐに見て、熱湯の中に沈んでいった。
 ヴィクターは「あんな殺し方しなくっていいじゃないか」と言うのだが、母親は「知らないの? こうすれば痛くないのよ」と言う。母親は反抗したヴィクターの頬をしたたかに叩いたのだった。
 すっぽんの死ぬさまを思い出したヴィクターは涙を流し、そしてある行為を決意するのだった‥‥。

 この前に読んだ『死者と踊るリプリー』でも、リプリーがロブスターを熱湯に入れる場面を見たがらないという描写も出てきたし、ハイスミス自身、こういう「熱湯で生き物を殺す」ということをヘイトしていたのだろう(何年か前、スイスではロブスターなどの甲殻類を生きたまま熱湯でゆでる調理法がじっさいに禁止された)。

 ヴィクターにとって、「すっぽん」がすべての理由ではなく、ただ「きっかけ」にすぎなかっただろう。
 単に「じっさいの暴力行為」でなくっても、「子供のことを理解しない親」というのは、充分に「DV」をはたらいていると言えるだろう。
 「ヴィクター」の中に「自分」をみる子供という存在は、今でもけっこういることだろう。
 

モビールに艦隊が入港したとき」(When the Fleet Was In at Mobile)

 「序文」で、グレアム・グリーンが「お気に入り」とした作品。主人公ジェラルディーンの「内的独白」を交えながら、彼女の視点からのみ彼女の行動を追っていく「一人称」作品。

 ジェラルディーンは寝ている夫のクラークに大量のクロロフォルムをかがせ、殺害しようとしている。しばらく様子を見てもうクラークは呼吸していないとみて、外に飛び出す。ジェラルディーンは十四ヶ月前にクラークと結婚したのだが、さいしょの期待した幸せな結婚生活はなく、クラークは彼女に暴力は振るう上に嫉妬深く、彼女を家から外に出そうともしないのだった。「もうこんな生活ともお別れ」と、とっておきの服を着て町を出るバスに乗り、姉の家へ行こうとするけれども、その前に幼い頃に家族で訪れた町で途中下車してみる。

 短い旅行のあいだ、ジェラルディーンは自分の今までのことを思い出している。むかし友だちのメアリアンと、モビールのレストランでウェイトレスをやっているときは幸せだった。そのモビールに艦隊が入港したとき、町には船乗りであふれてメアリアンはその時出会った男と結婚した。ジェラルディーンはレストランを首になってしまったけれども、そのとき知り合った男にスター・ホテルに連れて行かれ、そこで寝起きしたのだった。しかし男はいなくなってしまい、実はスター・ホテルは売春宿だということがわかった。いやおうもなく娼婦としてしばらくホテルを仕事場にしたが、そんなときにクラークと出会ったのだった。

 下車した町で「空室あります」という下宿に宿泊したジェラルディーンは、その夜に町に出て移動遊園地へ行き、回転木馬に乗る。そこで彼女は、高校のときの同級生のフランキーと出会う。ジェラルディーンは「自分も幸運にめぐり会ったのだろうか」と思い、フランキーといっしょに歩くのだが。

 読んでると、不幸の連続だったジェラルディーン、「きっとそのフランキーだってロクなやつじゃないぞ! 気をつけろ!」とか思うわけだ。場所は「移動遊園地」だし、映画『見知らぬ乗客』みたいなことになりそうに思う。いやいや、そうはならないのだが、ジェラルディーンにとって、もっともおぞましい、「絶望」の結末が彼女を待ちかまえているのだった。う~ん、これ以上の「絶望」があるだろうか。あまりに残酷な結末。パトリシア・ハイスミス、あまりに無慈悲すぎないか?


「クレイヴァリング教授の新発見」(The Quest for Blank Claveringi)

 もう一つの「かたつむり」の話。動物学の教授のクレイヴァリング氏は「新種の動物」を発見して、その動物に<クレイヴァリング〇〇>という名前を付け、自分の名を永遠に残すことがひとつの夢だった。
 あるとき博士は、ハワイの近くのある群島の近くのクワ島という無人島に、巨大なカタツムリが棲息している可能性を知った。近くの島の原住民にその「人を食う巨大なカタツムリ」の言い伝えがあり、あるとき原住民総出でその島へ行き、カタツムリをみ~んな殺したというのだが、どうも1匹だけ殺されずに生き延びているのではないか、というのである。

