34-Tさんの話
前回のイヤマさんの一件があったのと同じ頃のことだが、当時の奥さんが、入院していた友達が退院したので、見舞いに行きたいと言った。その友達の家に行くと、入院先で知り合ったという、Tさんという女性も見舞いに来ていた。
そのTさんが、ちょっと変わった人で、「あの、今度うちにも遊びに来てください。でも、うち、すごく散らかっているんですけど・・・」と言うのだが、それを、2時間くらいの間に、4回か5回くらい、しかも、毎回初めて話すように、壊れたテープレコーダーのように、何回も同じことを同じ口調で言うのである。僕はそのたびに「いずれお邪魔しますよ、僕は棚を作ったりするのが得意なので、片付けのお手伝いをしますよ」と答えていた。
帰りの車の中で、元奥さんは大喜びで、Tさんって面白い人だよね、と、Tさんのモノマネをしたりしていたのだが、僕はそういう「面白い」話ではないと思っていた。これは後になってわかったことなのだが、元奥さんの友達とTさんが知り合った病院というのは精神病院だったのである。
後日、Tさんの家に行って驚いたのだが、片付いていないというようなレベルではなかった。かつては妹さんと一緒に暮らしていたらしく、洋服ダンスも食器棚も、ほとんどの家具が2つずつあり、しかもすべて中身はカラッポで、食器は床に置いてあり、服はひとつの部屋に投げ込んであった。
カーテンもなく、蛍光灯ははずれかけていて、天井からブラブラぶらさがっていた。この部屋の混沌がそのままTさんの頭の混沌のような気がした。「とりあえず片付けましょうか」と言って、それから一週間くらい、僕はTさんの部屋に通って片付けを手伝った。
Tさんは片付けをしながら色んな話をするのだが、おそらくその話のほとんどは妄想で、支離滅裂だった。ただ、Tさんが大変孤独なのだということだけはよくわかった。それらの話を聞き続けていると、だんだんこちらの頭が混乱してきて、僕はTさんの話を聞くのが苦痛になってきた。そして、早くこの「作業」が終わらないかと願っていた。
一週間ほどして、ついに片付けはほぼ終了し、あとはカーテンを買えば終わりというところまで来た。しかしTさんは、この「楽しい作業」を終わりにしたくなかったようで、カーテンを買うお金がないと言い出した。僕は一日でも早く終わらせたかったので、「それならばカーテンはお金ができたら買って自分でつけてください。」と言って帰ろうとした。
するとTさんは、「ちょっと待ってください」と言って、別室でなにやら電話をしているようだったが、戻ってくると「母がお金を振り込んでくれるのでカーテンを買いに行けます」と言うのである。実はTさんはお金持ちのお嬢さんだった。しかたがないのでTさんを車に乗せてホームセンターまで行き、カーテンを買って、マンションまで送り届けた。
その次の日には、Tさんの実家のある飯塚まで同行した。Tさんが学生時代に乗っていた車が、実家に置きっぱなしでバッテリーがあがっていると思うと言ったのだ。その車のバッテリーはあがっておらず、一発で始動した。Tさんのお母さんが充電器で充電してくれていたのだ。
飯塚から戻り、やっと福岡市のTさんのマンションの近くまで来て、あとはマンションの玄関でTさんを降ろしたら、もう僕の「作業」は終わりだと思っていたのだが、Tさんのマンションの直前の信号のあたりで、なぜか急に腕と頭が重くなり、ハンドルもうまく回せないくらいの状態になってしまった。
なんと言えばいいのだろうか、それこそ、目に見えない巨人が、僕を押し潰そうとしているような感じだった。なんとかTさんのマンションの前までたどり着いたが、車を止めたとたん、僕はそのまままったく動けなくなり、「ごめん、ちょっとだけ座席を倒して、休ませて」と言うと、Tさんは「いいですよ」と無表情で言った。
僕はなんとか座席を倒して横になったが、ぬりかべのようなものに上からのしかかられているようでまったく身動きできなかった。自分に何が起こっているんだろうかと不思議だった。ただ、今自分の身に起こっていることが
Tさんに関係があるということだけはわかったので、Tさんを見上げてみると、Tさんは身動きひとつせず、無表情のままじっと前方を見ていた。
その態度は、何かを知っているようにしか見えなかった。普通、一緒にいる人がこんな状態になったら「大丈夫ですか」と声をかけるとか、どうにかしようとして車を降りるとか、何がしかの行動に出るはずではないのか?
何を待っているのであろうか?僕はイヤマさんの時のことを思い出して、「今からちょっとそのへんをドライブしましょうか」と言ってみた。すると、スッと身体が軽くなり、起き上がることができたのである。そして、マンションの周りをグルッと一周して、僕はやっとTさんから解放された。身体は嘘のように軽くなっていて、僕は何が起きたのか、本当にわからなかった。
しかし、色々苦労はしたが、とにかく当初の目的である、Tさんの部屋を片付けるということは成し遂げたので、結果良ければすべて良しということで、これでいいだろうと思っていた。ところが、驚くべき結末が待っていた。それから一カ月くらい経って、Tさんから電話があったのだが、「また部屋がメチャメチャになってしまったので片付けに来てくれませんか」と言われたのだ。
僕の苦労は何の成果もあげず、また振り出しに戻ってしまったのである。
さすがにこの時ばかりは僕も腹が立ち、かなり強い口調で断ってしまった。もちろん僕の苦労を水の泡にされたことに腹が立ったというのもあるが、それよりも、もうTさんとは関わりたくなかったのだ。Tさんは「紀川さんから冷たくされた」と、友達に告げ口したらしかったが、もう何を言われても、どうでもよかった。Tさんのことがあって、僕はますます、世の中には、
目に見えない強い力を出す人がいるらしいと考えるようになった。
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