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ゾンビが蔓延してしまった際に、どちらかというと私たちは生き残った側で想像をしてしまう。なぜだろうか?

むしろ特殊状態より一般状態の方が想像力が必要というお話です。


はじめに 人間側? ゾンビ側? ゾンビ感染世界の想像力

ゾンビが蔓延してしまうポストアポカリプス的世界を舞台にする映画や漫画、ゲームは数知れない。ゾンビが増えてしまったらどこに立て篭もるか、「ホームセンターがいい」とか「いやむしろ人が集まるから悪手だ」とか会話の中で想像を膨らませることもある。

ところが、私たちはゾンビになってしまった側で想像をすることは少ない。大多数の人間がゾンビになってしまったのがポストアポカリプスの世界なのだから、確率で言えばゾンビになってしまっている可能性の方が高い。

そのため、「ゾンビになってしまったらどうなるのか?」については、確率論的に言えば生き残った時のことを考えるよりも優先して考えておいた方が良いのではないか。

思考力はどの程度まで落ちるのか? あるいは落ちないのか? 何を噛みたくなるのか? やっぱり男だったら若い女子を噛みたくなるのか? 女子だったら好きな男の子のタイプ、たとえば筋肉ムキムキの男に噛みつきたくなるのか? 光や音に対してどの程度反応できるのか? 他のゾンビとの動きの統一みたいなのはあるのか? 腐敗の速度はどうなのか? どれくらい長生きできるのか?

いくらでも考えなければならないことが出てくる。

今日はそのこと自体は置いておいて、なぜ私たちはどちらかと言うと特殊な状態であるはずの生き残った側ばかり考えてしまうのかについて、考えてみたい。

アインシュタインもおんなじ状態だった

端的に言ってしまうと、おそらく人間は一般的な状況よりも特殊な状況の方が想像力を働かせやすいからではないか。一般状況よりも、シチュエーションがある程度限定される特殊な状況の方が想像しやすいということだ。

アポカリプス後はむしろゾンビがありふれているのだから、ゾンビの方が一般的で生き残った人類の方が特殊な状況だ。そのため、生き残った側の方が想像を働かせやすい。ゾンビ映画が終盤にさしかかり人類が復興を始めるケースがある。そうなると人類社会の方が一般性を取り戻すので、逆に少数になったゾンビの方に焦点が当てられ、物語のオチに繋がったりする。

こんな感じで、一般状態と特殊状態で想像力の働き具合は変わるし、それらはオルタナティブに動く可能性がある。

ここでアルバート・アインシュタインに登場いただこう。

アインシュタイン
https://ja.wikipedia.org/wiki/アルベルト・アインシュタイン#/media/ファイル:Einstein1921_by_F_Schmutzer_2.jpg

私は文系なのでさっぱりなのだが、アインシュタインは1905年に特殊相対性理論を発表し、1915年に一般相対性理論を発表した。まず、重力などを考慮しない「特殊」な状況から理論を構築し、その理論を私たちの暮らすこの宇宙に「一般」化させた。

アインシュタインもまた特殊な状況から想像力を得て、それを手掛かりに一般的な状況を考究したことになる。ゾンビ大発生状態の私たちとおんなじ発想を、優れた知性を持つ伝説的な研究者もまた行っていたわけだ。

これは例えばフェルマーの最終定理なんかもおんなじで、nに代入する個別の数字での検証がまず始まった。フェルマー自身はnに4を代入し証明してみせた。その後オイラーがn=3のケースの証明をするなど個別証明の時代がしばらく続き、ずっと後の話になるけれどもアンドリュー・ワイルズが全てのnに対して証明を果たすことになる。

なんだか壮大な話になってしまった。数学や物理で例えてしまって良いのか若干畏れているのだけれども、要するに特殊な状況の方が私たちは想像を膨らませやすいということだ。

想像力とは何か

ということで、実は特殊な状況の方が想像はしやすいと思っている。

よく人に対して「想像力が豊か」と評することがある。私はこれについていつも「本当か?」と若干穿った見方をしている。「その想像の土台は一般的な世界か? 特殊な世界か?」で、その評された方の「想像力」を眺めている。

その想像が、特殊性の高い世界や状況に担保された上での想像であれば、意外にその想像は容易い。想像に対して追い風が吹いている状況だ。

逆に、私たちのいる目に見えるこの世界から想像を始めるのは、とても難しいしおそらくセンスが要る。想像に対して、現実という逆風が吹いている状況だ。

おそらく現実社会というものはあまりに複雑で広範で、私たちの想像の埒外のことが常に起こっているのだろう。だからそれらを貫く数学や物理の法則を考えるのは難しいし、それらを貫くような想像力を持つことは難しい。

実は普通の状況を想像する方が、より技術や体力・センスが必要なのだろう。

おわりに 学校にテロリストが来た時、なぜ私たちはテロリストを倒して好きな女の子に惚れられるシーンを想像してしまうのか?

ということで、私たちはテロリストが学校に攻め込んできて、そのテロリストを倒すことで好きな女の子に惚れられることは安易に想像できる。

一方で、実際に学校にテロリストがやってきて人質になった場合一体どうなってしまうのかは、はるかに想像が難しい。

創作する時は、特殊なケースから想像を始めてもちろんいいのだが、どこかで一般世界を貫くような想像をすることが大切だと思っている。そしてそれこそが、創作や想像の醍醐味であるとも思う。

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