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妻を愛するということはどういうことか?
妻を愛すること(序論)
私は妻のことが好きだ。好ましいと思う。
しかし一体、妻を愛するということはどういうことか? と考えることがある。
私の妻にはいくつかの美徳がある。私にとって好ましいと思うところがある。それは幾つかのふとした挙措であったり、物事への考え方だったり、あるいは職業からくる専門性やフィーリング、職業倫理への姿勢なんかもそうだ。
私はそうした事柄から妻を好ましいと思っている。
ところが、こうした私の思う妻の美徳がひとつひとつ削がれていった場合、私は妻を愛していることを続けられるのだろうか、と思うことがある。今日はこのことについて考えてみたい。
妻を愛すること(本論)
妻を愛することを続ける
妻を好ましいと思う諸要件がひとつひとつ崩れても、愛することを続けられるだろうか。
カントの定言命法と仮言命法みたいな話になるけれども、要件がなくとも愛せるということが大切なのかもしれない。
ただし何もなくともひたすら相手を愛するというのは、ちょっと怖い。格好がいいような気もするけども、あるいはストーカーっぽいな、と思う人もいるのではないだろうか。偏執の雰囲気がある。
こーいうのってバランスが大事だ。少なくとも、妻の美徳を好ましく思うと同時に、その美徳が何らかの事情で崩れ去る可能性を想像し、そうであったとしても妻に対しての感情を続けていけるような心構えをしておくくらいが、いーのかもしれない。
変わっていくことを認める
年取っていくと色んなことができなくなる。変わってしまうこともたくさんある。病気になったり働く環境が変わったり。妻の様々が移ろうのと同じく、私の感情も過ぎ去ってしまうかもしれない。
これは無理にあらがっても仕方がないと思っている。変わってしまうことを無理にとどめようとしても、却って歪になってしまうという感覚がある。
妻を愛することのまとめ
妻の変わっていくかもしれない美徳を愛し、もしそれが変わってしまっても仕方がないと思えることがよいと考えてきた。
仕事の都合で妻と離れて暮らしている。だからこんな理詰で物事を考えてしまうのかもしれない。一つだけこうした理詰めに即したソリューションがある。それは妻と会うことだ。会って、話をしたり、あるいは一緒に家事をしたり、なにもしなかったりをすることだ。
とにかく一緒にいることで、美徳を愛し、変貌を諦めることもまた可能になるだろう。そして変質してしまった美徳やその他の事柄から、もしかしたら新しい美徳を見出せるかもしれない。
頭で考えるだけではなく空間をともにすることだ。長く長く愛するために、一緒にいることが大切だ。