 金も暇もあったクレイヴァリング教授は計画を立て、まず帆船を調達して一人でそのクワ島へ行き、カタツムリを発見したら一度すぐに近くの島へ引き返し、カタツムリを入れる木枠をつくって帆船に積み、再びクワ島へ行ってカタツムリを連れ帰ろうと考えた。
 たっぷりの食糧、そしてカメラ、武器を帆船に積み、教授は近くの島から単身クワ島へと出発した。しかし帆船がクワ島に到着して接岸しようとしたとき、教授は「上陸用にボートが必要だった」と気づくのだ。う~ん、これは基本的なミステイクではないのか(だいたい、誰か助手を雇って複数人で行動すべきだったろうが。しかも、水や食糧さえ島へ持って行かなかったのだ)。

 しょ~がないので教授は出来るだけの浅瀬まで帆船を進めて碇を下ろして、単身カメラとナイフ、斧だけを持って海を渡って上陸するのであった。そしてしばらく進むと、思ったよりもかんたんに探す「巨大カタツムリ」と遭遇するのであった。殻の直径20フィート(6メートルほど)という大きさである。「やったぜ!」と喜んだ教授はカタツムリの写真を撮り、まずは帆船に引き返してとなりの島に戻り、運搬用の木枠をつくって人を雇って出直そうと考えて帆船のところへ戻ろうとする。
 ところがカタツムリの方も教授に気づき、「肉食」の習性ゆえなのか、教授に迫りはじめるのである。
 カタツムリの歩みはのろいから、追いつかれることはないとタカをくくっていたが、帆船の停泊地に戻ってみるとなんと、帆船は遥か沖合に流されてしまっていたのであった。碇をちゃんと固定させなかったのか。

 とても帆船に泳いで戻れそうもなく、教授は水も食糧もなく無人島に取り残されてしまったのだ。大きな島ではないので、どこへ行ってもじわじわとカタツムリが追ってくる。ついに島の反対側の岩場に「隠れ場」になりそうな岩場を見つけ、そこに避難するのだが、博士はそこでもう1匹の大きなカタツムリ、そして数多くの小さな子どもカタツムリを発見するのだった。
 なんとか夜を明かした教授だが、翌日になるとカタツムリはなお迫ってくるし、教授は飢えと渇きのためにフラフラになってしまう。ああ、絶望的だ。教授は持っていたナイフや斧でカタツムリに立ち向かおうとするが、あのヌメヌメしたカタツムリのからだにはたいていの武器は役に立たないようだ。だんだんにカタツムリは教授との距離をつめてくるのだった。

 「教授、基本的な準備が足りないよ~」とは思うのだけれども、だんだんにカタツムリに追い詰められていく描写はまさに「ホラー」。
 「怪獣映画」として映画化したらすごいだろうなあ、とは思ったけれども、「巨大なカタツムリ」のヌルヌル身体をリアルにつくるのはむずかしそうだ。やはり読み手の想像力の中で「恐怖」を培っていく作品なのだ。こわい。


「愛の叫び」(The Cries of Love)

 この作品はちょっとした小ばなし風。ホテルの部屋にいっしょに住む2人の老女の、奇妙な関係が描かれる。
 アリスとハッティーとは、もう7年もひとつの部屋でいっしょに暮している。別の部屋の老女や、ホテルの女主人との付き合いもあるが、食事はいつも2人でいっしょ。でもアリスが大事にしていたテーブルクロスにいつの間にかシミがついていたり、愛読していた詩集がなくなったりしていた。「ハッティーがやったのじゃないかしら」とは思うが、ついにあるときハッティーは、夜のうちにアリスのお気に入りのカーディガンをハサミで切り裂いてしまうのだ。それはひどい。
 アリスはハッティーに「あなたがやったのね」と聞くが、ハッティーは「わたし知らないわ」と答える。

 怒ったアリスはハッティーが寝ているあいだに、ハッティーが自慢にしていた彼女の長い髪を切ってしまうのだった。
 ちょっと一線を越えてしまった感もあり、ホテルの女主人も「別々の部屋にした方がいいんじゃないの」と助言し、ついに2人は別々の部屋になったのだが、2人とも眠れない日がつづき、3日も経ったとき、「やはりいっしょの部屋に戻りましょう」となる。
 でも、互いに自分の行為を反省したわけではなく、「次は何をやってやろうかしらね」などと考えているのだった。

 「友情」の、極端なひとつのかたちというか、「相手の嫌がることをする」というのはそれこそ「悪意」だろうけれども、相手あってこその「嫌がらせ」ではあって、互いに相手に依存しているわけだろう。


「アフトン夫人の優雅な生活」(Mrs Afton, among Thy Green Braes)

