個性という名の腫れ物扱い
「あなたらしいデザイン」「あなたらしい考え」「あなたらしい創造」などなど…唯一性を強調した個人の尊重は枚挙に暇がありません。抑圧された戦前の集団主義から戦後民主主義による個人の解放により、大半の地域では自由にものが言えるようになりました。戦前の思想が続いていれば、この記事すら書けないかもしれません。
自由というのは確かにいいものです。誰にも縛られず、自分が感じたものを率直に述べることができる。この点は過剰に抑圧する集団圧力よりはマシだと思います。しかし、
自分のエゴを抑えるストッパーが存在せず、欲望を抑制する思想を自ら見つけ、意識的に抑制させなければならない。
この自由に自己責任という概念がうまく噛み合うことにより、他者の困難を認識しながらも介入せず、一度落ちぶれたらそのまま奈落まで落ちるという弱肉強食の論理が主流となりました。
この責任は個人の尊重という真意の誤解により生み出された個人解放の最終地点であり、共同体の基本である相互扶助すらも麻痺させる力を孕んでいます。しかし、あくまでも真意の誤解であって個人を尊重するなというワケではありません。むしろなんでも発信できる社会思想は確かに必要です。
しかし、みっともないと形容される行動を個性だと喧伝し、もったいないを社会(の先の個人)の為だと切り捨て、刺激があれば全ての礼儀を脱いででも主張する。いつから裸の王様を崇拝する世の中が台頭したのでしょうか?
真意の誤解はこの箇所にあります。個人の尊重は迫害された人々や不自由な方々を自分たちと同じだと認識させる機会を与えましたし、また今までの[敵]を[相手]へと言葉を変化させるためにはうってつけの考えです。しかし、共同体維持の理念を撹乱させる無法地帯にしろとは言っていない。他者に支えられて生きている以上、主張するべきとそうでないところは明瞭に分けなければならない。それが見分けられないから仮に成功しても自分の実力だと酔いしれ、自分と他者を明確に隔てる単調な意識を持ち、人生の節目でみじめに落ちぶれていく無惨な姿をさらけ出す珍事を起こす羽目になります。
世の中を動かしているのは自分ではなく大勢の他者です。大勢の他者から受け入れられることで自分がいわゆる成功と呼ばれるものを手にするのです。自分が創造したとされる成功の礎も、裏を返せば他者の支えによって作られたものです。それを踏まえれば自分の力で成功したものなど一つもない。あるのは偶然成功を獲得する対象者が自分だった。それだけです。大勢の他者は自分に酔いしれ、有頂天にさせるために支持したわけではありません。
この傲慢さを抑制させるためのストッパー(インターネット等の批判以外の様々な伝達手段)が自由な社会では必須です。自由を無法地帯と同義にするのではなく、抑えるところは抑え、主張するべきところは主張する。弁えた個性こそが本当の個人を尊重した自由な社会であると私は思います。
そこが自由思想を掲げる条件として明確に区別されていればよかったのですが、社会は真の自由と無法地帯を混同して個人の尊重と捉えています。より明確に述べれば、個性と厚顔無恥を混同させているといえるでしょうか。
成功した同じ人間に個性といえる箇所と身勝手といえる箇所が混じっていたものを分離せず、そのままの個性として流用してしまい、この違いを明確にしなかったが故にみっともないが個性として罷り通る事態へ陥っていまった。もちろんみっともないと意見する人々もいますが、個人の自由という盾と、一定人数の民意という矛により、意見を呈する側が完全に打ち負かせるとは言えない状況です。
一定の民意となった以上、個性的な人に対して批判するするつもりは一切ありません。しかし、個人の尊重というのであれば、この埋もれた人間の戯言も個性として尊重いただけたらと存じます。