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書籍刊行記念『渋沢栄一が転生したらアラサー派遣OLだった件』の序文・序章・第一章までを一挙無料公開!(その2)
2024年11月29日(金)に発売の書籍『渋沢栄一が転生したらアラサー派遣OLだった件』(三浦有為子)の一部を無料公開します(全3回の2回目)
日本アカデミー賞「優秀脚本賞」受賞作家が描く話題の一作。「思わず胸が熱くなりました」「テンポがいいし、小ネタのセンスが抜群」「『おもしろくて、ためになる』って、こういう本のこと」などなど、熱い感想が続々届いています。
この記事では、本書から「第1章の前半」をお読みいただけます。現代人が解決できない問題を渋沢栄一が一刀両断! スカッとしながら最後は泣ける、ビジネスエンタメ小説の一端を、ぜひお楽しみください!
前回の記事(その1)はこちら
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第一章 渋沢栄一、令和の埼玉に転生する
思考停止した暗闇の中に響いてきたのは、若い女の声だった。
「華子! 華子! 聴こえる? 起きてよ、起きてったら」
はなこ? 誰だそれ? それにこの聞き覚えのない甲高い声はなんだ? 家人にはこのような話し方をする者はいないはずだが。
瞳をあけるや否や、栄一は「ぎゃっ」と声をあげる。目の前に見た事のない女の顔があったからだ。
それは異形であった。涙のせいか目の周りの化粧が落ち真っ黒になって流れている。それにこの唇はなんだ? まるで油を塗ったかのようにぬらぬらと輝いている。髪の色が茶色いようだが異人の血が混じっているのだろうか?
そして、この服装。胸の形も露わなほどぴったりと張り付いた薄い布地。これは下着? そっと下半身に目をやると、これでもかというほど太ももが露わな短いズボンをはいている。やはり下着か、水泳着か。だが、なぜこの見知らぬ女はこのような破廉恥な姿で栄一の顔を覗きこんでいるのか?
「失礼だが、どなた様だろうか?」
と話してみて驚いた。聞いたことのない声。かわいらしい声ではあるが、酒ヤケしているのか若干かれている。これが、本当にワシの声?
「やだー、華子! あなた、頭打って混乱しちゃったのね。優香だよ、優香」
「ゆうか?」
「優しいに香で優香。室井優香。華子、私と一緒にヤケ酒してて、頭を打ったんだよ。覚えてないの?」
「ヤケ酒?」
そういえば、胸がむかむかする。だが、おかしい。自分が飲んでいたのはそんな安酒ではないはずなのだが……と胃のあたりに手をやろうとして、自分の身体の異変に気付いた。
指先にあたる女人の乳房のようなこの感触は、なんだ?
おそるおそる目をやると、実に見事な2つの肉の山が自分の胸に盛り上がっている。驚きのあまり立ち上がる。胸の塊のせいで自分のつま先が見えない。なんじゃ、これは! 何かをつけられているのかと体を揺さぶってみるが、胸の塊もいたずらに揺れるばかり。今度は両手でつかんでみる。何度経験しても心地良い柔らかな感触に沈む指、それを跳ね返す弾力。
「やはり、女人の乳房ではないか!」
「そうだよ! 華子は痩せてるのに胸だけは大きいんだから! 自信もって!」
優香という女が色々と話しているが何も頭に入ってこない。間違いない。自分の身体は女に代わっている。それも若い女に。10代? あるいは20代? そして、己の服装はなんだ。「ゆうか」という女どころではない。肩も露わなシャツ1枚に、今にも下着が見えそうなほど短いスカート。
スカート? スカートの下はもしかして……。
おそるおそる手をやると、安っぽいレースの薄い布切れに手が触れる。その下にあるものは……。
「ぎゃっ」
思わず低い声が漏れた。間違いない。これは女だ。女体!
