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土砂降りの語源
俺はいつも雨が降る時の例えに土砂を使うのはおかしいような気がしていた。
つまり、逆ではないか。
冷静に考えてみて欲しいのだが、土砂が降りかかってくるのと、雨が降りかかってくるのとでは、どちらが頻度が高いだろうか?
現代でも、たとえば江戸時代でも縄文時代でも、雨の方が頻度として流石に多いのではないか。あるいは土砂降りがあって初めて地盤が緩んで土砂崩れが起こるのではないか。
頻度の面でも、因果関係の面でも、雨降りのあとに土砂が降るのではないか。
つまり本来は、土砂が降る現象(土砂崩れや火山の噴火など)に対して「雨のように土砂が降る」的な表現があるべきではないか、と言うわけだ。
と考えていたところ、以下のようなレファレンスを見つけた。
これによると土砂降りってのは土砂のように雨が降っているのではない。どさっと雨が降るのでどしゃ降りなのだそうだ。そしてその「どさ」「どさっ」という擬音語に文字「土砂」が当てられて現在の形になったのだという。
……。
だれだ土砂の字を当てたのは! 愚かな。
犯人がわからないことをいいことに放言してしまうのだが、これってセンスがない気がするのは私だけか? さっき言った通り逆だ。雨が降って地盤が緩んで土砂が降るわけだ。最初の雨に土砂を使うなということ。
ただ言葉遊びで字を当てている。
皆さんは駄洒落(ダジャレ)は好きだろうか。おそらく駄洒落は、脳が短絡を起こしている。
言葉がたまたま似たような感じになっているのを峻別できず、面白がってしまう。本来それらはたまたま音が似ているだけで別物だ。面白くはあるけれども。
私たちは同姓同名や同姓・同名の人物を峻別して生活している。世の中伊藤さんはたくさんいるが、ちゃんとそれぞれの伊藤さんを区別して過ごしている。またあるいは、神と紙と髪とか、何度と難度と納戸とをこともなげに区別して過ごせている。
大抵そうしたことが区別できなくなって面白くなってくるのは、脳味噌がカニミソみたくなって疲れてきたときとかだ。疲れてなくとも面白いが、疲れてきた時の方が駄洒落は面白い。
土砂降りという借字をした最初の人物、あるいはそれをスプレッドした人物は、端的に言って、疲れていたのではないか。寝不足だったのではないか。
私はそう信じている。
そして、そうした想像に対して私が実際に振る舞える行動は少ない。
早めに寝ることを心がける。それは言葉を守るためだ。
土砂降りとか書かずにどしゃ降りと書くべきことについて、冷静に判断を下すためには、睡眠時間を確保するのが一番だ。あるいはそうした駄洒落のカニミソ短絡を起こさないようするには睡眠時間を確保するのが一番だ。
そうしないと、言葉が面白くなって、そして面白くなりすぎてしまう。恐ろしいことである。なぜ睡眠が大切か。あるいはなぜ睡眠をとらないと気が狂ってしまうのか。多分、寝ないでいると全ての言葉が繋がってしまい(すべtの言葉が駄洒落になって繋がってしまい)めちゃ面白くなって笑いが止まらなくなってしまうからではないだそうか。
そうならないように寝る。私たちは寝ている。
泥(でい)のように眠る。