再掲③ 「違い」に開く
過去記事第三弾、前記事の続きです。
前記事の内容をもう少し違う表現をして、もう少し突っ込んでみています。
それにしても、「HSP」というものが社会的に注目されてきたり、
「個性の違い」というものへの認識が社会のベースになり始めている今、
改めて読み返してみると、だいぶイメージしやすく
馴染みがよい肌感覚がありますが、どうでしょうか。。
時代の変化というものを、改めて実感しますね(笑)
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<2017年6月2日の記事より>
この世で体験する、快・不快すべての体験は
究極を言っちゃえば100%自分自身のニーズでしかなく、
そこには自分自身の人生のテーマが存在していると思っているのだけど、
前回記事の皮膚と鎧の件も、
「私自身がそのことを通して何を大切にしたいのか」
という、私自身の人生のテーマのひとつなわけです。
で、先日の記事の中で書いた皮膚と鎧の体験を
もう少し違う表現をしてみると、(これもあくまで比喩だけど)
海や川の生物のように「えら呼吸」をするのが素の私だとして、
それが陸に上がって生活するには、当然、「酸素マスク」が必要になる。
生きるために。
(この酸素マスクを、前回は「皮膚」と表現してみた。)
でも、陸上生物のように肺呼吸が当たり前の人からすると、
「なにそんなマスクしてんの!苦しいでしょ、取った方がいいわよ」
と見えるだろうし、当然そう言いたくなると思う。
でも、えら呼吸の私にとっては、酸素マスクは命綱。
取ったら死にます(笑)
だから、酸素マスクを取られないように
必死に鎧で守る必要があったのです、ということ。
私はこの世界に生まれおちてから今日まで、
「えら呼吸なのに肺呼吸の世界に生まれてしまった?アレ!?」
みたいな体感の中で生きてきました。
私たち人間は、姿形は同じように見えるから
生物学上の「人間」という生態でひとくくりにされてしまいがちだけど、
そういう学問上のものでは測れない、
それこそ、えら呼吸と肺呼吸くらい違う生態の違い ってものが
人それぞれにはあると思う。
でも、
”まさか陸上生活してて「えら呼吸」してる人間なんているわけがない”
ということがこの世界の大前提の常識だったとしたら、
「えら呼吸」の人間は「ありのまま」では存在できないことになる。
だから私は、そんなバカげたことがあるかいな!と思い、
じゃあ、自分のこの「えら呼吸」の正体は何なんだ、と探求が始まり、
スピリチュアルや精神世界、心理学、自己探求系の分野と
関わりを密にしながら今に至っているのですが。
過去そういう分野には、一般社会の在り方と自分自身の在り方の違いを
自覚してる人が多いので、共有できる部分も多々ありました。
でも、その共有部分は私の表層部分であって、何をやっても尽くしても、
相変わらず「酸素マスク」はどうあっても取れそうにないという体験が続き・・・(笑)
というか、どこにいっても、
「えら呼吸の人間がいる」ということそのものがまるで認識されていない
という現実にぶち当たる。
もしや「えら呼吸」だと思ってることそのものが妄想か!?
それすらも自分の思い込みや観念なのか!?まだ浄化が必要!?
それを開放したり癒したり、「普遍の源に立ちもどる」ことができれば
みんなと同じ「肺呼吸」になれるのか!?
・・・と、あれこれがんばってもみた。
でもやっぱりそーゆーことではなかった。
で、そもそも、努力や解放うんぬんでどうにかなることではなくて
根本的に生態がやっぱり違うのだ、と結論にいたったわけです。
そしてここ数年の間に、同じような体験をしてきた人たちが
私以外にも実は思ってた以上にいる、ということが
いろんなことを通して分かってきました。
まあそれも、100%、私の体験にすぎないのだけど、
その体験と結論から、私は何を見い出だしたかったのかというと、
「どれほど私たちは一人ひとり違うのか」
ということだろうと思います。
「性格や個性の違い」とかで表現されてる、
そんな生易しいもんじゃなくて。
そして、
「人は他人のことは分かりようがない」
という事実に開いていたいのだと思う。
私たちが認識しきれていない未知なる生態の違いってのは、
きっと無限にある。
その可能性にいつでも開いていたいし、
それこそ自分にとっては当たり前のモノサシで
人や物事を判断しないことで味わう豊かさ、
わかった気にならないことで拡がる世界、
そんな無限に開いた視点を持ちながら生きたい、
そうして初めて、本当の意味で、
誰の尊厳も自由も奪わずに
他者と、世界と、手をつなぐことができる・・・
そんなことを、自分の「えら呼吸」の生態を通して日々、思うのです。