「優香殿、鏡をお借りできるかの?」
「鏡? いいけど……」
優香が手渡した鏡を覗いて、栄一は息を飲み込んだ。
柔らかにウェーブした茶色い髪に囲まれた白い小さな顔。眉こそ消えてしまっているものの、長いまつ毛に包まれた大きな目、筋の通った鼻、バラ色の頬、そしてふっくらとした潤いのある唇。これは、いや、その、なんともあの……
「……美しいではないか!」
「それでこそ華子! そうそう、華子は美人だって派遣仲間でも評判だよ」
「はけん?」
「だから、あんな男の事なんか忘れて……」
「あんな男? 岩崎弥太郎の事か?」
「弥太郎? 誰、それ? ああ、頭を打って完全に混乱しているのね。分かった。私が一から説明する」
優香という女は恐ろしいほどの早口で一気に話し出す。混乱した頭でもなんとかついていけたのは、日ごろ、自分を訪ねてくる全ての人と面会し、話を聞いてきた成果かもしれぬ。習慣は思わぬところで自分を助けるものだ。
この艶めかしい女の名は一栄華子。
ハケンで受付嬢をしている(ハケン? は分かりかねるが後に調べよう)。
何やら将来有望な男と婚約していたのだが、婚約破棄された。
なんでも男が別の女を妊娠させてしまったとの事(ん? どこかで聞いたような話だな? 耳が痛い……)。
ショックを受けた華子は、優香(目の前の半裸の女だ)を自宅に呼び、酒盛りをし、泥酔。「死んでやる」と立ち上がったはずみに転倒。頭を強く打って意識を失ってしまった。
「頭を強く……」
なるほど、そういう事か。
明治11年のあの夏の夜、岩崎弥太郎との会合の後、自分もまた転倒し、自宅で強く頭を打った。おそらくはそのタイミングで……にわかには信じがたい事だが、渋沢栄一の魂はこの一栄華子という女の体に転生したのであろう。
今の自分は華子の体と渋沢栄一の魂を持つ生き物……。
と、冷静になった栄一は周囲を見回してみる。
優香の話によれば、ここが一栄華子の自宅という事になる。
なんと狭い部屋であろうか。食卓とベッドが同じ部屋にあり……おそらくは8畳くらいの広さか? すぐ隣には台所。廊下の向こうにあるのが不浄と風呂場か。こんな狭い部屋でこの女は暮らしているのか? 一人暮らしであろうか?
まだちょっと痛む頭に気を付けながら、栄一こと華子はゆっくりと立ち上がる。窓の外の景色を見るためだ。
「華子、気を付けてね。念のために病院にいった方がいいかも」
と、優香が隣に付き添った。
付き添ってくれて良かった。
「ぎゃぎゃっ」
腰を抜かす、というのはまさにこの事であろう。
なんだ、窓の外に広がるこの光景は!
今は夜なのか? 昼なのか? 窓の外は、目が痛くなるようなまぶしい光でいっぱいだ。あれは何かの広告か看板なのか? そして向かいの建物……何階建てであろうか? ざっと見ても20階は軽く超えるだろう。すべての窓から明かりが漏れ、まだ働いているのか、スーツ姿の男たちが行き交っている。
「ここは……どこだ?」
「え? 華子の家だけど?」
「じゃなくて、日本なのか?」
「そりゃ日本でしょ。埼玉だもの」
「埼玉!?」
この華やかな未来都市が埼玉? 自分が生まれ育った桑畑に囲まれたのどかな田園風景とはまったく違う。これは、もしかして……。
「今って、いつ?」
「え? ……夏?」
「じゃなくて、えーと、年号は?」
「年号? ああ、それって令和の事?」
「れいわ? 令和って明治のどれくらい後?」
「そんなの急に聞かれても分からないよ。明治って、だいぶ昔でしょ?」
この優香という女は一般常識と教養に欠けているようだ。
「ああ、もういい。新聞をくれ、新聞を見れば今日の日付がわかるはずだ」
「新聞? 華子、本当に大丈夫? 今時、家で新聞とってる人なんかいないから」
「何! 新聞を見ずしてどのように時事情報を収集するのだ」