 精神分析医のフェリックス・バウアー博士の外来患者に、自分のことではなく自分の夫のことで相談に来る、アフトン夫人という人がいる。彼女はバウアー博士の見立てでは中年にしては美しい人で、精神的にもまったく健康な人に見え、「この世界をもっと美しい世界に変えてしまうような生き方」の人に思えた。ただ、彼女が語るには彼女の夫はあまりに自分の健康に気をつかいすぎているようで、健康に留意した食事療法をやり、身体鍛錬、トレーニングの設備の揃った生活ぶりだという。
 バウアー博士は「ご主人にお会いしないと判断は下せません」と伝えてはいるのだが。

 そういう夫人の来院がしばらくつづいたあと、アフトン夫人から「今わたしの家においでになれば、主人の様子を観察することができるので、ぜひおいで下さい」との電話がある。

 この作品は、読んでいてとちゅうで「オチ」がわかってしまった(だから「駄作」だというのではないが)。
 教訓:「人は見かけでは判断できないのだ」
 

「ヒロイン」(The Heroine)

 パトリシア・ハイスミス24歳の時のデビュー作。このときからすでに、人の精神の歪みを冷徹に捉える視線は恐ろしいほどに鋭かったようだ。

 主人公のルシールは21歳。クリスチャンセン家で募っていた保母(ナニー)に応募してきたのだ。面接でのルシールの「ぜひ、子供さんのいるおうちで働きたかった」という熱心さ、一途さに打たれ、クリスチャンセン夫人は彼女を雇い入れることにする。以後、ストーリーはルシールのそのときそのときの考え、思いを描きながら彼女の行動を追っていく。

 まず使用人部屋に落ち着いたルシールは「これからは仕合わせな、人のためになる生活をはじめて、今までのことは何もかも忘れてしまうのよ」と考える。

 「今までのこと」とは何なのか。どうもヤバそうな気配がする。クリスチャンセン家で仕事を得る前はニューヨークでメイドを七ヶ月やっていたというが、そのときに何かあったのか。このあともルシールは、「精神科のお医者さんも、わたしは他の人と別に変わりはないと言ってたのだ」などと追想する。医者は彼女に「お母さんに緊張(ストレイン)が現れているというだけで、お父さんは正常なのだから、あなたが正常じゃないという理由は何もありません。あなたの家族との生活を忘れて、市外で勤め口を見つけなさい」と語ったのだった。実はその母親は、三週間前に病院で亡くなっているらしい。

 クリスチャンセン家には、9歳の兄と6歳の妹がいた。しばらくするうちにルシールは兄妹に献身的につくし、兄妹にも慕われるようになる。母親も「いい保母さんだこと」とルシールを信頼するようになる。
 しかしクリスチャンセン夫人がルシールにさいしょの週給を支払ったとき、ルシールは「とてもこんなものは受け取れない」と夫人に給金を返そうとする。ルシールはただクリスチャンセン家の人々の役に立ちたいだけで、そのことへの報酬などはいらないのだ。
 やむなく金を受け取ったルシールは、それでも自室で紙幣を細かく引き裂き、火をつけて燃やしてしまうのだった。彼女はその炎を見ながら、「あたしがどんなに役に立つか証明してみせればいいんだわ」と強く思うようになる。それは例えば、兄妹を死の危険から救い出すことだろうか。例えば妹が悪漢に襲撃されるが自分があいだに割って入って、自分は重傷を負うだろうが妹を助け出すようなこと。

 読んでいると、だんだんにルシールは「正常」ではないだろうと気づいてくることになる。ページをくくるごとに、彼女はどんな異常なことをやらかしてしまうのかと、恐ろしい思いに囚われてしまうだろう。そして最後のページでは「そう来たか!」という感じではあった。一流のサイコ・ホラーであろう。

 彼女の「異常さ」にどのようにその母親の存在が関係していたのかはわからないけれども、例えばわたしなんかでも、強盗事件のニュースを知れば「その場に自分がいたら事件をすぐに解決しただろうに」とか、子供が事件にあったニュースを知れば「わたしがいればその子供を守ってあげられただろう」とか、特にむかしは「夢想」もしたものだった。
 ルシールはそんな考えが肥大して、つまりは自分が「ヒロイン」になるべく、自分で「事件」を起こしてしまうという、「自作自演」の道を選んだのだ。


「もうひとつの橋」(Anothe Bridge to Cross)

