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戯曲『インポッシブル・ギャグ』をみんなで読んでみるワークショップー〈立ち上げ〉のための媒体 (第三批評|今津祥)


演出

 松原俊太郎作、山本浩貴演出の〈戯曲『インポッシブル・ギャグ』をみんなで読んでみるワークショップ〉に参加してきた。
 『インポッシブル・ギャグ』というまだ完成していない戯曲を素材にし、参加者が〈客席‐舞台に〉分かれて、〈観る-演じる〉というのがこのワークショップの趣旨だ。しかしなぜ山本浩貴は〈演出〉とクレジットされているのだろう。
 ごく一般的な認識では、演出とは戯曲が目指す〈ゴール〉を実現するために、役者に演技をつけることだと思う。ところが、〈戯曲『インポッシブル・ギャグ』をみんなで読んでみるワークショップ〉では、そもそも戯曲は完成していないのだから〈ゴール〉はない。では、〈ゴール〉を目指さない演出とはなにか、ということになってくる。
 わたしはここでひとつ、〈立ち上げ〉という言葉をその演出という言葉の横において見たい。〈立ち上げ〉とは、誰かの主体的で内面的な意志とは独立して、いつの間にかその理由もわからないままに、〈何か〉がそこに現象することと定義してみよう。結論から言うと、山本浩貴による〈演出〉とはその〈立ち上げ〉を観察し、指摘することにあると思った。ここから〈演じる立場〉と〈観る立場〉のふたつの実体験から、〈立ち上げ〉がいかにして現象したのかを考えてみたい。

演じる立場から

 私は一度だけ演じ、他は観劇していた。今回のワークショップの重要なポイントは、例えば机の周りにみんなが座って〈輪読〉するのではなく、演じる人は前に出て演じるというところで、そのことで仮想的に劇場空間(客席‐舞台)が想像的に仮設されているところだ。つまり私はその創造的な空間にて、舞台に出て演じ、客席にいて観劇した、ということになる。
 演者は戯曲を手渡されて熟読する時間も用意されないままにぶっつけ本番で戯曲を読むことを強いられた。漫才の形式を強く意識したらしいその戯曲の登場人物はたとえば〈大爆笑〉だったり〈壁〉だったり、私たち人間と同様な内面を持たないようなキャラクターだ。だから台詞を介して内面を想像し人物に自分の心情を重ね合わせる(=スタニスラフスキーシステム)といったような演じ方は拒否される。荒唐無稽で表層的な台詞をただ、意味がわからないまま読むことを強いられる。
 するとしかし不思議なことに、意味がわからなくても、端々の台詞を読むことで、いわば〈部分的なキャラ〉が随所に〈立ち上がってくる〉ように思えた。その〈立ち上がり〉は、〈内面への同一化〉を拒絶されているからこそ、生じうる余地が拡大されているように思えた。「正しく、うまく演じる」とは〈正解としての内面を持ったキャラ〉がいてこそ成り立つことだからだ。もしもそんな〈正解〉があったとしたら、発した台詞は〈正解としての内面を持ったキャラ〉によってその上手い下手が審判されることになってしまっただろう。しかしこの戯曲には〈ゴール〉はまだなく、キャラには一貫性も内面もない。そのことによって、演じている時に〈立ち上げ〉を内的には生じさせていた私は〈部分的なキャラ〉が分裂的に同居する場所になっていた、といえるかもしれない。
 そしてただ一人で読むのではなく、必ず相手がいる。相手に向かって、意味が分からない台詞を読む。そしてそれを聞く観客がいる。このことも重要だ。相手がいるということは、相手の台詞への〈応答〉として私は台詞を発することになる。つまり〈応答の態度〉が台詞に新たな意味を吹き込む。(とてもうれしかったのだけど)演じている時に笑ってくれる人がいて、そのことで、私の発した(自分では意味がわからなかったりする)台詞が、自分の外で〈立ち上がっている〉ということもわかった。戯曲の難解さは、こうした〈意味付与の交流〉を生み出している。意味は内的に持つものではなく、共演者と観客との〈応答〉によって付与される

