単純論 高純化人間への道①
単純論も未だ説明が足りない箇所があるが、一度単純論の全体像を把握させなければならないため、今回は中庸意識と完全な純化の間、[高純化人間]について述べてゆきたい。
視野が狭く、強烈な自分主義である高単調化人間と、自他の壁が薄く、見ず知らずの他者であっても同調するように和合する高純化人間(完全ではない)。どちらが集団にとって好ましいかは明白だろう。
高純化人間とは
中庸意識と完全な純化の間に位置する高純化思想を有した人間の事であり、自他の区別はありながらも周囲との垣根が存在しない思想を抱いている。人は誰であっても瞬間的には高純化思想に至れるが、それが見ず知らずの他者に向かって常に意識されている人間は少ない。例えば、思想は傲慢な人間でも、[親族][恋人]に対しては精一杯奉仕する行動を起こし、且つそれに対して見返りを求めなければ一時的な高純化思想とも言える。お礼等を求めようとするならばそれは単調化寄りの中庸意識であり高純化人間とは言えない。しかし、この傲慢な人間の奉仕する意識が見ず知らずの他者に向かい、その意識が継続されるなら高純化人間に該当する。これが再度傲慢な意識へと移れば単調化意識へと後戻りする。非常に流動性が高く維持が困難な意識である。
高純化人間へ至る道
高純化人間へ至る道は多岐にわたり、宗教に於ける教義や絶え間ない稽古による揺るぎない価値の発見、常態意識の突然変異により唐突に起こる自我の霧散などにより、自分に軸を置いた我欲を薄める機会があれば経緯は問わない。極論を言うと、[事件事故の遭遇][災害による壊滅的な被害][今までの自分の考えでは微塵も感じられなかった他者の存在][九死に一生][詐欺被害][情景からの悟り]まで、あらゆる箇所に高純化人間に至る重要なきっかけが備わっている。そして、これらの現象という原石から必要な財産を抽出し、意識に取り込む事で高純化意識への道標が誕生する。
抽出とあるように原石をそのまま飲み込む必要はない。高純化思想への叡智を自身に取り込むことができ、且つレールから大きく外れなければ、過程はどうあれ高純化人間へと至れるだろう。
それを希求する点で重要なのは、自分という軸を薄め、周囲と自己を和合することにある。
日常では[坐禅]や[祈り][技の稽古][壮観な景色][意識を変える音楽]、唐突に起こりうる現象では、[死を見つめた瞬間][衝撃を受けた出来事]、先人らが大地震、雷鳴と形容した大打撃は、ものの見事に自我の忘却、自我の急激な増幅からの消失を生じ、ただ目の前の意識に心血を注ぎ、等閑視を怠らせる。
この思想の特筆するべき点は、極めて単純でありながらその道は極めて難しいことにある。