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「目には見えない、けれども限りなく大きな攻防」

その日も、いつものようにバスに乗った。雑誌を買うため、最寄り駅のコンビニまで行くつもりだった。

コンビニならシェアハウスのすぐ近くにもあるのだが、駅前のコンビニのほうが品ぞろえが良く、何となく店員が親切な気もするので、あえてバスに乗って出かけることにしているのである。

往復、約1時間。気晴らしの散歩にはちょうどいい。

特に問題もなく、バスに乗り込んだ。引っかかるところがあるとすれば、少しばかりクセのある運転手。

その運転手には見覚えがあった。以前にも対応してもらったのだが、ぶっきらぼうな態度と粗雑な言葉遣いが印象に残る、私にとっては「いわくつきの」運転手だった。

今日も今日で、スロープを用意する手つきが面倒くさそうだったような気もするが……。

まあ、それは思い過ごしだろう。

終点に着いた。他の乗客が降りるのを確認して、運転手はバスを降り、後部ドアのスロープを用意する。

ノンステップバスではないから、かなりの傾斜を下りなくてはならない。

私はスロープに対して背を向ける格好で、運転手が手を添えてくれるのを待った。

車椅子後ろの介助レバーに手を添え、タイヤの方向を軽く調整してもらわなければ、安心してバックで下りることはできない。

そしてそれは、運転手として当然の介助のはずだった。

だが、運転手は後部ドアの外側に突っ立ったまま、動く気配を見せない。

「いいよ」

ドアの外から、運転手は言った。

しかし、私は動けない。急なスロープをバックで下りるのは見た目以上に怖いし、後輪が左右にぶれるため、どうしても不安定になる。

私の場合、脳性麻痺による不随意運動が強く、少しでも怖いと思うと手が激しく震えてしまうため、余計に危険なのだ。

「何やってんの?」

相変わらずドアの外に立ったまま、ぶっきらぼうに運転手は言った。さっきよりも明らかに口調がきつくなっていた。

それでも、私は動かない。サポートなしで無理やりスロープを下って脱輪でも起こせば、取り返しのつかない事故になってしまう。

「早くしろよ」

苛立たしげに、運転手は言う。こちらの心情を汲み取ろうとする様子はない。

「乗る時はさっと行けたじゃんかよ!」

確かにそうだ。しかし、乗車の時は前向きでスロープを上ればいいから、サポートなしでもどうにかなる、というだけのことだった。

前進とバックでは、まるで話が違う。

「こっちは待ってんだよ……ちっ!」

しびれを切らしたように舌打ちをすると、運転手は粗雑な足音を立ててスロープを上り、車椅子の介助レバーをつかんだ。

前輪が左右に大きく揺れるほど、乱暴で強い力だった。

「ほら!」

運転手はそのままの力でレバーを後ろに引っ張った。転倒防止レバーのせいで車椅子がぐいっと後ろに傾き、ウイリーの格好になる。

明らかに危険な態勢なのだが、それでも運転手は力を緩めようとしない。

私は何とかスティックを操作して軌道を修正しつつ、スロープを下りることができた。

何はともあれ、サポートなしで無理やり下りるよりも安全だった……と思いたい。

「何だよ……!」

スロープを片づける間も、運転手は聞こえるか聞こえないかