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「あし博士」の危うさについて
はじめに 「あし博士」とは何か?
出入りの業者さんの中には表具屋さんがいる。ご主人と職人さんのお二人で私の職場というか現場に出入りしていることが多い。
仕事上、脚立を使うことがある。そして表具屋さんなのでクロス張りなど室内業務も多い。
そのため脚立に靴下みたいなのを履かせている。
その脚立カバーの名前が「あし博士」なのだ。
今日はこれについての諸問題について検討していく。
1 「あし博士」って若干エロくないか?
いやわかる。脚立の脚に、「履かせ」る専門の道具だから「あし博士」なのはわかる。
わかるんだが、どうしても脚フェチの専門家を想像してしまう。
いわばオーキド博士の脚フェチ版だ。オーキド博士はポケモンに詳しいが、脚フェチ博士は脚に詳しいわけだ。
ひらがななのがいけない。脚と足で指している箇所が異なることはご存知の方も多いだろう。ひらがなにしているせいで、そのどちらも含むフェチを想像してしまうのだ。ふとももも、ふくらはぎも、足先も専門にしているかなり広範囲の分野に通暁している優秀な気鋭の博士を想像してしまうのだ。
2 あるいは、めちゃ健康に詳しい博士っぽくないか?
あし博士。脚立の脚カバーに使うのはわかる。韻を踏んでるのもわかる。
健康のために、1日1万歩を歩くことが推奨されている。またそれより少ない歩数でも良い、という記事をネットで見たこともある。いずれにしても、日常の中に運動を取り入れることが長生きやストレスの解消に重要なのだということは、論を俟たないだろう。
こうした日常の健康を支えるのが脚といっても過言ではない。
都市公園を見ていると、ウォーキングの指導をされている方を何名か見かける。またYouTubeなどでは整体師さんやトレーナーさんが足の筋肉や柔軟性、関節の可動などについて色々なアドバイスを行なっている。
「あし博士」からはそんな印象もまたある。
健康のために、足のことを考えている専門家というイメージだ。
3 餃子(ギョーザ)
皆さんは餃子(ギョーザ)と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
多分、餃子を思い浮かべると思う🥟
改めて考えると「餃子」って変な名前で発音だが、私たちの餃子解釈は一致している。
焼き餃子や水餃子、その他いろんなタイプの餃子があるが、私たちはおそらくどんな餃子であっても、餃子は餃子と認識できる。
餃子は変な名前だしバリエーションもあるが、餃子として強いまとまりがある。多様性がありながらも一体感が担保されている。
いきなり「あし博士」の話になるのだが(そもそもこのブログ自体がいきなり「あし博士」の話をしているのだが)、「あし博士」にはこの餃子の一体感というかグルーヴ感がない。
4 「あし博士」の言葉としての弱さ
餃子を例に考えたが、「あし博士」は言葉として弱い。
どのように弱いかというと、「あし博士」には脚立の脚カバーっぽさにも使えるし、あしフェチ博士にも使えるし、脚・足の健康博士としても使えそうだからだ。
餃子のように厳密なまとまりがない。餃子は多様性があるが、まとまっている。「あし博士」もまた解釈が多様なのだが、統一されていない。
大抵の言葉は、餃子のように意味や内実がある程度まとまっている。だから言葉として通用する。一方、「あし博士」のような言葉はその性質を持っていない。
因果関係がよくわからないのだが、だからこそ言葉として広まっていないと考えることもできるだろうし、言葉として広まっていないからこそ意味がまとまっていないとも考えられる。
終わりに 「弱い言葉」としての「あし博士」の未来
実は「あし博士」は脚立カバーとしては終売しているようで、ネットを探しても全然出てこない。
おそらく「あし博士」は述べてきたとおり意味が多様に取れてしまう点、すでに脚立カバーとしては終売している点から、これ以上言葉として地歩を固めることはないのだろうと思う。
こうした「弱い言葉」は歴史の中でいくつもあっただろう。そして私たちの前を過ぎ去り、消えていったことだろう。
弱き言葉「あし博士」に祈りを捧げると共に、私たちは餃子の言葉としての強さを、美味しさを味わいつつ、楽しむべきなのかもしれない。