「とにかく今日の日付が知りたいんだよね。えーと」
と優香は薄い板のようなものを取り出し、自分に差し出した。そこには「2023年 8月1日」と記されていた。
高速で計算する。明治11年は1878年だから……
「145年!」
渋沢栄一は145年後の埼玉に転生してしまったようだ。
それも艶めかしく美しい女体、一栄華子として。
* * *
いつの時代も朝の清々しさは変わらない。この日もまたよく晴れた、爽やかな朝であった。だが、渋沢栄一こと一栄華子はタクシーの中でぐったりと窓にもたれていた。傍らには例の半裸の女(今日はふわふわとして淡い色の半そでのブラウスにスカートといったまともな格好をしているが。それにしても栄一から見るとスカートは体にぴったりしすぎているし、丈も短すぎるような気がしてならない)室井優香が寄り添っている。
「華子、大丈夫? やっぱり今日、仕事休んだ方がよかったんじゃ……」
「いや、大丈夫じゃ。ちょっと疲れただけ……」
華子の体調を心配した優香が自宅に泊まってくれた事は不幸中の幸いであった。そうでなければ、今日、自分は仕事場(ハケンについてはまだ全然理解できていないが)に行く事もままならなかったであろう。それは有難い。有難いのだが……。
令和の女性の朝というものが、これほどまでに慌ただしいとは!
仕事に行く前に朝風呂に入り髪を洗うのは、働く女、特に接客業の女にとっては常識らしい。洗うだけではない。シャンプーと呼ばれる液状の洗剤で髪を洗浄したのち、コンディショナーと呼ばれる油分をすりこみ、また流す。シャワーと呼ばれる強い水力で湯が噴き出す装置があるので短時間で済むが、一度の入浴でこんなにも湯を使うとは……。
入浴後もさらに作業は続く。今度はトリートメントと呼ばれる『洗い流さなくてよい油分』を念入りに刷り込み(椿油のようなものと考えればよいのだろうか?)、扇風機よりも更に強い風力で熱風が出るドライヤーという物で乾かす(これは非常に便利な道具である)。これで終わりではない。ヘアアイロンと呼ばれる焼きごてのようなもので髪を巻き、ヘアワックスで固めてセット……。
正直に言おう。面倒くさい。
髪だけでこれである。顔にはローションやらクリームやら刷り込み、下地やらファンデとやらを塗りたくり、目や唇には複雑に色を載せ(グラデーションと呼ぶらしい)細い線をひき……。
我が妻や恋人たち、明治の女たちも、このように身だしなみに時間を? いや、時間はともかく、毎朝、これほどの湯や油を使っていたら大変な事になるだろう。今朝は優香が手伝ってくれたので何とかなったが、明日から自分ひとりでこれをこなせるだろうか。考えるだけでぐったりとしてしまう。
2人が働くハケンの職場はさいたま新都心駅からバスで数分との事だったが、バスに乗るために走る気力もなく(それはこの踵が細くて高い靴のせいでもある。なぜ、このように歩きにくい靴を履かねばならぬのか?)、車を手配するように優香に指示した。「本当にいいの? 私も乗せてくれるの?」と優香は大変に驚いていた。
タクシーと呼ばれる運転手つきの車の窓から眺める外の景色。昨日自分の部屋の窓から眺めた景色にも驚いたが、この「さいたま新都心」はさらに背の高い高層ビルディングが並び、なぜかそれらビルディングの大部分はガラス張りでギラギラと輝いている。これが本当に埼玉なのか……。
栄一が育った深谷はどこまでも畑の続くのどかな村であった。涼やかな風にのる土の香り、草の香り。養蚕のお世辞にもよい香りとはいえないあの独特の匂いや、桑の葉を咀嚼するやかましい音ですら、今は懐かしい。この「新都心」はどんな匂いがするのだろう? だが、「新都心」と名付けられているくらいなのだから、今の埼玉は首都・東京と並ぶ日本の中心なのかもしれぬ。そう思うと悪い気持ちはしなかった。
