私は、弁慶以外の人も「弁慶の泣き所」は痛いと思います。 共感をめぐる物語
1 スネは弁慶以外も痛いです!
「あの弁慶でも痛いところ」という意味なんだというのは十分承知しているのですが、いつもこの言葉に納得がいっていない。私もnoteを読んだり書いたりしているみなさんもスネ打ったら痛いだろ、という話だ。
「弁慶の泣き所」は現象全体の要約をミスっている気がする。
すなわち、「あの弁慶ですら苦しむ急所」という意味のうち、かなり大事な部分である「ですら」が慣用句のなかで抜け落ちてしまっているのだ。
おまえは国語の点数が低い人間か? という気持ちだ。問題文が難しすぎて、部分点狙いで書いてある文字をただ並べるように記述式問題の格子状の文字数枠を埋めざるを得なかった、あの苦い思い出が蘇ってくる。
国語が苦手な人が記述式をうまく書けないのならまだわかるのだが、「弁慶の泣き所」は立派な慣用句だ。むしろ国語の得意な側が作ったり語り継いだり国語便覧に載せたりする類の事柄だ。「いいのか? 弁慶? おまえが部分点狙いで」といつも思う。
他の、何か私や皆さんがあまり痛くない場所(おしり)とかが弁慶の弱点で、ちょっと蹴られたら「ひゃん!」ってなって義経にこーさんするんだったらこの言葉はめちゃくちゃ意味を持つ。でもそうじゃないのだ。
2 使用例をみよう 慣用句としての可能性
前段の通り、「弁慶の泣き所」という言葉には結構な構造的弱点がある。「弁慶の泣き所」という言葉は、「弁慶ですら」というニュアンスが欠落してしまっているところが「弁慶の泣き所」なのだ。
クソみたいな文章を書いてしまったのだが、比喩表現としての「弁慶の泣き所」は、その出発点の脆弱性により発展可能性が阻害されているように思う。
ネットで「弁慶の泣き所」の用例を簡単に検索すると、こんな感じだ。
ことわざ、慣用句はアクセスが稼げるのかいろんな読み物系ウェブサイトが載せている。
このウェブサイトの文章を担当したライターさんはちょっと自分の味を出しているタイプで一発目の用例で結構かましてきており、はからずもこの言葉の問題点を浮き彫りにしている。
弁慶の泣き所である股間……? 弁慶はスネが股間なのか……?
自分の弁慶の泣き所はどこなのか自問自答……? ……スネでは?
天才が持つ弁慶の泣き所とは……? ……スネでは!
私は以上のように考えてしまうのだ。他の事例も見てみよう。
ほぼ同じ案件があったようで、先ほどとは別のライターさんが書かれたとおぼしい内容。同じことを任されてもこれだけ人間性が出るのだ。ネットの量産記事も案外捨てたもんじゃない。
そしてこのライターさんの方はよりマイルドな事例を挙げていただいているように思う。お手本のようだ。前半で強みを押し示して、後半で「意外にも」とか「でも」で弁慶の泣き所へ導いている。3も個人的にはとっても良くて用例の幅をわかりやすく示してくれている。
このマイルドな事例からは、「意外な弱点」みたいな使われ方があることがわかるのだが、弁慶以外もみんなスネが痛いという事実を覆い隠す結果になってしまっていないだろうか。
言葉としてはこれでいいのかもしれないが、俺も弁慶もあなたもスネが弱点であるという隠しきれない身体的前提は未だ横たわっている。
3 ところが、これでよかったのかもしれないとも思う
ただ、これでよかったのかもしれない。あるいは仕方がなかったかもしれないと同時に思っている。
というのも、弁慶の弱点であるスネはとっても共感を得やすいためだ。「あの弁慶ですら」のニュアンスの背後には「私たちみんながスネ痛い」という人間全員が当然に思う共感がある。
おそらく、外国人にもこのニュアンスを伝えることは容易いのではないだろうか。外国人だって絶対スネは痛いからだ。
実は「弁慶の泣き所」は、述べてきた「他の人も実際スネは痛い」という構造的欠陥がありながらも、その構造的欠陥の部分が全人類が共感できるものであったため、慣用句としてここまで広まっているのではないか。
そうならば強い。というか強か(したたか)な言葉だ。1番の弱点に、1番支えられているのだ。
おわりに 弁慶からのメッセージ
私は時に邪悪な気持ちになり、変えられるわけがないのに「弁慶の泣き所」を慣用句としてアップグレードしたくなることがある。独裁者だったら絶対やってると思う。
すなわち、現在では「強い人の(意外な)弱点」という用例が多く見られる。だが、今回この言葉について整理してきたとおり、「強い人の唯一の弱点なのだが、実はみんなが共感しうる弱点なのだ」というニュアンスでこの慣用句をアップグレードして使いたいのだ。
たとえば
みたいな。
「弁慶の泣き所」は身体性をめぐる共感のメッセージなのかもしれない。