映画館で思うこと
その頃は東京で暮らしていて、
時はバブルが崩壊する直前、
まだ小さな名画座が、
東京のあちこちに残っていて、
僕はそういうところに通って、
映画館の暗闇で、
自分の孤独をひっそり育てていた。
一番通った映画館は銀座の並木座。
ここでは毎年、二週間くらいかけて、
成瀬己喜男の作品が上映されていた。
僕は毎年通って、
当時は映画館でしか見られなかった、
成瀬己喜男の映画を何回も見た。
成瀬己喜男は昭和30年代が
人気とキャリアのピークだった作家で、
観客にはその頃の日本映画の黄金時代を支えた、
高齢の方も多かった。
僕にとっては映画を見るマナーが、
ちょっと違う人も多く、正直言って、
勘にさわるマナーの方も多かった。
成瀬己喜男の
「おかあさん」という映画を見ている時、
僕の近くに座っている人が、
扇であおぎながら見ていて、
それは別にいいのだが、
あおぐたびに扇が服に当たって、
パサッ、パサッと音がしていた。
僕はその音が気になって、
音が気になるというより、
そういう音をたてながら、
映画を見てても平気という、
その人の無神経さが気になって、
よっぽど注意しようかと思った。
確かに並木座は
快適な空調が整っている、
というような映画館ではなかったが、
せめて扇の音が出ないようにあおげよ、
と、僕はイライラしていた。
「おかあさん」というのは、
戦後の大変な時、
下町のクリーニング屋のおかあさんが、
戦争未亡人の妹の子供をあずかって、
自分のこども二人と一緒に育てていて、
おとうさんが病気で亡くなったり、
大変な思いをするのだが、
そんな中、下の娘が、
親戚の家にもらわれていくことになり、
最後に家族で浅草に遊びに行って、
もらわれていく娘が、
中華料理屋のチャーハンを
「かあちゃん、おいしいね」と言うのだが、
おかあさんは胸がいっぱいで食べられず、
それを子供たちに食べさせる、
という感動的なシーンがあり、
次の日、親戚の人が迎えにきて、
ついに娘と別れるというシーンで、
気が付いたら、扇の音は止まっていて、
そのオッサンのあたりから、
スン、スンという、
鼻をすするような音が聞こえてきたのである。
オッサン、泣いているのか?
さっきまでパサパサ、パサパサと、
無神経に扇を使っていたオッサンが、
このお涙頂戴のシーンで、
しっかりやられて泣いているご様子。
扇を持ち歩いているところからも、
結構な年齢のオッサンであろう。
そのオッサンがこんなシーンを見て泣いている。
きっと映画館の暗闇の中だからこそ、
こういうことが起きているんだ。
それにしても成瀬己喜男すげえ、
しっかりとオッサンの心をつかんでる。
と、成瀬己喜男の偉大さをあらためて確認した。
僕はこの並木座の成瀬特集に、
3年か4年連続で通い、
計20本くらいの成瀬作品を、
少なくとも3回ずつは見ているのだが、
中でも一番感動したのが、
この「おかあさん」である。
おかあさん役は田中絹代、
長女役は香川京子。
成瀬の作品の中で
一番有名な作品は「浮雲」で、
一番有名な出演女優は
高峰秀子なのですが、
この作品には出ていないので、
それでいまいち有名ではないのかもしれません。
初めてこの映画を見た時は、
感動してものすごく泣いてしまい、
大量の鼻水というか、
鼻汁がデトックスして、
チリ紙を持っていなかったので、
鼻をかむことができず、
呼吸困難で苦しかったのを覚えています。
並木座は二本立てで、
その上映はその日で最後の日だったので、
ぜひもう一度見ておきたいと思って、
二本目の映画を見て、
そのまま座席に座り続け、
もう一度「おかあさん」を見て、
すっかり暗くなってから家に帰りました。
あまりの感動に
激しい頭痛がしていました。
これまで、同じ映画を
一日のうちに二回見たのは、
アレハンドロ・ホドロフスキーの
「エル・トポ」と、
この成瀬己喜男の「おかあさん」だけです。
「エル・トポ」は福岡で、有志が、
自主上映のような形で上映していたのを、
やはり二回続けて見ました。
今では「エル・トポ」は、
TSUTAYAの棚にも並んでいますが、
「おかあさん」はまだDVD化もされていません。
後に福岡に帰ってきた時、
どうしても「おかあさん」や、
その他の成瀬作品が見たくて、
当時VHSソフトを通販していた、
キネマ倶楽部というところから、
通販で購入しました。
なんと映画一本が9800円、
しかも注文は5本以上からという、
僕にとっては破格の高値でした。
それでも僕は
「成瀬映画という文化遺産を
福岡に伝えるのが自分の使命」という感じで、
成瀬映画ばかりを5本購入し、映画好きの友達に、
自由に貸し出ししますと広言していましたが、
結局見てくれたのは数人に過ぎませんでした。
後に専門学校の講師になって、
生徒にも「おかあさん」を見せましたが、
「白黒の映画は初めて見ました」とか、
「あのおばさん(妹)はおかあさんより
いい暮らしをしているのに、
子供をほったらかしにして、
ひどいと思いました」などと、
的外れな感想ばかりでがっかりしました。
中北千枝子演じるおかあさんの妹は、
戦争未亡人で、子供を姉に預けて、
美容室で住み込みで働いており、
たまの休みに子供に会いに来ていたのですが、
クリーニング屋のおかあさんより、
小奇麗な服装をしているので、
それでお金持ちだと勘違いしたようです。
ここまで日本の戦後という状況を
わかっていない子供たちが、
わかったような口をきく世の中になっているのかと、
暗澹たる気持ちになりました。
僕は後にそんなわかっていない子供たちと、
一緒に仕事をしなければならなかったのです。
そのような色々な絶望や挫折を乗り越え、
今は熊本でのんびりと暮らしています。
と言えるほどの余裕のある状態ではありませんが。
成瀬さん、そして先達の、
優れた映画を残してきた監督のみなさん、
僕はけしてあなたたちの苦労を忘れたりはしません。