お〜い、ねりもの。 そして都会の美術館。
はるかなるねりもの
私はねりものを食べていると泣きたくなることがある。
ねりものは全国にいろんな種類がある。身近な食べ物だし、一方で鯛の形を模したねりものなどハレの日に用いるものもある。
昔も誰かが食べていただろうし、今も誰かが食べているかもしれない。私も近くそのうち食べるだろう。
いろんなものに入ってる。馴染みの中華料理屋のあんかけ焼きそばに入ってる。よく行くおでん屋にもある。とっても身近なのに、ずっと私たちのそばにいる。
いきなり若干わかりにくい話をするのだが、かまぼこはもともとちくわと呼ばれていたのだそうだ。
何言ってるんだお前は頭の中までかまぼこになっちまったのか? と思う読者諸賢もいることだろう。
古くは竹にさして輪っかにして練り物をつくっていた。これを元来かまぼこと呼んでいたそうなのだ。
漢字だと蒲鉾。蒲の鉾みたいなかたちだからだ。
そのうち板で作る蒲鉾が出てきて「板蒲鉾」と呼ばれた。元の蒲鉾は区別のために「竹輪蒲鉾」と呼ばれたそうだ。そして「板蒲鉾」は板が省略されて「蒲鉾」に。「竹輪蒲鉾」は蒲鉾のほうが省略されて竹輪になった。
こーいうのは食べ物や野菜の名前の変遷の事例で結構見られることだ。確かに、「板蒲鉾」を省略するとき「板」にしちゃうとあまりに意味が拡散してしまう。板は本来の意味でかなり出番がありそうだ。ねりものを「板」と呼んじゃうと混乱が起こりやすいため、そのようにはならなかったのではないか。
こうした、ねりものの時空間を想う。
遠い過去から運ばれてきて、今日本や東アジアで食べられている。その、ねりものの歴史の重みに、時に私は、押し潰されそうになる。泣きそうになる。
美術館に行く文化的営為と、ねりものをまなざす文化的営為
よく東京には文化があると言われる。美術館なんかがよく文化的豊富さの具体例として引き合いに出される。有名なミュージシャンのライブもあるし、古本屋だってたくさんあるし、いろんなコンセプトのカフェや、変わった格闘技のジムもある。外国語だって学びやすい。
これは一つの指標として明らかに文化的だ。人口が集まり経済活動が活発なため、娯楽や趣味の場所が多様に存在する。
都会と田舎の差異を考える時、この歴然とした格差に暗澹たる気持ちになる人も多いだろう。SNSなどを見ていると、都会と田舎とで思想のぶつかりあいになったりする。
また都会に住む人も、そうした都市的な文化にアクセスしやすい人としにくい人がおり、人生の折々で格差に悩む人もいる。
そんなとき、都市の文化をひとまず置き、一度ちくわやかまぼこについて考えてみるのも良いかもしれない。
かまぼこという、魚のすり身をめぐる時空間の出来事もまた一つの文化だ。それは述べてきた通り、ハレの日でも、日常でも存在する。古くからの蒲鉾屋にも存在するし、コンビニやスーパーでもお目にかかれる。日本各地にその地域ならではのかまぼこや、食べ方がある。
これを文化といって何が差し支えがあるだろうか。かまぼこは文化的だ。
まとめ
「文化」あるいは「文化的」という時、いくつかの距離のある要素が含まれていると思うことがある。都会にいろいろなことが集まっていることも「文化的」だが、身近なねりものが時空間で広まって今ここに存在していることもまた「文化的」だ。
都市の「文化」の喧騒や競争的な部分に疲れた時は、かまぼこでも食べてみると良いのかもしれない。
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