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なぜ私たちは永久に「半」を付けるのか? 不思議な言葉「半永久的」の具体例としての「無限1アップ」


1 なぜ私たちは永久に「半」を付けるのか?

半永久的とは何か? 考えると奥が深い。

永久の長さを人は知らない。

かといって私たちは短い間に変化・劣化・消失したりするものだけで、社会を構築してきたわけではない。

長い年数に耐えうる建物や社会システム、文学、科学理論を構築してきた。

悠久の時を全うすることは定命の者にはかなわない。

けれども、それでもそれに手をかけるべく何かをつくってきた。

こうしたものに「半永久的」は形容としてふさわしい。

2 無限1アップの誤謬

さてここまで調子こいてnoteを書いてきたわけだが、一気に世俗的な話題に舵を切りたい。

皆さんはマリオなどのゲームで無限1アップを試したことはあるだろうか。

歴代のマリオで可能なあれだ。マリオがミスしてダウンすると、試行回数の猶予がだんだん減っていき、0になるとゲームオーバーになる。逆に1アップキノコやコインを集めると、マリオの試行回数が増えていく。ネット的には「残機」と表現するのが分かりやすいのだろう。

さて、無限1アップは本当に無限であるかどうか、みなさんは考えたことがあるだろうか。

いろんなゲームで無限1アップは可能だが、ここでは特になじみあるマリオで考えてみたい。

たいていの場合、ノコノコの甲羅を永遠に踏み続けたり、ノコノコの甲羅を無限湧きする敵キャラに当て続けられると、無限1アップは完成する。もちろん、他にもいろいろ面白い方法でマリオの試行回数の猶予を増やすことが可能だ。

これは無限だろうか。確かに小気味よく「残機」は増えていく。マリオの試行回数の猶予の数字が跳ね上がっていく。

ところがである。

無限に対しては以下のゲーム上の制限がかかる。

①時間制限:コース内に制限時間が設定されていて無限に1アップできない

②マリオの試行猶予の限界:いわゆる「残機」が99以上に増えなかったりなど、1アップ自体に上限がある。

③ゲームクリアへの直接的解決にならない:いくら試行回数を増やせても、ゲームのギミックが解けなかったり、操作がうまくいかないと、そのうちゲームオーバーになる。

実は無限1アップは無限ではない。タイムアップに対しては無力だし、「残機数」には上限があるし、上手じゃないとクリアできない。諸要素が無限から差し引かれている。

それでも私たちはこれを無限1アップと呼び、そして大切なことはそのテクニックになぜだかワクワクする。

私はマリオをしていて無限1アップに入って操作をほぼしなくてよくなった時に、上に書いたような「無限」へのワクワクと限界とを感じて、タイムアップのそのあとまで、ただぼんやり過ごすことが多くなってしまった。

3 「半永久的」存在としての無限1アップ

「半永久的」という言葉について考えていたとき、ふいに無限1アップのことを思い出し、すごく心の中がすっきりして気持ちが楽になった記憶がある。

無限1アップは無限じゃなかった。だがあれは半永久的1アップだった。

私たちはゲームという世界のなかで工夫をして、そのルールのなかで1アップを連続させるテクニックを発見し、シェアしてきた。

これはまさしく「1」で述べた通りの、世界に対して人間ができる技術で世界をハックしようとする試みに他ならない。

無限1アップほど、半永久的という形容が似合う言葉はないのではないか。

おわりに ワクワクへの渇望

最後に、無限1アップはなぜワクワクするのかを考えつつ擱筆することとしよう。

無限1アップのワクワク。それはただ「残機」が増えるからではないだろう。それは、世界のルールに対する人間の挑戦とその成功とを垣間見られるから生じるのではないか。

世界は人間のために直接出来ていない。人間は自然を飼いならし、コントロールすることで発展してきた。世界のルールをいわばハックして、今回論じてきたような「半永久的」な便利なシステムをつくってきた。

ゲームのルールのギリギリをついて、1アップをため込む行為はこうした人間の人間らしい一端ととらえうる。私たちは無限1アップを通じて人類が効率的に行ってきた営為、たとえば弓矢で狩りをし、歌や踊りで社交をし、編み物をして衣服をつくり、釣り針をつくって魚を釣り、工場で大量生産し、ネットでお買い物するなどを垣間見ているのだ。

そういう考えが成り立つのであれば「半永久的」という言葉は、人間の営みのなかのとても大切な部分を形容する言葉である可能性が高い。

半永久的なものこそ、人間らしさの結晶であるのかもしれない。


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