08-僕とヒロシマ
2013年5月26日に、知人に誘われて、日帰りで広島に行って来た。知人は福島の原発事故以来、定期的に広島の反核デモに参加していたのだが、やはりそんな運動もだんだん収束しつつあるようで、今回のデモは中止になったので、予約していた高速バスのチケットがもったいないから、一緒にお好み焼きでも食べに行きましょう、と誘われたのだ。
前日の夜、ふと思い出したのだが、僕は広島に行くのは5回目であった。1回目は35年程前の、小学校の修学旅行。ちなみにその頃僕は島根県の小学校に通っていた。原爆資料館のジオラマの前で同級生が恐怖の悲鳴をあげていたのを思い出す。バスの中でガイドさんが「原爆許すまじ」という歌を唄ってくれたのだが、その歌詞のサビの部分に「ああ許すまじ原爆を~」という部分があり、僕はもちろん、「許すまじ」という言葉も知っていたが、いきなりこんな古臭い言い回しは歌詞には使わないのでは?と思い、もしかしたら「許す街」なのかなと思って、それでは意味が合わないなと思った。そして更に「三度(みたび)許すまじ」という歌詞があって、これが「三度許す街」では、やはり意味が合わないよなと思ったが、でも何の説明もなしにいきなり「許すまじ」とか唄うかな?と、歌詞に戸惑う小学生であった。
2回目は中学校の修学旅行。中学になって福岡に引っ越したのだが、中学校の修学旅行先も広島だった。そしてなんと、平和公園で制服に鳩のフンが落ちてきたのだ。あの平和の象徴の鳩のフンが。バスガイドさんに見つけられ、「うわっ、汚な!!」と言われた。元も子もない感じだった。
3回目はバブルの頃、ある製薬会社の商品を紹介するビデオのディレクターをしていて、広島大学の皮膚科の先生のインタビューを撮影しに行った。
4回目はそれから10年くらい経って、広島市内で行われている下水道工事の様子を記録するビデオのディレクターとして、広島市の地下に潜って撮影していた。その時のことである。
一度地下に潜ると2時間や3時間は上がって来れない。地下には約90センチの高さしかない下水管が、数百メートル先まで続いていて、台車のようなものに這いつくばって乗って、自分で足で蹴って、最先端の掘っているところまで行く。ちなみに下水管は新品なので臭くはない。
季節は夏で、地下は狭く、息苦しく、僕は喉の渇きを感じていた。午前中の撮影を終え、地上の現場事務所に戻ると、そこにウォーターサーバーが置いてあった。ウォーターサーバーは、今でこそ一般の家庭にも置かれることが多くなったが、その頃は建築現場の事務所のような、仮設で水の出ないところでしか見ることはなく、僕は見るのは初めてだった。自分用の紙コップを用意してもらって、冷えた水を飲んだが、それがとてもおいしかった。
昼休みが終わって、もう一度地下に潜ることになり、僕はトイレに行ったが、その時事務所の前を通って、ふと、もう一杯水を飲んでおこうと思い、ウォーターサーバーの所まで行った。しかし、もう紙コップは片づけられていて無かった。僕は地下での喉の渇きを思い出し、少しでも水分を補給しておこうと思って、給水口のあたりに顔を近づけて、出て来る水を直接飲もうとした。
その時僕は、間違って赤い蛇口を押してしまい、僕の口の周りに熱湯がかかった。「熱ッ」と思って慌てて顔を引き、冷やしている暇がなかったので、そのまま地下に潜ったのだが、地下で口の周りがヒリヒリし始めた。今は赤い蛇口は簡単には押せない構造になっているが、その頃は簡単に熱湯を出すことができたのだ。
撮影はその日で終了だったので、夜には福岡に帰ったのだが、帰りの車の中でも口の周りがヒリヒリしてジンジン痛んだ。家に帰って鏡で見てみると、熱湯がかかったあたりが真っ赤になっていた。数日後、そのあたりの皮がむけはじめたが、口の周りだったので包帯を巻くこともできず、そのまま仕事に行くしかなかった。
撮影や編集の現場で、「どうしたんですか?」と聞かれたが、その度にウォーターサーバーの一件を、面白おかしく話していた。火傷の跡は軽いケロイドのようになって、何回か皮がむけ、跡が消えるまでは一年以上かかった。しかし、それから10年以上経っているので、そのこともすっかり忘れていたのだが、この5回目の訪問をきっかけに、ふと思い出したのだ。
その頃はまったく思いつきもしなかったのだが、広島でやたら喉が渇いて、熱湯がかかって軽いケロイド状態?そういえば広島って、あの「ヒロシマ」じゃないか、もしかしたらこれって・・・・と思った。