観る立場から

 次は観劇の立場から考えてみたい。基本的に、四シーンを順繰りに別々の組み合わせで演じていくのだが、興味深いのは、同じキャラクターであっても演じる人、そしてその組み合わせによってまったく印象が異なるということだった。もしも〈ゴール〉が設定されている演出であれば、「この組み合わせがOKでこの組み合わせはNG」といった判断がなされることになるだろう。しかし今回はその〈ゴール〉は存在しない。よって、演じる人と組み合わせがもたらす〈何か〉に正解はない。だからこそ、組み合わせによって〈立ち上がるなにか〉により注視し、観ることができた。
 舞台に背の高い三十代の男性と背の小さい高齢の女性が、それぞれ〈大爆笑〉と〈ジョン〉といういわば漫才みたいなペアを演じていた。もうそれだけで面白い、〈立ち上がっている〉(しかし当人にはその〈立ち上がり〉は見えないかもしれない)。そして台詞をはなつ。背の高い人30代男性は有名な役者だったから明るくはっきりした声で台詞をいう。しかし高齢の女性は小さな声で話す。そのギャップでまたさらに〈立ち上がる何か〉があった。そしてその〈立ち上がった〉関係は、ぶっつけ本番で戯曲を読むことの性質上、安定していない。だからこそ、よりライブ感のある〈立ち上がり〉を生み出すことができるのだろう。そしてその〈立ち上がり〉には演技の上手い下手は関係がないことも興味深かった。むしろ演技をしていないように見える人の朴訥とした語りの方により強い〈立ち上がり〉を感じさせられることもしょっちゅう。(しかしこれはなぜなのか…?これは演技の本質的な謎のように思える。)
 また、こうして同じ役を別々の人が演じることで、その役自体も変容しているところが面白かった。やはり役は〈ゴール〉ではないのだ。役は、台詞という媒体を通して、演じられることを通して、自在に姿を変える。ごく一般的な演じるルートが〈役→台詞→役者〉なのだとすると、このたびのワークショップではそのルートは〈(台詞⇔役者)→役〉となっているかのようだった。
 ところでごくシンプルな感想として演じていて面白かった。その理由はおそらく、役が先行していないからなのだろうと思う。〈正解〉を気にすることなく演じることができた。このワークショップにおける役はいわば台詞と演者によって変幻自在に姿を変える可塑的な粘土みたいなものなのだろう。

〈立ち上げ〉のための媒体

 『インポッシブル・ギャグ』という戯曲は、このワークショップにおいて、〈立ち上げ〉のための媒体として機能していた。そして山本浩貴は、その〈立ち上げ〉の様相を観察し指摘する。つまり、見て、言う、ただそれだけだ。このふたつのごくシンプルなプロセス自体の可能性を探求しているともいえるだろうか。
 山本浩貴は『言語表現を酷使する(ための)レイアウト—―或るワークショップの記録 第一部――主観性の蠢きとその宿――』において、言語表現が作者の意図の伝達であるという階層的な関係を否定している。そして、「「私」というものを、外圧によって作り出され、外において発見されるようなもの」(012)としての〈主観性〉をセンテンスレベルで生み出す装置として言語表現を鋳なおしている。このワークショップでは、こうした〈主観性〉を、《客席(観る)‐舞台(演じる)》《自分‐共演者》《演者‐役》という3項のそれぞれの内部と、その3項同士の〈応答関係〉によって生成させようとする企みともいえると思う。演者と役との〈応答〉は、共演者との〈応答〉や観客との〈応答〉によって複雑に鋳なおされていく。そのことで、役も演者も共演者も観客も相互に触発され続ける、つまり、こうした多重的な〈応答関係〉自体が、「主観性の宿」となるのだ。
 この戯曲はどうやら完成を目指しているらしい。いつ完成するのかわからないけど、またワークショップがあれば参加してみたいし、もし完成したとしたら、こうしたわりと聞いたことのないプロセス(〈立ち上げ〉の観察)を経て完成した作品が、どんな感じになるのかめちゃくちゃ興味がある。ぜひ観てみたい。

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