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M-1グランプリ2024決勝 令和ロマン髙比良くるま「齋藤は違うよ!!」 ←なぜ齋藤は渡邊と違い文字を訂正してくるのか考察する
はじめに 渡邊と齋藤
2024年のM-1グランプリ決勝戦。令和ロマンの髙比良くるまさんがボケで「齋藤は違うよ!!」と話して、会場・お茶の間の笑いを掻っ攫っていた。
渡辺(渡邊)が名字としていかに優れているか、学級の席の配置と絡めながら漫才をしてきている流れで、
・渡邊さんは、「邊」を簡単な字「辺」で書いても怒らない。
・齋藤は違う。難しい「齋」を「斉」で書くと、「あ、私、"刀Y"です」と言われる。
と両者の違いから笑いをもたらしてくれた。
さて、なぜ齋藤さんはこうしたリアクションになるのだろうか。
すでに自明の事柄であり、多くの方がご存知の知識を再紹介するような形になるのだが、本稿ではあらためてこのことについて考えてみよう。
1 渡邊の「邊」「邉」
渡辺の画数の多い漢字「邊」は「辺」の正字だ。「邊」の常用漢字が「辺」であり、現代ではこれがもっぱら使用される。名字など古い時代からのものに名残があるというわけだ。
「邉」は「邊」の異体字。統一的な教育機関がない時代にあっては、一つの漢字にいくつかの字体があった。「邉」「邊」はその典型例だ。
他には名字で見かけるものだと「峰」「峯」とか「濱」「濵」とか「土」「圡」とかだろうか。
ということで「邊」と「邉」と「辺」とはおんなじ漢字なのである。
つまり渡邊さんが「辺」に寛容であるのはもともと同じ漢字なのだから、ということになるのだろう。
ところが齋藤は違うよ。
節を改めて論じていこう。
2 さいとうの「齋」と「斎」、「齊」と「斉」
「辺」と違って齋藤/齊藤の「さい」字は、使われている漢字自体が異なる。
1 「齋」とその常用漢字「斎」
下が「示」みたいになる仲間。これは意味は全体で言うとお葬式というか人の死に関する言葉だ。「ものいみ」だとか「いつき」と読む。現代では「斎場」などの用例がわかりやすいだろうか。お葬式の言葉。
2 「齊」とその常用漢字「斉」
下が二本線になる仲間。「ひとしい」とか「そろう」とかと読む。現代だと一斉スタートとか、国歌斉唱とかがわかりやすい用例。西遊記で孫悟空が自らを斉天大聖などと自称していたが、これは天にひとしい存在だと自らを恃んでの称号だ。
3 「齋」「斎」と「齊」「斉」とは別字
ということで、なぜ齋藤さんは名字の文字に厳しいか、一つの可能性を指摘できる。漢字が異なるためだ。
実際のところ「刀Y」はふたつの「さい」字に双方あるので、厳密には「示」タイプか「二本線」タイプかで区別することになるのだが、可能性として「齋藤」を「斉藤」と書いてしまうことは生じうる。
この場合、当然「齋藤」さんは字義が「齋」と「斉」とで異なるため修正をうながすケースが出現しうる。これは「渡邊」では起こり得ない現象だ。
このため、「齋藤は違うよ!」の余地が生まれてくる。
考察
あくまで可能性だけれども、髙比良くるまさんは、こうした漢字に関する知識を有していたか、実際に齋藤さんが「斉」字を使われ訂正する場面をつぶさに見ていたかしたのかもしれない。すなわちこの「渡邊」「渡辺」と「齋藤」「斉藤」が持つ漢字としての性質の違いに、知識・観察・経験あるいは感覚で気がついていたのかもしれない。
もちろんそれを笑いに持っていけるスキルを有しているってのが、お笑い芸人さんとしての技術・能力の本質だ。私の今書いていることは些末な言及に過ぎない。
ところが「渡邊に対して齋藤が文字を修正しがち」に妙な納得や笑いが生まれうるのもまた事実だ。令和ロマンさんのお笑いは、髙比良くるまさんのいろいろな例えや演技が光る(もちろん松井ケムリさんのほのかに色気を感じさせるツッコミもとても良い)。私たちが普段生活しているなかでなんとなく生じているイメージや「あるある」を、笑いのなかで面白く再提供してくれる。
今回のM-1だと最終決戦の「2.5次元」のくだりなんかはそうした魅力が最も端的に現れた場面だったように思う。
「渡邊」と「齋藤」の話は私の与太話であるけれども、令和ロマンさんの現代社会へのつぶさな観察が、彼らの実力あるお笑いを生んでいることは相違ないだろう。これからもただただ活躍が楽しみだ。