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岩佐なを-Ex Librisの詩世界

詩人 石田瑞穂

 岩佐なをは現代詩人であるとともに銅版画家でもある。もし、日本にも、英國の詩人にして版画家ウィリアム・ブレイクのような存在がいるとすれば。それは、岩佐なをではないか、そう、ぼくは考える。
 ぼくが生まれて初めて、詩人、という存在を知ったのは、幼少のころに母の書架にみつけたウィリアム・ブレイクの詩画集をつうじてであった。爾来、詩と版画はおなじ白頁でとなりあい、ぼくの心身の奥底で密接にむすばれてある。だからか。ぼくの日々の机辺には、エッチングやシルクスクリーンが飾られていることがおおい。ギュスターヴ・ドレによるダンテ『神曲』挿画をはじめ駒井哲郎、加納光於、篠田桃紅、サム・フランシス……そこには、ぼくが愛蔵する岩佐さんのEx Librisもおかれている。

 エクスリブリスは蔵書票もしくは書票ともいい、通常、個人が蔵する書物の見返しに貼られ、その本の所有者を票わすちいさな紙片のことである。
 じつは、日本にも全国に会員を擁する秘密結社めいた「日本書票協会」があり、エクスリブリスそのものを対象とするコレクターも多数おられる。会のステイトメントを要約すれば……Ex Librisはラテン語。英語に訳すとfrom the library of(誰某の蔵書より)になる。エクスリブリスには名前とともに蔵書者をあらわす肖像、紋章、家紋、家訓などが木版画や銅版画で描かれ、明治期に渡来したこの本の美術文化は、竹久夢二や棟方志功も試みるなど、日本でも愛書家や文士の蔵書の見返しを麗しく彩ってきた。
 ヨーロッパでは、紙の宝石、ともいわれるエクスリブリスは、版画芸術のなかでも、知られざる綺羅星のジャンルなのだ。岩佐なをはこの蔵書票という小宇宙を舞台とする特異な銅版画家なのである。

岩佐なを「Exlibris Baku 山之口獏氏への蔵書票」2013年(個人蔵 禁転載)

 写真のやや大ぶりの蔵書票は、ぼくが日々の机辺においてはながめ触発されている「Exlibris Baku 山之口獏氏への蔵書票」である。日本の戦後詩そして草野心平が興した詩誌「歴程」を代表する詩人、山之口獏に捧げられた銅版画作品。紙裏には岩佐さん本人の鉛筆字でタイトルと「C3, C4」(版画の技法をあらわす記号)、「2013, 12」が書かれている。
 和毛のように繊細なタッチで描かれたバクが愛らしくユーモラスで、面長な顔とつぶらなまなこが詩人の面影を宿していよう。スカイブルーの腹毛は、たぶん空洞で、青空そのものかもしれない。貧乏詩人山之口獏の〝空腹〟を詩化した心憎いウィットであろう。バクが立脚する草原は浮遊する球体となり、蒲公英の綿毛か毬藻のような月と映る。ふさふさした惑星にはうつろな眼窩があって、樹木が四肢のように茂っている。バクが食べている夢の三日月と人手星、そして夜闇の星々は紅葉の秋色で葉叢し輝く。

 詩人岩佐なをが山之口獏を愛読する、という表明も興趣をそそるが「Exlibris Baku」を記述してみると、あらためて、岩佐さんの詩世界が銅版画の宇宙と響きあい通じあう容を認識せざるをえない。その一例として、岩佐さんの最新詩集『たんぽぽ』から詩を引きつつ、氏のエクスリブリスをふりかえってみよう。

 おりおりに
 ぽつぽつと
 おむかえするのは嬉しい
 ふつうそこの川を渡ってやってくることに
 なっているけれど
 それは常識といううそで
 庭先の芝生にひろがっていたり
 若い枝に実っていたり
 出現の仕方は案外わからないもの
           (「再会」より)