 主人公のメリックは織物会社の経営者だが、四ヶ月前に交通事故で妻と新婚早々の息子とを亡くしていた。愛する者たちをいっしゅんに失ったメリックは「うつ」に取り憑かれ、医師たちはメリックがのんびりとヨーロッパに旅行に出て、各地で友人たちと会う予定を立てるようにと勧めた。
 まずメリックはローマの友人宅を訪れたが、そこに一泊したあと、ミュンヘンで別の友人夫妻と会うことにした。車での移動の途中、リヴィエラで道路をまたぐ陸橋から男が身を投げて自殺するところを目撃してしまう。

 メリックはいくつかの観光地のホテルに宿泊し、目撃した自殺事件のことが新聞に出ていないかとチェックする。
 自殺したのは32歳の失業中の男で、病身の妻と5人の子供(みんな10歳以下)とがいたのだった。自殺した男は「オレが死ねば、国は妻と子供たちにわずかでも年金をくれるだろう」と話していたらしい。
 ホテルがどこもしっくり来ないメリックは、小さな町のホテルに宿泊してみる。そのホテルにはテラスの向こうに小庭園があったのだが、けっこう荒れて「野趣に富む」風情を、メリックはすっかり気に入ってしまうのだった。日暮れどきに庭園に出てみると、奥には木に半ば隠れたベンチがあり、そこには新婚らしい若いカップルが座っていた。そのうちにどこやらか、ギターの音色も聴こえてくるのだ。

 しばらくそのホテルに滞在することにし、滞在客の知り合いもでき、町では貧しそうな靴磨きの少年とも知り合う。
 メリックは、自殺した男の住まい宛てにかなりの金額の為替を贈ることにして実行する。
 そのうち、ホテルにその少年を招き一緒にディナーを楽しもうと考え、ある夜に少年を招く。
 しかし次の日、複数の宿泊客が「持ち物がなくなった」とホテルに訴え、ホテルも皆も「あの少年がやった」と判断する。しかしメリックは「彼はそんな子ではない」と否定する。

 翌日少年に出会ったメリックは、少年に「本当のことを言えば金をやろう」と話すと、少年はあっさりと「自分が取った」と語るのだった。絶望したメリックは、少年に背を向けて立ち去るのだった。
 メリックが郵便局へ行くと、先に出した為替が戻って来ていた。「どうしたのだろう」と思うと、事情を知る局員がいて、その自殺した男の妻は子供らを連れて無理心中したのだという。
 彼はその夜、ホテルのロビーに「今夜はずっと庭で過ごしたい」と語り、一夜をお気に入りの庭で過ごすのだった。そのうちに雨が降り出したが、メリックはそのまま庭に居残った。
 いつしか雨もやみ、メリットは「いつまでもこうしていてもいけない」と最後にタバコを一服して、ロビーで清算してミュンヘンの友達夫婦の元へと向かうのだった。

 わたしは、この作品が「お気に入り」だ。そのホテルの庭の描写がしっとりとして情緒たっぷりだし、妻子を亡くしたメリットに追い打ちをかけるような「絶望感」もつらいけれども、彼はラストにしっかりとその「絶望」を克服したようだ。作品のさいごの言葉は、「次の旅の始まりだった」というものだ。わたしにはその言葉は(ハイスミス作品には珍しく)メリットの「復活」のように読み、わたし自身への「励み」になる気がした。ありがとう、ハイスミス


「野蛮人たち」(The Barbarians)

 主人公のスタンリーは、毎日曜日にはアパートの自宅(おそらくは2階か3階)で趣味の絵を描くことを楽しみにしていた。ところが毎週日曜日になると、アパートのそばで男たちが野球を始めるのだ。彼らの歓声がうるさく、絵を描くどころではなくなってしまう。
 同じアパートの上の階の老人が窓を開け、彼らに「静かにしてくれ!みんなひと眠りしようとしているんだぞ!」と声をかけるが、男たちは「オレたちは何も法律は破っていないぞ、くそったれ!」と答える。彼らは皆三十代の五人の男たちだった。
 そのあともいつまでも彼らは騒ぎつづけるので、スタンリーも窓を開けて「やめろ!」と声をかけたが、男たちは「うるせえ!」と、アパートの生垣に植えられた灌木の苗を引っこ抜くのだった。その灌木の苗はスタンリーが植えたものだったので、スタンリーは部屋をとび出して彼らのところへ行き、やめさせようとするのだが、彼らに押し戻されて転倒して部屋に戻る。

 彼らはバットを持ちだして野球をつづけるのだが、スタンリーは入り口に置いてあった石を持ち上げると、窓の下の男の頭をめがけて石を落とすのだった。
 石は命中したようで、男たちは「大丈夫か?」と声をかけている。そしてスタンリーの部屋の窓に石を投げて窓ガラスを割り、そのまま消えてしまった。

