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【キャリアの悩み】20代会社員が日本語教師になるまでの奮闘ストーリー

こんにちは。新米ママのみとです。

私は「日本語教師」という仕事をしています。国内の学校で留学生に日本語を教えたり、彼らの進路/キャリアのサポートをしてきました。たこの春に子どもが産まれ、現在は育休中です。

先日、前職(会社員時代)の上司と飲みに行く機会があって、日本語教師になろう奮闘していた日々を懐かしく思い返していました。

というわけで今回は、「20代会社員が日本語教師になるまでの奮闘ストーリー」を書こうと思います。


◾️会社員時代

大学卒業後、普通の会社員として働きはじめました。新しい環境で過ごすことはとても大変でしたが、少しずつ仕事を覚えて、仕事を任せてもらえるようになりました。元々は一般職(事務職)だでしたが、ある日上司に背中を押されて総合職に挑戦。無事に合格してからは、怒涛の日々。出張が増えて海外のお客さんについたり、新たにマーケティングチームを作ったり。どんどん新しいことに挑戦できる環境は、すごく刺激的でした。

しかし、ある頃から度重なる組織改変に振り回されはじめたのです。新しい組織のトップは「独裁政治」という感じで、若手と中堅は完全に疲弊し切っていました。名刺は1年間で5回変わりました。まずは一番近くにいた後輩が辞め、次に尊敬していた上司が辞めました。ショックでした。だんだん自分が何者なのか分からなくなっていきました。毎日残業も増えて、はじめは刺激的だったことも重荷になっていきました。部署はほとんど男性ばかりで目指す女性像もおらず、辛い日々が続きました。

◾️きっかけは、ポーランド人との出会い

当時、周りがおじさんだらけの職場だったので、若手は強制的に海外担当になっていました。ひどい英語力だった私は、観光のボランティアを始めることにしました。そこで出会ったのが、日本大好きポーランド人のK。3日間の観光は、今でも最高に楽しかった思い出です。彼は、母語と英語を話しましたが、日本語を勉強していました。日本語のテキストを常に持ち歩き、今は「日本語学校」を探しているという話でした。そこではじめて「日本語学校という場所で日本語を教える仕事にしている人がいる。」と知りました。そしてインターネットで日本語教師について調べはじめました。それが日本語教師という仕事との出会いでした。

◾️養成講座の営業マンに言われた言葉

日本語教師は、本業ではなく副業、趣味でもOKと知りました。会社を辞めるつもりはなかったのですが、とりあえず日本語教師を育てる学校に興味を持ちました。資料請求するとすぐに営業担当から電話が。気軽な気持ちで話を聞きに行ったのですが、「日本語教師として教壇に立つ自分を想像してください。どうですか?」と言われ、ワクワクが止まらなくなりました。
そして、私は仕事を続けながら、1年かけて養成講座に通うことに決意しました。

◾️仕事と「日本語教師養成講座」の両立

こうして、2018年の秋から養成講座がスタートしました。平日夜に3時間✖️2日、日曜の丸1日、時間を作ることにしました。残業は別の曜日に後回し、日曜日を1年間犠牲にするには覚悟が必要でした。でも日本語教師の自分を想像すると、頑張ろうと思えたのです。
私が通っていた教室は、大きな教室に人がぎゅうぎゅうに入っていました。男女問わず、いろんな年代や職業の人たちがいました。カレー屋の店主、元地方議員、主婦、定年退職後のおじいさん。その中でも同世代の存在は心強くて、仕事で辛いことがあっても、養成講座が心地よい居場所になっていました。

◾️キャリアチェンジへの迷い

なんとなく想像がついていたのですが、これだけ頑張っていると「本業にしようかな」という気持ちが芽生えてきました。迷った原因は、給与面とキャリアです。日本語教師はそんなに良い待遇ではないし、誰でも始められるということは、いつでもできるということ。趣味で始めようとも考えましたが、教壇に立つ自分を想像してしまっていました。そうして、会社を辞めようと決意しました。

◾️退職と人生の夏休み

養成講座に通い始めて1年3ヶ月。講座の修了とほぼ同時期に、会社を退職することにしました。「日本語教師になります」と上司に言ったときは目を丸くされましたが、「脱出おめでとう(笑)」と言ってくれました。
そして、無事に「日本語教育能力検定試験(日本語教師の民間試験)」の合格通知が届きました。ここから「人生の夏休みだ!」と思って、旅行をしながらゆっくり就職活動の準備をはじめることに。

◾️就職活動と「新型コロナウイルス」

勤めていたのが医療系の会社だったので、”看護師を目指す学習者に日本語を教える仕事” に興味を持ちました。インドネシアやフィリピンへ6ヶ月行って、現地の学生に日本語教えるというものです。

順調に選考を通過していた、2020年の2月頃。それはコロナ禍のスタート地点でした。「ダイヤモンド・プリンセス号」の新型コロナウイルスのニュースが世間を騒がせていました。「今海外に行くのは危ないかもしれない。」と思いました。

一方、それと並行して専門学校での面接を受けていました。土曜日も仕事があるのがネックでしたが、右も左もわからない状態だし、コロナで海外には行けそうにありません。そうして「1年間は修行だ!」と思ってここで頑張ると決めました。

◾️はじめて教壇に立った日

しかし、初出勤から数日後に学校はコロナで休校になりました。ニュースでは、コロナで職を失う人たちのニュースも流れ始めて、他人事ではなくなりました。授業がなかったので、教師たちは教案や副教材を作ったりしていました。未経験だった私にとって、結果的には良い時間稼ぎだったかもしれません。

それから3ヶ月後、はじめて教壇に立つ日がきました。かなり緊張しましたが、学生たちが温かく迎えてくれて、ホッとしたのを覚えています。自己紹介をしてもらったり、ゲームをしたりしました。とにかく楽しかったです。ずっと思い描いていた、夢がかなった日でした。

そして、なんだかんだと忙しい日々を過ごしながら、結果的に、4年以上経った今でもこの学校でお世話になっています!

ご縁とは、分からないものですね… (笑)


振り返っていたら、いろいろ思い出しまして
少し熱くなりました。
あの時の自分、よく頑張ってたと思う。

では、また!

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