コレヒドール島訪問(フィリピン1)
2024年3月、フィリピンを訪ねた。この時に見たことや感じたことを記録していきます。
機上から見えたコレヒドール島
羽田空港で乗ったANAは、4時間ほど経つとルソン島上空を飛んでいた。1年ぶりのフィリピンだ。ゆっくり高度が下がってきた。まもなくマニラ市街が見えるだろうと楽しみにしたのだが、雲が多く、スモッグも強かったので、街並みははっきり見えなかった。
飛行機はマニラ上空を過ぎ去ってマニラ湾に出た。そして180度旋回してマニラ空港に機首を向けた。その時、下を見ると、雲の切れ間からコレヒドール島が見えた。飛行機は、まるで私にコレヒドール島を見せてくれるかのように、上空をぐるっと旋回した。同時に、バターン半島と、その向こうに聳えるマルベレス山が高く見えた。
この景色を見ながら思った。約80年前、この視界全部が激戦地だった。この景色の中で、一体どれほどの日本兵が、アメリカ兵が、そしてフィリピン兵が命を失ったのだろう。いうまでもなくバターン半島は、日本軍がフィリピンを攻略する際の激戦地だった。そして、日本に降伏したアメリカ兵とフィリピン兵には「バターン死の行進」が待っていた。
まだ私はバターン半島に足を踏み入れたことはない。いつか行ってみたい。一方で、コレヒドール島には昨年1月に見学していた。この時のことを飛行機の中で思い出した。以下、思ったことを記しておきたい。
コレヒドール島ツアーに参加した思い出(2023年1月)
2023年1月、マニラを訪ねる直前にコレヒドール島ツアーを探した。個人では行けないのでいずれかのツアーに申し込む必要があったからだ。
しかしコロナ禍の余波で、どの旅行会社もツアーを休止していた。諦めかけていたが、マニラ滞在中にある旅行会社が「コレヒドール島ツアーを実施します」とメールをくれた。そして、すぐに申し込んだ。
まだ暗い早朝に集合した。全部で30名弱、ざっと見た感じ、西洋人とフィリピン人が半々だった。救命胴衣を付けさせられ、ボートで早朝のマニラ湾を2時間ほど西に進んだ。途中はみんな爆睡した。
やがてコレヒドール島が近づいてきた。島の周りには小さな洞窟がいくつかあった。日本軍が掘った「震洋」の待機陣地の跡だった。「震洋」とは、モーターボート先端に爆薬を積んで敵艦に体当たりする日本海軍の特攻兵器のこと。陸軍も同様の特攻兵器を持っていたが、こちらは「マルレ」と呼ばれていた。
コレヒドール島では観光用のミニバスに乗って島内を案内してくれた。ガイドはユーモラスに案内してくれた。アメリカ人やフィリピン人の同行者は、まるで映画スタジオを見物しているように楽しんでいた。「親がこの島で戦死した」というような人は、少なくとも私と一緒のツアー客にはいなかったと思う。もしそうだったら、砲弾の傷が無数についた大砲の前でポーズを取るようなことはしないと思うからだ。
それにしても、ツアーのコンセプトは、日本という悪の侵略者からアメリカとフィリピンが力を合わせて正義の戦争を戦ったという物語の再訪だった。島の中央に高くそびえる腕を負傷したフィリピン兵と、肩を貸すアメリカ兵の2人の銅像は、二つの国の友好を最大限に強調していた。
戦後に日本が建立した観音像や慰霊碑もあった。しかしガイド曰く「この前、韓国人のグループを案内したが、日本人が立てた慰霊碑には見向きもしなかった」と語った。するとツアー客たちは「そりゃ当然だよ」と頷いていた。
どうも日本人には居心地が悪い。しかし、日本語で「コレヒドール島戦没者 慰霊之碑」と書かれた石碑の前に立つと、やはりしばらく動けなくなる。今から約80年前、多くの日本人がこんな遠い地まで来た。そして、無念にもこの地で亡くなった。私のような者でも、日本から来たのだし、頭を垂れなければ。しかし、日本人だとバレると面倒なことになるような気まずさを感じた。同時に、「それの何が悪いんだ」という反感も湧いてきた。
そんな入り混じった感情でモヤモヤしていると、背後から美しい日本語で「日本人の方ですか?」と尋ねられた。振り返ると同じツアーに1人で参加していた女性だった。「なんだか、日本人だとバレたくない雰囲気ですよね」とお互い笑いながら話した。
マリンタ・トンネル
その後、マリンタ・トンネルに。ここは、日本軍が攻勢の時、マッカーサーやフィリピンのケソン大統領が逃げた場所だ。その後二人は夜陰にまぎれて命からがらコレヒドール島を脱出、マッカーサーがオーストラリアで言った「I shall return」 の言葉はあまりにも有名だ。
マッカーサーは言葉を守った。1944年10月、レイテ島に上陸し、頑強に抵抗する日本軍を叩いた。そして日本軍が守るコレヒドール島もアメリカ軍の猛攻撃に晒された。この時、アメリカ軍の上陸を食い止めるために「震洋」も出撃したようだが、もはや多勢に無勢・・・やはりどうしようもない。マリンタトンネル内には日本兵が自決した際の手榴弾の痕跡が痛々しかった。
マニラに戻り、とあるフィリピン人歴史家とじっくり話した。そして、このコレヒドール島ツアーに参加したことを伝えた。すると彼は、「え?1人で言ったの?」と驚いた。そして、「今は、歴史のことを知らない人たちが、エンターテイメント的な刺激を求めていくところになってしまったよ」と、私と同じことを感じているようだった。
もちろん彼は日本軍が正しかった、などというつもりはない。「私の祖父は憲兵隊にビンタされた。お辞儀をしなかったかららしい」と言っていた。しかし「戦争はすでに終わったのだから、敵味方ではなく冷静かつ客観的に過去を振り返る場でなければならない。また、国籍を問わずに亡くなった多くの戦死者の慰霊と追悼の場でなければならない」と。全く同感だ。
しかし、当の日本人が、戦後80年近くが過ぎ、フィリピンで50万人もの日本人が戦死したという事実を忘れかけているのではないか・・・
本サイトを見ていただいたら一目瞭然だが、私は「能」が好きだ。能の多くには、幽霊が登場する。なんらかの理由で未練が残り、成仏できない死者の霊が、ゆかりの地に残るのである。そして、そのゆかりの地を旅のお坊さんが訪ね、呼び起こしてしまう、というのが能によくあるストーリーだ。
私も「諸国一見の僧」ではないが、フィリピンを巡ると、80年前に亡くなったが、この世に想いが残っている日本人の先輩達が目の間に立っている錯覚に襲われることがある。そんな思いも含めて書き連ねるフィリピンの旅日記、これからしばらく付き合ってください・・
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