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15-ひいおばあちゃんの話

 2015年頃、河内さんという方と食事をする機会があって、その時にその方から僕のひいおばあちゃんの話を聞いた。ひいおばあちゃんというのは、僕の母親の祖母にあたる人なのだが、僕はこのひいおばあちゃんはもちろん、母親の父、つまり、僕のおじいちゃんに当たる人とも会ったことはない。僕が生まれるより前にどちらも亡くなっていたからである。

 かろうじておじいちゃんの顔は、遺影を見たことがあるので知っていたが、ひいおばあちゃんは写真さえ見たことがない。その方はなぜか、このひいおばあちゃんと会話できるらしく、僕が前の奥さんと離婚したのも、今の奥さんと再婚したのも、ひいおばあちゃんの気持ちが大きく関係しているとのお話であった。

 河内さんは、ひいおばあちゃんの影響を受けているのか、僕にとても好感を持っており、次に会う時に、再会するにあたって、僕に下駄をプレゼントしたくなったという。そもそも下駄というのがおかしいと思いませんか?もちろん普段から僕が下駄を履いているわけではありません。

 ひいおばあちゃんは明治時代の人、生まれたのは江戸時代だと思われます。そして僕の母の実家は、金沢で和服の仕立て屋をしていました。それならば下駄というのも少しわかります。

 そしてその方がはきもの屋で下駄を見つけたところ、その下駄には地面と接触する部分にすべり止めのゴムが貼ってあったらしく、その方は「こんな下駄では駄目だ、裏側も木でできている下駄でなければ」と思ったそうです。それでちょっとその話がリアルに感じられました。このひいおばあちゃんの話を最初に僕にしてくれた河内さんは、当時50代後半だった方です。

 僕の母方の実家というのはかつては石川県の金沢市にあり、元々は和服の仕立て屋をしていました。母は7人兄弟姉妹の次女で、兄が4人と姉と妹がいました。もうひとり兄がいたそうですが、その方は子供の頃に亡くなっています。この兄弟の親というのが僕のおじいちゃんとおばあちゃんになるのですが、おじいちゃんという人は母が高校生の頃に亡くなっているそうです。
だから僕はこのおじいちゃんとも会ったことはありません。

 この仕立て屋をしていたおじいちゃんというのはその金沢の家に養子で入ったそうで、三越に仕立てを習いに行って、仕立て屋になったそうです。そのおじいちゃんは元々は富山の海沿いの寒村の生まれで、その富山のおじいちゃんの実母がこの話に出て来る僕のひいおばあちゃんのようなのです。

 僕はこのいきさつを今回初めて知りました。その話を聞いた時にはひいおばあちゃんはもちろん、おじいちゃんでさえかなり前に亡くなっていたのですから、このようなきっかけでもなければ、僕は永遠に知らないままだったでしょう。

 僕は金沢の母の実家には何回か行ったことはありますが、おじいちゃんが富山の人だったことなどは全く知らず、その金沢の家も今では取り壊されて跡地も売却されています。母の兄弟姉妹ももう全員亡くなっていますから、
今回の件がなかったら、僕がひいおばあちゃんのことを考えることもなかったと思います。

 ひいおばあちゃんが僕に何を伝えたかったのか、それはよくわかりませんが、とにかく僕の意識の中にひいおばあちゃんという存在が少し残ったことは確かです。

 そして2021年の4月18日にお墓参りに行きました。うちの母方のお墓は金沢市の野田山という古い墓地にあります。従兄弟(女性)と連絡を取って、金沢駅まで迎えに来てもらい、お墓まで案内していただきました。

 これがうちの実家の墓です。昭和53年頃に建てられたものですが、当時としては珍しいステンレス製です。新しいもの好きで合理的なうちのおばあちゃんが建てたものです。当時は大議論になったのを覚えています。でもおかげで今でもピカピカでした。

 僕が数年前から聞いていた、僕のひいおばあちゃんという人は、富山の人で、金沢のおじいちゃんは、富山から金沢に養子にもらわれて行った人で・・・という話だったのですが、今回従兄弟(女性)に詳しい話を聞いて、そのあたりの真相がわかったのです。

 まず、僕の金沢の実家というのは、越村(こしむら)という家で、おじいちゃんは越村松太郎、おばあちゃんは越村みさをという名前でした。松太郎さんは僕の母がまだ独身の頃に亡くなっているので、僕は松太郎さんのことは写真でしか知りません。みさをばあちゃんは僕が高校生くらいまで生きていたので、みさをばあちゃんの記憶はあります。

