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西行さん終焉の地—弘川寺を訪ねた
西行は、日本史の中で最もよく知られ、最も愛されているお坊さんのひとりだ。1118年に生まれ、1190年に亡くなった。ちょうど900年前、平安末期の源平合戦の時代を生きた。
私の西行イメージは「繊細でいて剛直」だ。その理由はさておき、出家したのは西行自らの選択だった。もともとは立派な武士だった。
なぜ出家したのか。西行の歌がヒントになる。
身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
私の素人解釈だが、世の中に対して挑戦状をたたきつけている。「身を捨てる」とは俗世間を捨てる(=出家)ことだが、西行は、俗世間を捨てない人こそ身を捨てていると言い切っているのだ。名声や出世に執着する俗世間の人々を見下している!というのは言い過ぎか。
似たような歌がある。
惜しむとて 惜しまれぬべき 此の世かは 身を捨てゝこそ 身をも助けめ
「此の世」は、やはり欲望にまみれた人間社会の雑踏を指すだろう。もちろん、人は誰しも、出世して金持ちになって名声を世間に轟かせたい。しかし、こうした俗っぽい考えこそが身を亡ぼす。富や名声や権勢などでは真の幸せは訪れない。こうした欲望から遠ざかってこそ真の幸せが見えてくる。このように説いていると私は思うし、大きく間違ってはいないだろう。
さて、西行といえば、この句がもっとも有名だろう。
願はくは 花の下にて 春死なん その如月(きさらぎ)の 望月のころ
如月とは旧暦2月。つまりお釈迦様の入滅の2月15日、今の暦だと4月、桜の季節だ。桜を誰よりも愛した西行らしい。
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このあまりにも美しい歌を胸に抱きながら、西行が最期を迎えた弘川寺(大阪府南河内郡)を訪ねた。奈良盆地から葛城山を挟んだ大阪側の山の中腹にあった。境内から山を少し登ると、こんもりとした盛り土があった。これが西行のお墓だ。
同じ広場には、江戸時代に生きた似雲法師のお墓もあった。西行終焉の地を見つけ、この地に桜を植え、庵を立てて住んだ僧侶である。
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さて、果たしてここが本当に西行終焉の地なのか。この点は諸説ある。私も疑問に思っていた。西行は桜が好きなことで有名で、桜を詠んだ和歌はたくさんある。その多くは吉野の桜だ。吉野山の奥にも西行庵がある。ならば西行は、なぜ最期の地として吉野を選ばなかったのだろうか。
結局、弘川寺を訪ねても、納得のいく答えは見つからなかった。
ただ一つ思ったことがある。弘川寺から少し山を登ると大阪平野が良く見えた。天気が良かれば大阪湾まで見えるだろう。さらには、私は試していないが、山を登りきると、東側に奈良盆地が眼下に広がったはずだ。
俗世間の塵を嫌った西行さんにしては、あまりにも見通しがよい場所を最期に選んだものだ。もしかして西行さんは、俗世間と自分を完全に切り離したくはなかったのでは?
たしかに、源頼朝と会った時もぶっきらぼうだった。しかし、それでも頼朝に会った。自ら名声や権勢を得たいとは思わなかったが、名声や権勢を求めている俗人たちのことは、少なくとも円熟期に入った西行さんにとって、嫌う対象ではなくなったのではないだろうか。
つまり、西行さんは「人が好き」だったのではないだろうか?だから、多くの人の生活が一望できるこの地を選び、人々の生活を感じながら最期を迎えたかったのではないか? そう考えると、冒頭に示した私の西行イメージ「繊細でいて剛直」を「繊細、剛直、しかし人好き」と訂正したい。どうだろうか?
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