下水道工事の現場は、正確な場所は覚えていないが、広島市の中心部、爆心地の近くだった。今回は広島での滞在時間が7時間くらいあったので、とりあえず宮島に行ってみたが、それでも帰りのバスまで時間が余ったので、バスセンターの近くの原爆ドームにも行ってみた。
その時原爆ドームは大規模な補修工事中のようで、ドームの周りには足場が組まれていた。夕暮れ時だったが、原爆ドームの近くのベンチには、なぜか外国人が多く座っていた。
原爆ドームの周辺には、いくつかの石碑や、説明のボードが建てられている。原爆ドームの周りをグルッと周りながら、解説の文章を読んでいたら、涙が込み上げてきた。核兵器と原発は違うのかもしれないが、やはり戦争や原爆の悲惨さは忘れられつつあると思った。原爆ドームは旧広島県産業奨励館の残骸である・・・・・
原爆ドームのもとの建物は、チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により、大正4年(1915年)広島県物産陳列館として完成・・・・・戦争末期の昭和19年(1944年)からは内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社など官公庁等の事務所として使用されました。・・・・昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機により人類史上初の原子爆弾が投下され・・・・・・産業奨励館は爆心地から約160メートルの至近距離で被爆し、爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼しました。
当時この建物の中にいた内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社・日本木材株式会社広島支社、広島船舶木材株式会社などの職員は全員即死しました。・・・・・・戦後、被爆した原爆ドームについては、保存の考えに賛成する人たちばかりではありませんでした。原爆ドームが被爆の悲惨な思い出につながることから、取り壊しを望む声もあり、・・・・・
保存運動が本格化するきっかけと言われているのは、1歳の時に被爆し、15年後白血病で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さんが残した日記でした。「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世にうったえかけてくれるだろう・・・」と記されたヒロ子さんの日記に心を打たれた人々によって原爆ドーム保存への運動がはじめられました。・・・・・この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため、国の内外の平和を願う多数の人々の寄附によって補強工事を施しこれを永久に保存する・・・・・昭和42年8月6日 広島市
この5回目の広島訪問から数年後の2018年頃、僕はあるお役所に関わる仕事をしていて、その庁舎に毎日通っていた。お役所が開く9時からその庁舎に行き、夕方まで作業していたのだが、時々9時15分前くらいに庁舎に着いて、始業時間まで一階のロビーで待つことがあった。ある日、やはり一階のロビーで始業の放送を待っていると、ふとロビーに張り出してあるポスターに目が留まった。たくさんの人の姓名が書かれたポスターで、何のポスターだろうかと近くに行って見たら、「広島の原爆で亡くなった方で、まだ身元が判明していない人が・・・人いらっしゃいます。何か手掛かりを御存知の方は、広島市役所まで」というポスターで、そこに〇〇〇〇(8歳)と名前が書いてあった。きっと家族全員が一瞬にして原爆で亡くなって、身元不明者になってしまった子なのだろう。
こんな風に僕とヒロシマには不思議な関りがある。少し前にこうの史代の
「この世界の片隅に」のアニメが話題になったが、こうの史世はこの作品の前に「夕凪の街・桜の国」というマンガでも、ヒロシマのことを取り上げている。こうの史代は僕とそんなに変わらない年齢、まだ50代である。そんな戦争を知らない世代の人が、ちゃんと戦争や原爆の悲劇について伝えようとしてくれていることにいつも感動している。