 そして松太郎さんは富山で醤油の醸造業をやっていた、山崎という家から越村家に、養子としてもらわれて来たという話でした。そして富山の実家のお墓から、富山の先祖の方々のお墓も、金沢のお墓の横に移したそうで、結局金沢のピカピカのステンレスのお墓の横に、富山のひいおばあちゃんのお墓もあったようなんです。

 ステンレスのお墓の横にある、お地蔵さんが掘ってある、朽ちたようなお墓が、多分富山のご先祖さまのお墓だろうという話でした。それで僕はあえてそのお墓に、青い花を供えたのです。なんかひいおばあちゃんは、そんなハイカラな感じが、好きなんじゃないかと、なんとなく思ったのです。これも一種のチャネリングでしょうか?そうやって僕は、ひいおばあちゃんの墓参りという、大役を無事成し遂げたのでした。

 そして僕はこう思いました。まず僕の家族に関しては、数年前に僕のひいおばあちゃんから、僕のことをずっと見守っているよというメッセージが来て、僕は僕なりにそれに答え、先日ついにそのひいおばあちゃんの墓参りをすることができたのですが、なんでこんなに時間がかかったかというと、僕の母がキリスト教徒だったことと、無関係ではないというか、大いに関係があると思っています。

 母がキリスト教徒なので、例えば葬式とか墓参りとかの、仏教色の強い催しに関しては、僕はずっと意図的に遠ざけられていましたし、僕もそれを現代的で合理的な、スマートな生き方だとずっと信じていました。別に仏教や神道がとても大事だとかは、今でも思っていませんが、日本人の大半は、仏教とか神道にかなり従って生きてきているので、僕たちのご先祖さまたちの大半は、仏教とか神道に、悪く言えば、「支配」されているわけです。

 そこにキリスト教とか、カルトの新興宗教とかが侵入してきて、僕たちと、ご先祖さまたちの絆をなんとか分断しようと画策しているのだと思います。

 そのことに気付けただけでも、今回の大阪と金沢の弾丸スピリチュアル旅行の成果は充分だったと思っています。

 ちなみに我が家の金沢以降の引っ越し遍歴は、まず、東京都杉並区に4年間、それから島根県松江市に4年間、それから福岡県春日市に10年間、ここまでは家族と一緒でした。それから就職して一人で暮らすようになり、東京都江東区に5年間、そして福岡に戻って、福岡市で約15年間、仕事で愛媛県松山市に引っ越して約2年間、そしてまた福岡市に戻って、途中北九州芦屋町を挟んで約5年間、それから熊本県熊本市に引っ越して約7年間、僕は今年で56歳になります。

 つい昨年くらいまでは母は意識もしっかりしており、ゴリゴリのキリスト教徒でした。しかし数年前からは肉体も精神も徐々に衰え始め、2022年の8月に亡くなりました。2021年から老人ホームのような施設にお世話になっていたのですが、ホームに入所する時に、父から、「聖書とか讃美歌の本なんかは持って行くのか?」と聞かれ、「ああ、あれはもういい」と、遂に信仰を手放したのです。本当に長かった、僕が生まれる前の昭和24年から、70年以上、母はキリスト教徒だったのです。

 その間に色々あって、鹿児島の父の両親をうちに引き取ることになり、父方の祖父母は2人とも、僕の福岡の実家にいる時に亡くなっています。その時も母は自分の通っている教会で葬式をあげ、祖父母の遺骨は今も教会の共同墓地に安置されています。

 ずっと鹿児島の片田舎で、頑迷に仏教を信じて生きて来た祖父母が、突然異教徒の亡霊たちに囲まれて、どんなに不自由で、肩身の狭い思いをしていることか、強制収容所に収容されているようなものなのでしょうか?

生まれてからずっと、キリスト教に間接的に支配されてきた僕も、母が弱って来て、ついにある程度の精神の自由を得て、やっと2021年に金沢の実家の墓所の墓参りに行くことができました。これが「ひいおばあちゃんの話、墓参り編」です。そして、ここからは「ひいおばあちゃんの話 地獄と聖天様編」になります。

 僕の奥さんの妹、つまり僕の義妹に魔物が憑いているということがちかみつさんの鑑定でわかり、その魔物を祓うことが紀川さんの試練ですよと言われて、どうしたものかと色々考えて、ネットで知った、聖天様という密教の神様を、ご夫婦で信仰されている聖夫婦さんという方に相談しました。

 そしたら「義妹さんの魔物については、当方が鑑定した案件ではありませんので、なんともコメントできません」というご返事だったので、それで改めて聖天様に鑑定していただいたのだが、やはり義妹には魔物が憑いているという結果でした。

 それならばもう一度ちかみつさんに相談した方が早いと思い、徳島のちかみつさんの鑑定会を予約しました。その時は40分を2コマ、80分の鑑定をお願いしたのだが、時間の大部分はちかみつさんに聖天様を召喚していただき、聖天様との一問一答に費やしました。

