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「優等生コンプレックス」
今でこそ自由気ままに振る舞っているので、成人してからの私しか知らない人にとっては信じられないかもしれないが、子どもの頃の私は純度100%の「優等生」だった。
優等生といっても冗談の通じない堅物、というわけではない。ただ、クラスメイトとふざけ合う時も野放図に羽目をはずすことはなく、どこかで教師の様子をうかがいながら、「ここまでは怒られないだろう」というラインをつねに見極めつつ安全圏をキープしているような子どもだった。
要するに、大人の顔色をうかがう能力に長けていた「ませガキ」だったのである。
言葉への強い興味関心も、優等生ぶりに拍車をかける要因のひとつだった。
夜、仕事が終わって気まぐれに2時間サスペンスなどを見ながら晩酌を楽しむのが父の日課になっていた。
テレビから流れる、「教科書には決して載っていない大人の日本語」は小学校低学年の私にとっては少々刺激的だったが、ボキャブラリーを充実させる役には立っていた。
小学校高学年ともなると洋画の字幕がある程度読めるようになっていたので、映画好きの父の晩酌に付き合って(もちろん酒は飲んでいない)海外のヒット映画を観ているうちに、視覚的にもボキャブラリーが増えていった。
古畑もはずせない。
その当時、『古畑任三郎』がちょうどヒットしており、我が家でもファーストシーズンからサードシーズンまでリアルタイムでチェックするのが当たり前になっていた。
最初のうちは父から「見せられている」感覚のほうが強かったものの、独特な世界観に次第にハマり、セカンドシーズンの頃には自分から父にせがんでチャンネルをまわしてもらっていた記憶がある。
ミステリードラマとしての『古畑任三郎』は当時の私にとっては複雑で難しすぎたが、古畑の変人ぶりやもったいぶった敬語がクセになり、自分でもひそかにマネしていたものだ。
学校でも教師相手に「お察しします」などとやっていたから、ずいぶん生意気だと思われていただろう。
今でも古畑や杉下右京、古美門研介のような「流れるように敬語を喋るキャラクター」が好きなのは、子どもの頃の影響なのかもしれない。
ちなみに現在でも、学生ボランティアとのLINEのやり取りは基本的に敬語である。
気を遣っているわけではなく、敬語のほうが楽で、安心できるのだ。
そんな「語彙力だけは一人前」の私だったから、作文は得意中の得意だった。
そのテーマにおいて暗に求められている「平均点」を見抜き、それよりも少し上を目指す。平均より下だと教師からの注意が待っているし、平均を大きく上回れば「あざとい子ども」だと思われてしまう。
嫌な言い方になるが、そのあたりのバランス感覚には自信があった。
中学生になっても、「優等生ぶり」は変わらない。さすがに、小学生の頃のように敬語を使うだけで褒められることはなくなったが、それでも、教師たちから「優等生」として見られている自覚はあった。
夏休みには県内の人権作文コンクールで金賞を受賞したから、文章を書くことに関してはよりいっそうの手ごたえを感じていた。
あざとく見られることもあるだろうが、「きちんとした日本語で喋り、文章をまとめることが自分のアイデンティティ」だと自負していたし、教師からもそうしたポジションを期待されているのだと思っていた。
しかし、私のなけなしのアイデンティティは、ほんのふとしたはずみであっけなく打ち砕かれたのである……。
その瞬間は、国語の授業でおとずれた。2年生から国語の受け持ちになったチトセ先生は30代後半のスレンダーな女性で、気さくな性格だったため生徒から慕われていた。
私にも目をかけてくれていたようで、作文や趣味で書いた小説を渡すと「○○君の文章はいつもまとまっていて読みやすいね!」などと毎回褒めてくれたので、チトセ先生の添削がいつしか楽しみになっていた。
「将来はきっと文章でお金を稼げるよ!」とも、チトセ先生は言ってくれた。
その日は、作文の授業だった。授業の冒頭で、チトセ先生は1編の作文を配った。
「これは、私の教師生活の中で一番心に残っている、忘れられない作文です」
チトセ先生がいつになく熱を込めて紹介したのは、体育祭の想い出を綴った作文だった。同じ中学の先輩や後輩ではなく過去の赴任校で受け持った生徒が書いたのだと、チトセ先生は説明した。
冒頭の数行を読んで、私は固まった。「衝撃を受ける」というのはまさにこのことなのかと思った。
決して、作文のうまさに打ちのめされたわけではない。
むしろ、その逆である。
ひと言で表すなら、下手だった。ボキャブラリーが少なく、何行にもわたって同じ語尾がつづいている。主語と述語がねじれているため、読み手がところどころ迷子になってしまうような文章だった。
「楽しかった」、「嬉しかった」、「痛かった」。
工夫のない繰り返しはただ単調で、読み手を飽きさせるだけだ。
お世辞にも、よくできた文章とは言えない。もっとはっきり言えば、「平均点以下」の作文……。
応援団長として太鼓を思いきり叩き後輩をリードしたことが想い出である、と書きたかったようだが、時系列が整理されておらず、擬音のタイミングも曖昧なため、どこを取っても読みにくい。
それでも、その作文は生きていた。読み手に対して何が何でも「体育祭を全力で楽しんだ」という思いを伝えようともがく、まっすぐな力を持っていた。
プロがテクニックの1つとして使う「ヘタウマ」とは違う、正真正銘の愚直さとひたむきさだけで、読み手にひたすら言葉をぶつけていた。
書き手はきっと、拙い語彙力と向き合い、乏しいボキャブラリーを必死にひねり出して、作文を書き上げたのだろう。
感情だけでがなり立てる素人のカラオケが時として聴き手の心を揺さぶるように、熱意と主観のみで綴られた「平均点以下」の作文は、確実に読み手の心に響いた。
だからこそ、何年もの時を経てチトセ先生はこの作文を、この書き手を紹介したのだ。
「私ね、この子が大好きなのよ。作文は全然まとまってなくて文章も下手だけど、だからこそ言葉の1つ1つが胸に響いてくるのよね」
私自身へのメッセージだと思った。
小手先のテクニックで満足するな、読み手をなめるなと、暗に叱られたような気がした。
チトセ先生にはそんなつもりなどなく、単なる想い出として紹介しただけなのかもしれないが、その作文との出逢いは私の「ものを書く」ことへのスタンスが変わるきっかけになった。
チトセ先生の予言通り、私はライターになった。プロである以上テクニックやある種の「企み」は必要だが、技術に溺れればあざといだけの文章になってしまう。
うまい言葉だけが人を感動させるわけではないことを、チトセ先生と「見えないライバル」は教えてくれた。