「お疲れ様でした。2700円になります」
2700円!!! ほんの数分車に乗っただけで!? 東京横浜間の汽車の特等席だって1円12銭5厘ではないか!? 令和の物価はどうなっているのか? おそるおそるピンク色の財布を開くと「1万円」と書かれたお札が入っていたのでこれまた驚愕する。庶民が平気で1万円を持ち歩く時代! と同時に、お札に慶應義塾を創立された福沢諭吉翁の顔写真が印刷されていたのも、大きな驚きであった。論語嫌いで西洋かぶれの福沢翁が令和では持てはやされているのか! では何事も『論語』を基本とする渋沢栄一はどのように評価されているのか、いささか気になるところである。
「華子ちゃん、頭、打ったんだって? 大丈夫?」
仕事場で更衣室と呼ばれる狭苦しい部屋に入ると、親切そうな中年女性に声をかけられた。
「な、なぜ、そなたは昨夜の出来事を知っているのか!」
「え、だって、優香ちゃんがLINEしてくれたから……」
と、中年女性も薄い板のようなものを取り出す。
この板が「すまほ」と呼ばれるものである事は昨夜理解した。華子の鞄の中にも同じものがある。電話や暦〈こよみ〉、時計としても利用できる便利なものであるという認識であったが、LINEとは? 自分のスマホを取り出し、中年女性の「すまほ」と同じアイコンをクリック(これは優香が教えてくれた)してみると、戸山民子という女性から未読の文書が多く届いている。「頭、打ったんだって!? 大丈夫?」「飲みすぎ注意。変な男だって、結婚する前に気が付いてよかったんだから」「明日の勤務、誰か代わりの人、探そうか?」などなど。
「既読つかないから、心配していたんだよね」
なんと! この薄い板を使って瞬時に文書のやり取りもできるとは!?
「という事は、そなたが戸山どの、いや、戸山さん……」
「戸山さん? ねえ、華子ちゃん本当に大丈夫? だって、いつも民子さんって」
「な、なに!? 自分は、いや、華子は目上の方にそのような無礼を働く女なのか!?」
「目上の方? ああ、確かにそりゃ、年は私の方がずっと上だけど、派遣スタッフという立場は同じだし。っていうか、華子ちゃんの方が半年先輩じゃない!」
「え? えええ? え、そうなの?」
華子と優香は20代後半である。したがって「ハケンの仕事」は若い娘がやるものなのではないかと栄一は推測していたのだ。だが、自分の方が先輩とは!
……失礼ながら、この年齢になっても20代の小娘と同等の仕事しかできない、この戸山民子という女性は、あまり有能ではないのかもしれぬ。
「民子さん、なんか華子、頭打ってから少しおかしいのよ。もしかしたら……婚約破棄のショックのせいかもしれないけど」
優香が助け船を出す。彼女は知識面ではあまり頼りにならないが、このように勝手に妄想し暴走してくれるのは、こちらとしても有難い事だ。場違いな自分をうまくごまかすことができる。
「そ、そうなんです。あーあ、ハケンの仕事の内容もまったく思い出せないなぁ」
「えっ?? そんな事ってある? まあ、今日は来場予約も少ないし、少しずつ思い出すでしょ」
「来場予約?」
「華子ちゃん、ランチ、どうせコンビニでしょ? そうだと思って、華子ちゃんの分もおにぎり作ってきたから。あ、優香ちゃんの分もあるからね」
「わーい、ラッキー」
朝はコーヒーしか飲んでいない。令和の女は朝食をとらないものらしい。できれば、昼食(ランチとはLunchの事でよいのだろうか? 令和の会話にはカタカナ英語が多く使われるので混乱する)ではなく、今、そのおにぎりを頂きたいものだが……。2人に急かされるまま、女性用スーツのような制服に身を包み、華子は「ハケン」の仕事へと向かうのであった。
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