 その後、鑑定時間が少し余り、聖天様にお帰りいただいたあとに、ちかみつさんから「他に聞きたいこととか、誰か呼びたい人とかはいないんですか?」と言われ、私は義妹の魔物問題を解決することしか考えていなかったので、どうしようかと考えてしまいました。

 それでちょっとちかみつさんと世間話的な話をしていたのですが、そういえば月末の9月25日に大阪アワーズルームのちかみつさんのイベントに参加する予定なのですが、その時についでに金沢まで足を延ばして、ひいおばあちゃんのお墓参りに行く予定にしていて、その時に金沢在住の従姉妹に会う約束をしていたのですが、その従姉妹の娘さんは2人とも看護師さんで、私が(魔物の策略で)コロナ陽性になってしまったので、会うことは自粛することになったんですよ、というような話をしていて、「その時にお墓参りする予定のひいおばあちゃんっていうのは、江戸時代くらいの時代の人のようで、うちの家族は誰もお会いしたことがないんですよ」というような話になりました。

 それでちかみつさんに「今回は従姉妹は同席できなくなりましたが、
私は月末にお墓参りに行くと伝えていただけますか?」と、軽い気持ちで話したら事態はそんな簡単なことではありませんでした。

 ちかみつさんから「ひいおばあちゃんのお名前はわかりますか?」と言われたので、「苗字が山崎だったということはわかるんですが、下の名前はわからないんです。」と答えると、「それではお母さま方のひいおばあちゃんで、山崎さんという方なのですね」と霊視をしてくださりました。

 ちかみつさんは霊視をする時に、前屈みになって、屈伸運動のような動きをされて、通常は2.3回、つま先のあたりをちょんちょんと触るような動きをすれば、大体のことはわかるんですが、今回の霊視にはかなりの時間がかかりました。

 そして一度中断して「おばあさまは暗い世界にいらっしゃるようです」と言われ「それでもお呼びしますか?」と確認されました。「はい、お願いします」と言うと、また屈伸運動のような動きに戻り、これもかなり長く続きました。

 そして「今ここに山崎クミコさんかキミコさんというお名前の女性の方が来られました。ずっと山の中を歩かれていたようです」と言われました。そして僕のことは「まったく知らない」とおっしゃっておられるようでした。「山の中で探し物をしていたのに、何で突然このようなところに呼び出したのじゃ?」と、状況が把握できていないようでした。

「なんかちょっと聞いてた話と違うなあ」と思いましたが、「何を探していらっしゃったのですか?」と聞くと「うーん、何って、わしの帰る場所じゃよ」とおっしゃいました。どうもひいおばあさんはお亡くなりになってから、ずっと自分の帰る場所を探して(おそらく地獄の)山の中を歩き続けておられたようです。「ここはとても寒い」とおっしゃっておられました。

「今度お墓参りに行ってお墓を綺麗に掃除しておきますので、そちらに帰っていただけますか?」と言うと、「お墓とはどういうことじゃ、わしはここにこうして生きておるではないか」というお答えでした。

 ちかみつさんがそれを言いながら、思わず口元が笑ってしまっていたので、僕もつられて、つい笑ってしまったら、「何を笑っておる、笑うようなことではないぞ」と、厳しい口調で怒られました。

 ひいおばあちゃんの正確な年齢はわかりませんが、僕の母は昭和7年生まれですので、その母の両親、僕のおじいちゃんとおばあちゃんは明治の生まれだったはずです。そのおじいちゃんを45歳の時に生んでいるんですから、ひいおばあちゃんは生まれは江戸時代で、亡くなったのが明治になってからだとしても、亡くなってから軽く100年以上は経っているはずです。

 それなのに自分が死んだということも認識できないまま、100年以上もずっと山の中を歩き続けていたのかと、僕は気が遠くなるような思いがしました。ひいおばあちゃんは「なぜここに来ることになったのか、誰かがここに連れて来たのだったかもわからない、自分の意志で選んで来たのではなかったような気がする」とおっしゃっていました。

 何があったのか、そんなことは今となってはもうどうでもいいことです。もう歩き続けるのはやめてください、寒いのなら温まってくださいと、心から思いました。その僕の気持ちが通じたのか、ひいおばあちゃんは、「ではお前についていってみるかな?」とおっしゃったそうです。「紀川さん、熊本まで一緒に帰るっておっしゃってますよ」と、またちかみつさんが半笑いを止められないまま言われましたが、僕にとっては本当に笑いごとではありませんでした。

