ドライブ・マイ・カー
昨日「ドライブ・マイ・カー」の
DVDをレンタルして、新作なので、
1泊2日で600円くらいだったのだが、
借りた直後に13時くらいから見て、
うちの奥さんが仕事から帰ってきてから、
20時頃から2回目を見ました。
約3時間の映画なので、
2回で6時間くらいかかり、
一日分の仕事をしたくらいの分量でした。
それで僕としては
細部の疑問点を2回連続で見ることにより、
よりはっきりと確認できたというか、
ストーリー自体は単純なものなので、
構成的に難解な部分はなく、
演出面の細部をあらためて確認できました。
そして2回目はうちの奥さんが、
一緒に見たことによって
奥さん独自の見解も加わり、
自分なりの暫定的評価が固まった。
僕なりの評価としては
この映画の演出におけるベクトルはほぼ完璧、
場面場面で登場人物の心のベクトルが、
どちらの方向を向いているかは、
ほぼ疑問点なく統一できていた。
それは映画制作の基本姿勢というか、
マナーの問題のようなもので、
そうやって基本がちゃんとしている映画なら、
あとは作者(監督)の意図の方向性というか、
倫理観というか、言うなれば、
言いたいことは何なのかという点が、
僕の好みと一致するかどうかによって、
僕にとってのこの映画の評価が、
決まるということになる。
この映画に関してはウィキペディアなどによる
評価の中に、ロベール・ブレッソン、
ジャン・ルノワール、ジョン・カサヴェテスなど、
僕の好きな監督の名が並んでおり、
さらに蓮見重彦も濱口監督のことを
高く評価しているという文言もあったので、
もしかしたら成瀬巳喜男の作品と比べてどうか、
という評価にまで関わってくるかもしれないと思い、
かなりの期待が高まっていたというのも事実でした。
濱口監督は1978年生まれなので、
まだ40歳そこそこの監督、
僕より12歳も年下だ。
成瀬巳喜男が好きと公言している、
行定勲監督が1968年生まれで、
ほぼ同年代で熊本出身なので、
少し気になっているわりに
実は作品を一本も見たことがなく、
見ずして論外という位置に置かれているのだが、
こういうのは本当に縁というか、
タイミングの問題に過ぎない。
こういう巡り合わせこそ、
一番の要素なのかもしれないけど。
というわけで「ドライブ・マイ・カー」だが、
この作品には僕にとってマイナスとなる要素が、
すでに決定的に2点も存在している。
まず1点目は原作が村上春樹であるという点、
そして2点目はストーリーが
演劇の上演を主軸としているという点だ。
村上春樹については、僕は大学で、
現代日本文学を専攻しており、
まさに大学生の頃に最も話題となっていた作家が、
村上春樹と吉本ばななだったのだ。
ちょうど村上春樹の「ノルウェイの森」が、
大ベストセラーとなり、
吉本ばななの「キッチン」や「つぐみ」が、
映画になったりしていた頃だった。
そのころの村上春樹や吉本ばななが、
大学生や大学教授にとって、
どのように評価されていたかというと、
あくまでも「流行りもの」、「際物」、「色物」という扱いで、
正式な本流の「日本文学」としては
扱われてはいなかった。
ちなみに僕の卒論対象作家は太宰治で、
ゼミの担当教授の専門は椎名麟三と遠藤周作だった。
今では村上春樹は毎年のように
ノーベル賞の候補になるくらいの作家で、
いっぱしの文学者として数えられるような存在だが、
僕にとってのイメージは少し違う。
というか、偏見を持っているわけではないが、
村上春樹の文章を読んで、
いいと思ったことは一度もない。
それともうひとつ、演劇についてだが、
うちの奥さんは長い間、
アマチュアの劇団と関わりがあり、
僕も映画制作活動の過程で、
演劇関係の人との接点は多少あり、
どちらにとっても劇団や劇団員に対するイメージは
良くないというかすこぶる悪い。
この2つの悪いイメージがあっての
「ドライブ・マイ・カー」の評価になるので
その点をふまえておいていただきたい。
まず、好感を持った点から
配役において、主要な登場人物は、
西島秀俊と岡田将生と三浦透子なのだが、
この3人がそれぞれに素晴らしい。
西島秀俊は「きのう何食べた?」で、
岡田将生は「さんかく窓の外側は夜」で、
僕の好きなマンガの登場人物を演じており、
すでに好感を持っていたのだが、
三浦透子というのはこの映画が初見だった。
「さがす」に出ていた伊東蒼や、最近では
伊藤沙莉なんかが僕にとってはこのカテゴリーだが、
あまり美人女優ではないが、
強烈な存在感を主張する、
「芯の強い」的なキャラクターで、
物語終盤でとても重要な役割を果たす。
この3人の登場人物それぞれに
あらかじめ感情移入できるように
自分の先入観が用意されていたことが、
この映画を受け入れることができた、
最大の要因であっただろう。
次にあまり共感できなかったというか、
この映画の世界観を受け入れるのを
最大に拒んだ要素が、「演劇」という要素だった。
これは現在演劇をやっている、
あるいは演劇に過剰に共感している人のことを
ディスることになりかねないので、
詳細は書くことができないのだが、
僕もうちの奥さんも演劇関係者に対しては
苦い思い出がたくさんあり過ぎる。
その演劇をやっている人たちの話かと思うと
ちょっと心が萎える部分があるのだ。
ただひとつ、延々と続く
演劇のリハーサルというか、立ち稽古の前の、
脚本読みのシーンがあるのだが、
このリハーサルのやり方は、
ジャン・ルノワールが自伝の中で
「イタリア式本読み」と呼んでいる手法で、
なるべく感情を込めず、
身振り手振りもなしで、
ただセリフを棒読みするリハーサルのことだ。
このシーンを見て
「あ、ルノワールのあれだ」と
思うことができたので、
退屈でやや反感を感じる演劇がらみのシーンでも、
すんなりと受け入れることができた。
もうひとつ、総尺が長過ぎた。
僕にとっての映画の適尺は110分程度で、
できれば90分くらいにまとまっていてもらいたい。
この映画は179分くらいで、ちょっと長過ぎる。
僕にとっての最高の映画のひとつ、
ブレッソンの「ラルジャン」は85分くらいの作品だ。
というわけで、濱口竜介の
「ドライブ・マイ・カー」という映画、
良かったんだけど、
ロベール・ブレッソンの雰囲気は
見出せなかったうえに、
成瀬巳喜男の雰囲気なんかとはほど遠い映画でした。