『Cloud クラウド』 映画に始まり、映画に終わる-「ハッピーエンドじゃなきゃヤダ!」第1回(第三批評 常森裕介)
映画の登場人物の行動を理解する時、ほとんどの場合、現実に生きる人間の行動原理を当てはめて理解した気になってしまう。本作でいえば、工場でくすぶっていた主人公が、転売を通じて金持ちになってやろうとしている(に違いない)といった理解である。
だが、よく主人公のセリフを聴いてみると「俺は転売で金持ちになってやる!だから今の職場を辞めてやったぜ!」とは言っていない。だが、上記のようなセリフはないから、そう思ってるか分からないのでは?などと言うと馬鹿にされる。黒沢清がそんな説明的なセリフを使うわけないだろうと(黒沢清は説明セリフ好きだが、それは措くとして)、行間を読めと。
この行間を読むというのが曲者である。結局、現実の平均的な行動原理でフィクションの隙間を塗りつぶしているだけである。
そうやって行間ばかり読んでいると、本作の終盤の展開が意味不明なものに映る。なぜなら、全く必要のない銃撃戦が延々と続き、一人を除いて、誰も逃げ出そうとしないからである。どちらも逃げれば話は終わるのに、なぜ撃ち合うのか。
それは、本作が映画だからである。彼らはみな、映画の登場人物として、映画の中で生きているのである。当然だ。本作は映画なのだから。ではなぜ観客が戸惑うかといえば、前半は、登場人物たちが現実の(観客側の)行動原理で動いているように見えたからである。しかし、途中から何かがおかしいと気づく。おかしくはない。映画の登場人物は、現実の行動原理では動かない。
終盤の銃撃戦の舞台となる廃工場は撮影スタジオであり、奥平大兼演じる助手が、松重豊を通じて接触する「組織」は映画会社である。一人だけ逃げ出そうとした岡山天音は、裏切ろうとしたからというよりも、映画の世界から飛び出そうとしたから殺されたのである。
ラストシーンで古川琴音がいかにも映画っぽい演技で、彼女はどちら側だろうと一瞬思うのだが、殺されてしまう。ただ注意すべきは、彼女が殺されたのは、彼女が映画から出ようとしたからではなく、彼女を取り戻すことで主人公が映画から出ようとしたからである。
では、本作の主人公はなぜ生き残れたのか。それは、(転売による)損得という典型的な現実の論理を、フィクションとして生きていたからである。こちらで買い取ったものが、なぜかあちらで売れるという経済のフィクションを生きていた彼は、映画の世界で生き残ることができた。
あまりにフィクショナルな夕焼けの中、本作は終わる。主人公はやっと気づく。自分は最初から映画の中で生きており、映画の中で生き残ったのだと。そしてこれ以上幸せな結末はないことに気づき、本作は幕を閉じる。