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なんかラーメン食べる時に食べる順番固定してしまっていない? そしてルールとかマナーって楽だという話。
1 意外にマナー講師を自身に内包しているかもしれないと言う話
マナー講師は昨今完全に市井の敵になってしまって、都度都度厳しい批判にさらされているのだが、私たちは実は心の中にマナー講師をそれぞれ飼っているのではないだろうか。
ラーメンを食べる時、私はまずスープを飲んでから、麺を食べ始める。途中、具材と麺とつゆとをレンゲの中に入れて、小さなラーメンの複合体を作って味の具合を楽しむ。チャーシューや煮卵など、ラーメンの花形になる具材は、ラーメン全体の食事を俯瞰した時、中盤から後半に織り交ぜて食べていく。最後には残った麺や具材をレンゲに入れて、スープを楽しんでおわる。水を飲んで、お会計だ。
こんな感じで、年取ってくるとかなりルーチンが固定されてきてしまう。意外に、普段いくセコマ(コンビニ)や回転寿司とかでも、購入する商品が固定化されてしまってやいないだろうか? 意外に知人とコンビニや回転寿司に行くと自分が見向きもしなかった商品があることに気づかされる。
私たちはマナー講師を忌み嫌うけれども、マナー講師的な定められたお作法に従うアングルはその身体に内包されているような気がしている。
それでは、なぜ私たちの心の中にはパターン化が染み付いているのだろうか。
2 楽をしたい
嫌われ者のマナー講師だが、実は私たちはマナー講師のある部分を嘱望している。それは何かというと、マナー講師が説くマナーにより実際楽をできるのだ。
パターン化は人を楽にさせる。
もう少し細かくいうと、何かふんわりとルールのないモノに対して、何かルールやマナーを定めて、それに従って何も考えずに動くことができれば相当楽だということだ。
マナーは、ふんわりとしたイベントに対して定められる。
マナー講師は、ラーメンの細かい食べ方の順番・パターンのような、ふんわりとしたルールのないフィールドに立ち現れる。
ルールのあるところにはマナー講師は現れない。妖怪のように、ルールが曖昧なところをかぎつけて彼らはやってくる。
ふんわりとしたイベントは私たちを不安にさせる。ふんわりとしているので、何が正しくて何が間違っているのかふんわりとしているのだ。
人間は不安を感じやすい存在だ。それも、何らかの格式ある儀式の際には恥をかきたくない。そのため、大した根拠がなかったり、あるいは伝統と相違していたり伝統になかったりする振る舞いが、マナー講師によりもたらされたとしてもそれにすがりたくなる気持ちを持っている。
その根底には、前章で述べた、なるべくパターン化させて楽をしたい私たちの心性が横たわっている。
おわりに
マナー講師はなぜ存在しているのか。あんなに嫌われているのに、社会からいなくなってしまわないのはなぜか。それは私たちが不定のものに対して不安を抱いているからに他ならない。
マナー講師を否定することもまた、一つのマナーを定めることになる。マナー講師は実は何かを言うだけで良い。それにより衆生が理非を判断する。このプロセスが担保されていれば良い。私たちの振る舞いに対する何らかの手がかりを有することができるからだ。
マナー講師を批判するのであれば、こうした宣託者として言いっぱなし(言うだけ)の存在に過ぎない空虚さこそを批判するべきで、個別のマナーが正しいかどうかは実はさしたる問題ではないように思っている。