 この作品は一面でハイスミスの傑作長編『変身の恐怖』のヴァリエーションのような作品で、つまりその後スタンリーは「自分が落とした石であの男は死んでしまったのではないだろうか?」との不安に駆られるのだ。そしてスタンリーは町で野球をやっていた男たちと出くわし、「何か仕返しをされるのだろうか?」と身構えるが、彼らは何もしないのだった(スタンリーは男たちは自分のせいで死んだ男の葬式に行っていたのではないか、などと考えるが。
 そのあとスタンリーの部屋のドアにガムが詰められたり、また窓ガラスを割られたりなどということがつづく。
 
 でも主人公の不安は長くはつづかず、次の日曜日には頭に絆創膏を貼ったあの男も皆とやって来て、また野球を始めるのだった。

 こういう、公園などでの騒音の問題は近年の日本でも起きており、「子供の遊ぶ声がうるさい」との苦情から公園が閉鎖されるなどということが現実に起きてしまっている。
 日本の公園では野球、キャッチボールは禁止されているけれども、それは遊ぶ人間の声がうるさいからではなく、ボールがあぶないからだろう。
 スタンリーもひと月ほど前に警官に「野球をする男たち」のことを訴えていたのだが、警官はただ笑っているだけだった。1960年代、70年代のアメリカの現実だったのだろうか。しかしこのときハイスミスはヨーロッパで暮らしていたはずで、「事実の認識」とは思えない。ハイスミスの「アメリカ嫌悪」の一例なのだろうかと思う。


「からっぽの巣箱」(The Empty Birdhouse)

 イーディスは34歳、チャールズと結婚して7年になり、金銭的な余裕もあり「幸せ」だと感じているが、子供はいない(イーディスはいちど流産している)。
 ある日イーディスは、庭の巣箱の中にリスみたいな顔のげっ歯類らしい動物がいるのを目にする。すぐにその姿は消えてしまうが、それからしばらくして、こんどは室内でその動物の姿を目にする。イーディスはその動物を赤ん坊の「ユーマ(yuma)」だろうと思うのだが、「ユーマ」などという動物はいないのだった。

 イーディスはその動物のことを夫のチャールズに話すが、さいしょチャールズは信じようとしない。そのうちについにチャールズもいっしょにその動物を目撃することになり、「なんとかしなければ」と、知り合いの家でやっかいモノ扱いされているネコをしばらく借りることにする。そもそもイーディスもチャールズもネコが好きなわけではなかったし、愛想のない可愛くもないネコだったのでなおさらのこと気に入らない。

 しかしある朝、居間にその「ユーマ」のずたずたにされた死体が転がっていた。体じゅう傷だらけで、頭も失せていた。やはり何の動物なのかはわからない。
 とにかくひと安心した夫妻は、ネコを借主に返すのだが、借主は「そのネコ、もらってくれるといいんだけれど」みたいなことを言う。そこを何とか返却したのだが、しばらくすると「ユーマ」がまた巣箱に姿をあらわした。

 イーディスはその「ユーマ」とは、むかし自分が流産したとき、「子供は欲しくない」との思いから自分で転倒して流産した罪悪感の形象化ではないか、みたいなことを考える。
 チャールズにしても、若い頃に仕事で自分の出世のじゃまな上司を陰で誹謗中傷し、おかげでその上司は退職、その後自殺されたということへの罪悪感を持っている。

 夫婦は「今度こそ自分たちで退治しよう」と「ユーマ」に迫るのだが、そのとき家の門から、あのネコがとぼとぼと家に入って来たのだった。飼い主の家から2マイルも離れているというのに。
 イーディスは「何もかも前世のさだめなのだろう。ユーマが姿を見せた巣箱にはユーマはいないだろう。それでもまた家の中にユーマはあらわれ、あのネコがユーマを捕まえるのだ。わたしとチャールズはもうあれとは縁が切れないのだ」と思う。

 ハイスミスには『動物好きに捧げる殺人読本』という、どれも動物が主人公の短編集も出していて、その動物らへの視点はやはりハイスミスらしくも独特のものがある。
 ハイスミスはネコも飼っていたし、ネコが嫌いではないはずだが、ここに登場するネコはその「ユーマ」という謎の生物と共に、主人公らの「不安」のもとであり、それは人生に常につきまとう「不安感」の象徴なのだろうか。
 おそらくハイスミス以外の誰も書かないような短編で、やはりわたしの「お気に入り」ではある。



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