「木を隠すなら森の中」という言葉にあまり納得していない理由
たまに気にくわない日本語ってありますよね。
はじめに 「木を隠すなら森の中」という慣用的表現
私はこの言葉があまり好きではなく、日本語話者として自分では使用していない。
今日はなぜ使いたくないのか語っていくぞ。
1 いうほど木を隠すか?
まずたとえ例え話としても、木を隠すかという話だ。あなたは何か必要があって木を隠したこと、ありますか? ないでしょ。
2 いうほど森に隠すか?
仮に木を隠す必要があるとして、森に隠します? 森の中に木を植えられるところあります? それにそんな大規模なことをして、森の中で1箇所だけ変な木の生え方してません?
3 この言葉の原典から考えてみる
もともとは「葉を隠すなら森の中」という言葉が「木を隠すなら森の中」の出所になっているようだ。
探偵もの『ブラウン神父』シリーズの小説の中に登場する。
この原典の表現ならばより意味が通りやすいように思う。まず樹木よりも葉っぱの方が実際隠しやすいし、隠すシチュエーションも想像しやすい。
それにこの原典では、「あるモノを隠す際に、そのモノをたくさん用意して紛らわせる」ということに力点が置かれているように思う。単純にモノを隠すのではなく、(犯罪などにより)あるモノを隠す必要があり、そのモノを多くこしらえることで隠そうとする。そうした営為が表現されている。
「木を隠すなら森の中」はこうした原典のエッセンスが全く捨象されてしまっている。それに葉っぱじゃなくなってしまってもいる。
原典との乖離がある点もあまり使いたくない理由の一つだ。
4 俺が木を隠すなら
私がもし木を隠す必要があるならば、どうするか。
私だったらあえて隠さない。生えてるそのまんまにしておく。これが樹木としての普通の状態だからだ。変に隠そうとすることで、そのことが露見してしまう。
つまり、隠していることを隠すのだ。わざと堂々と、隠したい木をそのままにしておく。
つまり木を隠すなら森に隠さないのだ。こんなふうに考えているから私は「木を隠すなら森の中」って言葉を使わないのだろうと思う。
おわりに 「木を隠すときに森には隠さないでしょ」
ということで、「木を隠すなら森の中」という言葉は疑問点が多いという話をしてきた。実際に木を隠すこともないし、森の中に木を隠すとすぐバレると思う。
この言葉は、あらわす意味を実現し得ない慣用句と思っている。