「眠れかろやかにとおくまで/よきひとびとよ」と、この詩篇ははじまる。
 岩佐なをの詩と銅版画の世界は、この彼岸と此岸、眠りと覚醒がやわらかくかろやかにいりまじる潮目や裂け目に宿る。彼方から此方へ、此方から彼方へ自由に到来しつづけるものらの輪郭は、いったいどちら側の像なのか曖昧模糊とし、その到来の様相も「案外わからないもの」と詩人は嘯く。硬軟はあるものの、ブレイクも駒井も、その幻像は明像性をそなえてい、銅板へと刻まれうるたしかな強度をもつ。他方、岩佐さんのペンとビュランも繊細かつ鮮明に描き込むが、その構図と図像はどこか幻惑のまま、惑乱されるがままにある。
 バクは、半ば詩人であり半ば動物、半ば生物であり半ば大気、半ば幻想であって半ば現実、と、双方への生成変化へと引き裂かれつづける。月なのか藻なのか不分明な球体も、土であり草であり無機物であり生命であり八百万神でもある。そんな、どっちつかずで融通無碍な幻惑の存在。

 その惑乱の力は、蔵書票に描かれた絵画的モティーフにも波及している。葛飾北斎風のろくろ首やアンブロワズ・パレの怪物誌に登場するかの魑魅魍魎、なつかしい広告イラストの引用は、精霊と見紛う動植物や深海生物と渾融し幻惑されている。ぼくの所有する「骨管幽霊」(C3, C4, C5, 筆彩)は、ウツボの影のごとき神官もしくは僧侶の身体に、神でも悪魔でもあるチャヌンパを宿す。透けてみえる器官は、ユダヤ神秘思想の生命の樹や未知のボードゲームとも映り、観る者を惑乱しつづける。

岩佐なを「骨管幽霊」(個人蔵 禁転載)
岩佐なを「EXLIBRIS T. UCHIDA」(個人蔵 禁転載)

 さらに「EXLIBRIS T. UCHIDA」(C3, C4, 筆彩)は、幼女めいた妖精ドライアドが裸の臀部から男根のごとき孔雀の頭首に腰かけて魔性を放つ。その構図は両性具有とも映り、左上のリース(輪縄)に注意を喚起させつつ架空の紋章を形成する。このエラルドリー(紋章学)はじつに特異で、トルク、輪縄のモチーフのしたには破れかけた本が浮遊し、左下の手が投げる千切れたページは、薬草や鳥の羽へと変身している。つまりは本を生成するための錬金術のレシピ、代償とも想像できよう。用の美でもある蔵書票にしては、過剰にすぎる幻惑の力がはたらいている。線描も色彩も明晰に整理されているが、意味論の象徴的次元では完全にコントロールの箍がはずれており惑乱している。そして、エクスリブリスの依頼主名やイニシャルは、明記されると同時に腐食してしまう。それはまさに銅版画という媒体が、腐刻、という特殊な表現力によってなされることと同義なのではないか。伝統的もしくは近現代的なモティーフや形象は、銅版画の宇宙で腐食し、解体され、異他にして意図せざるものへと発酵してゆくのだ。

 岩佐なをの蔵書票と詩にはデーモンが棲まう。それは読者を魅惑し幻惑する本という魔物であり、決して所有の叶わない惑乱の力でもある。その言葉と書物の思想を、逆説的な蔵書票として象るのが、岩佐さんのポエジーと一先ずはいえるだろう。
 ところが、これで終わりなのではない。岩佐なをが他者のエクスリブリスを創るように、ぼくが岩佐なをについて書くように、蔵書も書物も無限の連鎖、反復、増殖の渦中にある。そして蔵書票のオーナーとイニシャルたちは、あたかも無数の書物とそれらが宿す無数の時間のための中継器として存在するかのようだ。岩佐なをがエクスリブリスに刻むエロスは、そんな、書物や本に固有のセクシャリティであろう。
 以上、ぼくが岩佐さんの銅版画のポエジーとともに書いてきた考察は、書物に潜む世界の一頁そのものでもあったようだ。このように、書物と本には固有の次元が存在している。
 書物と本を夢想し愛することは、書物と本に夢想され愛されることでもある。岩佐なをのエクスリブリスも詩も、書物と本の真実をみいだすことで、深く魅入られるがまま幻惑され、危うくも愉楽にみちた世界で遊んでいるのだ。

〈CROSSING LINES連載エッセイ 「眼のとまり木」 第16回〉
執筆者プロフィール
石田 瑞穂(いしだ みずほ)
詩人。国際ポエトリー/ポイエーシスサイト CROSSING LINES プランナーhttps://crossinglines.xyz 

1999年に第37回現代詩手帖賞受賞。個人詩集に『片鱗篇』(思潮社・新しい詩人シリーズ)、『まどろみの島』(思潮社、第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(思潮社、第54回藤村記念歴程賞受賞)、『Asian Dream』(思潮社)、最新詩集に『流雪孤詩』(思潮社)。


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