 帰り道、見る人が見れば、僕は禰豆子を背負った炭治郎のような状態だったわけなんですよ。聖天様とは直接話をするし、今週は「鬼滅の刃」強調週間ですかと思いました。

 と、こんなことがあって、ちかみつさんの鑑定は18時頃に終了したのですが、終わった時には僕はヘトヘトでした。なにしろ朝5時に熊本を出てからノンストップだったうえに、かなりハードな経験をしているんですから。

 鑑定会場と同じホテルに部屋をとっていたので、まず夕食を食べようと思ってレストランに行ったのですが、夕食は19時からですと言われました。それで部屋に戻って、あと1時間くらいあるから、少しでもいいから寝ておこうとベッドに横になったのですが、なぜかすぐに身体が起き上がってしまい、フラフラの身体で地下にある大浴場に向かいました。

 そして広い湯舟に浸かって「どうですか、おばあちゃん、暖かいですか?」と思わずひとり言を言ってしまったのです。湯舟の隅にはひいおばあちゃんが無言で浸かっているような気がしていました。

 夕食を食べる時も一品一品「これはポテトサラダです。おばあちゃんの時代にはなかったかもしれませんね」などと食べるものをブツブツと小声で解説しながら食べました。次の朝も「納豆です。納豆お好きですか?」などと
ひとり言を言いながら食べていました。

 そして徳島駅でお土産を買う時にも、「何か食べたいものがあったら教えてください」と言うと、棚の和菓子の和三盆の落雁に目が停まりました。「よりによって落雁ですか、僕、落雁は普段から食べないんです」と、申し訳ないけどスルーさせてもらって、「熊本のうちの近所においしい最中があるので、それでどうですか?」とひいおばあちゃんのご機嫌を取りました。

 熊本の家に帰ってこれらの報告を奥さんにすると、また奥さんが独特の想像力を働かせて、「今からあなたが対応することによって、ひいおばあちゃんの心がだんだんほぐれて行って、完全にほぐれた時には霊体には時間も空間もないから、その時点からさかのぼって、数年前のあなたに守護霊として付くのよ、それを河内さんが見て、『あなたはひいおばあちゃんに可愛がられている』って言ってくるのよ」と、わけのわからないトンチンカンな解釈をして、勝手に辻褄を合わせていました。

 それから数日間、ひいおばあちゃんは、熊本の僕の家にいらっしゃったようです。僕には霊と会話する能力はありませんが、こちらから一方的に話しかけていました。

 ある日お昼ご飯を買いに近所のスーパーに行ったのですが、そこに安いうなぎ弁当が売っていて、「お年寄りはこんな食べ物が好きかな?」と思って、それを買って帰りました。そして、「おばあちゃん、うなぎはお好きですか?」と言って自分で食べました。

 するとその日の夕方、なぜかちゃんとしたうなぎ屋のうなぎが無性に食べたくなって、仕事中の奥さんに電話して、「今日、うなぎ屋にうなぎを食べに行こうか?」と言って銀行でお金を降ろして待っていました。

 結局その時は奥さんの都合でうなぎ屋には行かなかったのですが、そんな感じでひいおばあちゃんとはなんとなくコミュニケーションをとっていました。

 ところがある日を境にぱったりとひいおばあちゃんの気配が無くなったのです。ちょうどその頃、義妹の魔物を祓うため、ほぼ毎日聖天様をお呼びして、わからないなりにも日常の雑談をしていたのですが、その時にいらっしゃっている聖天様を見て、「この方についていけば霊界に上がれる」と思って、一緒に昇って行ったのではないかと思いました。

 それから半年くらいして、奥さんと一緒に金沢にお墓参りに行きました。野田山というのは小高い山全体が墓地になっていて、その山のふもとに生協のスーパーがあります。そのスーパーでお花やお線香を買って、お墓参りをするんですが、そのスーパーの総菜売り場にどじょうのかば焼きが売っていました。

 どじょうのかば焼きは金沢の名物料理らしく、その日に行った居酒屋にもありました。「ああ、ひいおばあちゃんはこのどじょうのかば焼きが好きだったから、うなぎ弁当に過剰に反応していたのか」とわかりました。

 ちなみに最初の墓参りの時に、従姉妹から、松太郎おじいちゃんは実の姉の養子になったという話を聞いたのですが、実はその話は間違っていて、その後家系図が見つかってわかったのですが、僕のおじいちゃん、越村松太郎さんは、富山の山崎家から越村家に養子に入ったのですが、養母は越村ソトさんという方でした。

 そして山崎松太郎さんにも山崎ソトさんという姉がいて、越村ソトさんと山崎ソトさんは別人なのですが、名前が同じソトなので、後の人が、松太郎さんは越村家に嫁いだ実の姉の養子になった、という勘違いが起きていたようです。




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