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体育の集団行動の「休め」って全然休めなくないか?


はじめに 「休め!」←全然休めないのだが?

私は小学校の頃からいっつも思っているのだが、体育の集団行動や行進の際の「休め」って号令は全然休んでないのではないかと感じている。

小学校というか、学生時代私はとにかく体力がなかった。何というか、今から思うと身体の使い方がおかしく走っていても無駄なところに力が入って体力を消耗してしまい、長く走れなかったのではないかと思っている。

とにかく女子より体力がないのだ。そして走れども走れども体力は向上しなかった。悲しい話である。

そんな私ゆえに気がついたのだが、体育の授業で更新をする際に「休め!」と号令がかかる。

これ全然休めないのだ。「休め」と言われているのに謎の緊張感のあるポーズをさせられる。筋肉は強張り、それを維持する必要がある。

疲れるのだ。小学校の頃からこれは全然「休め」じゃないじゃないかと思ってきた。あれは「休め」ではなく別の「ナニカ」だ。

前習えとか右向け右とか←大丈夫

前習えとか右向け右とかは、よーくわかる。集団の規律を守り、団体で行動する際の重要な方法だ。

軍隊ゆらいで戦争反対だから「休め」など集団行動にかかる号令がが嫌いだとか言いたいわけではない。またこうした集団行動が個性を潰しかねないといった、大衆と自分は異なることを示したい厨二病的気持ちがあるというわけでもない。

とにかく「休め」で休めないのだ。集団行動の意義はわかるし、前習えや右向け右はできるしわかる。ところが「休め」だけは意味がわからないしできない。なぜならあのポーズでは私は全然休めないからだ。なんか腕と足が痛くなってくる。

休むとは何か

「休め」と言われたら、私はベッドに横になる。そこで自分の好きな本とか趣味の品を眺めてゴロゴロする。動画を見たっていい。立ってる時だったら、地下鉄の駅で待つようなポーズをするだろう。

「休め」とは本来これを指すのではないか。

ところが集団行動の「休め」はそれとは違う何か禍々しいものだ。何か厳密に定められた姿勢だ。あんな疲れるポーズを「休め」と言ってはいけない。言葉が持つニュアンスと実際の状況に著しい乖離がある事例と思う。

先述の通り私は集団行動の意義は感じているから、純粋に「休め」という言葉が気に食わないのだ。何か言い換えてほしい思っている。あれは実際のところ、気をつけ」の解消状態として存在している。もっと違う単語、例えば「気をつけを解け」みたいな表現をするべきだ。

おわりに

ここまで書いてきて恐れていることは、私以外の他の人類が実は「休め」でぐんぐん体力を回復している可能性だ。スマホを充電器にブッ刺したような感じで、人類があのポーズでぐんぐん体力を回復していく。私はそれを享受するための遺伝子か何かが失性しており、あのポーズでも回復できない。

この可能性は非常に恐ろしいが、ないわけではない。言語がおかしいのではなく、私の方がおかしいということだ。

もしそうであるならば、それは全然体力がつかないことと同じくらい悲しいことだ。

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