なぜ私のFacebookにミニスカの綺麗なお姉さんが表示されるのか?
1 ミニスカートの綺麗なお姉さん(序論)
連絡手段の一つとしてFacebookを使用している。Facebookにはリールという機能がある。Youtubeのショート動画にあたる存在だ。
多分、フォロワーの動画なんかも本来ならばそこに流れてくるのだろう。しかし私の周りの、というか世のFacebookユーザーのメインボリュームを少しでも考えてみて欲しい。その年代の人は、そんな機能を使わないのだ。
その結果、Facebookおすすめのリール、すなわちザッカーバーグ(Zuckerberg)お墨付きの短い動画がタイムラインに表示されることになる。
私は30代の男性だ。多くの同年代の男性が見たことがあるのではないだろうか。どこともしれないアジア圏の、タイトなミニスカートを着用した綺麗なお姉さんの動画を。
本稿では、なぜこうしたミニスカートの綺麗なお姉さんの動画が出てくるのかについてあらためて考察し、その結果私たちはどのように感じ、どう振る舞えば良いか個人的な判断を記すものである。
2 ミニスカートの綺麗なお姉さん(本論)
2−1 「サジェスト」の時代とミニスカートの綺麗なお姉さん
まず前提として、私たちはすでに自ら単語を検索窓にぶち込まない社会を生きていることを確認しなければならない。
わかかりしころ、あの頃、ニコニコ動画の総合トップに踊るランキングを毎日確認しながら流行をキャッチしていた時代。ああした牧歌的な時代は過ぎ去った。すでに検索の履歴などから、ウェブサイトの向こうから勝手におすすめが送られてくる時代なのだ。
そして悪いことに、結構それは自分にとっていい感じの情報なのだ。マスデータは精度よく私たちへ、ついついみたくなる動画を届けてくれる。
2−2 30代男性とミニスカートの綺麗なお姉さん
年代で区切ることは、一つの有力な指標だ。かつて野口悠紀雄は名著『「超」整理法』(中公公論新社、中公新書1159、1993年)において、ジャンルで分類することの困難さや例外発生の可能性を述べ、最終的には日付順で整理することを提言していた。
野口の判断はおそらく正しい。そして私たちの多様な思考を、そして嗜好を、大まかに分類するならば、人間に対しても年代順すなわち世代で区切ることが重要になってくるのだろう。
そして30代男性について考えてみたい。多くの場合、30代男性はタイトなミニスカートに上質のストッキングを身に纏った美脚のお姉さんがサジェストされたら、つい見てしまうのではないだろうか。
恐ろしいことであるが、これを否定するべきではない。素直に認めた方が良い。性的嗜好の多様性を措くとして、マスデータで年代を輪切りにすると、30代男性のそうした可能性を全く否定することはできないだろう。実際私も真面目な顔してこれを打ち込んでいるが、スクロールしてて、上品な黒のスーツにタイトミニを着した美脚の綺麗なおねーさんがハイヒールのあの独特の音を響かせて歩いている姿を見ると、「お」と思う。
「お」と思うのである。
ここを肯定することで、はじめて論を先に進められるのではないか、と個人的に信じている。
2−3 毎日の決選投票とミニスカートの綺麗なお姉さん
ではなぜ、ミニスカートの綺麗なお姉さんが頻繁に現れるのだろうか。今までの行論で述べた延長にある話で、圧倒的にサジェスト後にクリックされるからなのだろう。
つい見ちゃうわけだな。
これはサジェストとクリックとで、次のサジェストの情報源となる昨今のネット環境と極めて相性が良い。
毎日決選投票しているようなものだ。
先だっての東京都知事選では、泡沫候補含めて、候補者の意見がSNSで諸説芬々と飛び交い、それぞれの支持者が論争したり、他の候補者の至らない点を論ったり、大変な騒動になった。
ところがどっこい、蓋を開けてみると想定通り現職有利で小池百合子さんが開票間も無く当選確実となり、今も政務に励んでいる。
ミニスカートの綺麗なお姉さんも小池さんみたいなもんだ。ネット上では日々いろんなことが語られ、そして、それについて交流が行われている。まじめな話、誰かのドジな話、誰かの悪い振る舞い。一つ一つ、当事者にとっては大きなことで、それに付随してなされる会話もそれぞれ見かけには重みがある。
でも、蓋を開けてみると結局、ミニスカートの綺麗なお姉さんに票が集まっている。結果はリアルタイムかつ毎日集計される。ミニスカートの綺麗なお姉さんは小池さん並みに毎日勝ち続けている。当選確実が毎日出ている。なので私のFacebookで流れてきて勝ち名乗りをあげている。
そしてまたその美脚に「お」と思い、クリックという清き1票が投ぜられ、明日の選挙結果につながっていく。
3 ミニスカートの綺麗なお姉さん(結論)
Facebookのサジェスト機能について批判の声が上がることは少なくない。述べてきたような際どい動画ばかりが出てきて、それは使用者の望むものではないからだ。
今まで述べてきたことはなんだったのか? と思うかもしれないけれども、私はこうしたサジェストの「汚染」が改善されることを祈っている。
敵は手強い。述べてきた通りミニスカートの綺麗なお姉さん出てきたら、人間の生物としての側面を強く刺激され、見ちゃうんだ。そしてそれが更なるサジェストを生むんだもの。
結論として、この状態はある程度仕方がないのかもしれない、と思っている。しゃーない、という感じだ。
敵は強大だ。サジェストの「偏り」「不十分さ」に憤りたくなる。でもまず、敵の強大さと、その強大さをもたらす構造とを掴み、そこから「仕方のなさ」を感じたり「しゃーないな」と思う段階を、個人的には大切にしたい。
この「仕方のなさ」を認めることは、実は現代社会を生きる上で結構、いやかなり重要なのではないかと思っている。
現状をまず認める、ということだ。
4 補論 仕方のなさをめぐって
実はこれが本ブログ初めての記事なのだが、本ブログではこんな感じで日常の「仕方のなさ」を論点に、これからあれこれ書いていこうと思う。
「仕方のなさ」を感じることは、現状を認めることに直結する。現代社会のいろいろなところで「仕方のなさ」を感じ現在地をしっかりと確認することで、次のより良い第一歩を踏み出せるのではないかと思っている。
もしよければ、また読みにきて欲しい。