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おしっこの出方の個人差について
はじめに おしっこで隣になる!
今札幌に出てきているのだが、都会に来たなと感ずることがらとして公衆トイレで隣に人が当たり前にいるってのがある。
田舎だとこうはいかねえ。
たまに居酒屋とかでトイレのタイミングが重なることはあるけれども、田舎のトイレはそこまでデカくねえ。順番を待つことになる。
一方田舎の駅などのトイレはそれなりに広くて小便器が公共事業の入札みたいなかんじで並んどるんだが、そこには人がいねえ。小便器がたくさんある分、みんな離れておしっこし始める。
おしっこのタイミングが同時になり、かつ公共事業の入札みたいに並んだ小便器の隣同士になるというのは、なにより都会に特徴的に見られる現象だ。
本論 おしっこの出方の差異
それで都会で気が付かされるのだが、人間(少なくとも男)って全然おしっこの出方が違う。私の出方と隣の男の出方が、全然、いや全くと言っていい。異なっている。
(ここには、私のおしっこの出方と、本日隣になった男の出方とがいかに異なるかが書かれていましたが、生々しくなってしまったので省略します)
とにかく、異なっているのである。
私は不安になってくる。こんなに出方が千差万別であるのに、果たして人類は協働できるのだろうか? と。
私たちはそれぞれ全然違い、まとまることはないのではないか。バベルの塔が神罰により建設中止になり、その後バベルの塔の公共事業の入札が一切行われてこなかったことが証拠になる通り、私たちは実はバラバラのままなのではないか。
都会で孤独感を感じる時はこういう時だ。私たちの身体は実はあまりに異なっており、夜空の星々のように暗黒のただなかに個々に漂っているだけなのではないか。
でも、そうではない。そうではないのだ。
私と隣の男は一緒に便器から離れ、手を洗い身だしなみを整え、トイレから出る。そして自らの目的の場所へ歩んでいく。いくらおしっこの出方が全然違っていても、私たちはあきらかなる了解として所定の場所でおしっこをして、手を洗い、外に出ていく。
ここが大切なのではないか。
おしっこにいくら差異があろうとも、おしっこをめぐるプロトコルが公共事業の入札の次第みたいに秩序だっている。これこそが、私たちが社会性を営める要因なのではないか。
つまり、トイレという構造と一連の所作(おしっこを小便器でする、手を洗う、外に出ていく、混んでいる時は順番を待つ、など)が私たちに社会性を担保させている。
おしっこの出方が全然違っていても、相手のことを異質と思わないのは、こうしたプロトコルを共有している点が影響している。
おわりに トイレを共有する社会性
ということで、おしっこの出方は違いがあるが、実はこれは違いとしてはそんなに違いではない。むしろ、トイレの設備や仕方が日本と諸外国で異なっていることは、異なっていること以上に差異がある。
私たちは社会の仕組みを共有することで、ある種の差異を無視している。ルールを守ることで、ルール内での振る舞いにファンブルを得られる。
ルールを意識したり、遵守したり、必要に応じて改変していくことは、おしっこの出方を無理に人に合わせるよりもとっても大切なことだ。