渋谷の「渋」だけ特別処理されていることについて、「森」についても同様にするべきと思っている
はじめに 渋の省略処理
「渋」という漢字がある。渋谷とかの渋だ。個人的には化学物質のタンニンを渋と表記するので馴染みがある。
旧漢字というか正字では「澀」。それでこの俗字が「澁」。戦前期はこの本来俗字である「澁」をよく見かける。
現在使っている常用漢字は、「澁」から「渋」になっている。この下の
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は、「止」の字が三つあるのを省略してこうなっている。
こういう処理をする俗字・異体字は結構あって、例えば品川の「品」は一番上の「口」の下のふたつの「口」が
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になることがある。
現代でもたまに見かけるのが「協」で、農協の古い倉庫なんかではこの字体を見かけることがある。
「森」にもこの処理をしてほしい
それで今日言いたいことは、この
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の処理について常用漢字でその恩恵に預かっているのが、現代では「渋」しかないのではないかと思っていることだ。
このシステムはいい。めちゃ早く書ける。三つ連続する漢字を省略するというルールも処理として論理的で、他の同質の漢字にも応用できる。非常に可能性を持っている漢字の処理と思う。
ところが「渋」以外の、文字おんなじ漢字三つ勢は遠慮しているのかこれになろうとしていない。品も轟も協もそのまま三回我々におんなじ漢字を書かせている。
漢字ドリルじゃねーんだぞ! 俺たちは社会人やってるんだ。三回書かなくても口も車も力も書けるわ! 省略させろ!!
こんな気分だ。
で、このnoteで最も訴えたいことは森だ。
森。これが一番この話で頭がおかしい。
なぜかというと、1個目の木は木単独で木だし、2個目を書いた時点でそれは林だし、3個目で森になるからだ。他の口や車や力や止にはない状況だ。1個目2個目3個目全て別の漢字になる。
森はそうした意味でサイコパスな漢字である。ただ木を足しているのに何かどんどんやばいことになっていく漢字だ。
私は森を書いていて気分が悪くなってくる。森を書いているのに、木・林のことがフラッシュ的に頭を過ぎるからだ。森を書いていると途中で林のことを強制的に考えさせられる。かなり森を書いていると脳に負担がかかる。
森にたどり着こうとしているのに、林の概念そのものが途中で襲いかかってくる。今まで文学作品で読んだり、実際に訪れたりしてきたことで培われてきた私の裡にある林のイメージがフラッシュ的に木を2こ書いた瞬間に立ち現れ、3つ目を書いた瞬間に消えていく。
かなりの負担だ。
そして口や車や力や止にはない現象だ。これらは2つ目の漢字を書いたところで、脳外が概念に支配されることはないためだ。
そのため、森のしたのふたつの木を
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にするべきだということだ。
これで私たちは森を書いたり森のことに触れているのに、途中で林のことを考えなくて済む。
おわりに 省略して効率化を図る
省略とは何か考えたことがあるだろうか。
もちろんそれは、直接的には筋道のうち何かを飛ばしてしまうことだ。
ところが省略とはこれにとどまらない効果がある。すなわち省略の真のメリットは、途中経過を飛ばすことで、途中の概念を考えなくて済むところにある。途中のルールや仕組みをわざわざ考えなくてすみ、その先の事柄に専心できる。
森についてもそうした省略の持つメリットについて援用してもいいのかもしれない。
特に森については、途中の林という木が2こあるせいで強制的に考えさせられる概念がある。せっかく
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という良い処理があるのだから、森に内包される問題をこの仕組みで処理して、より良い効率的な直接森のことをすぐに考えられる社会を実現するべきだろう。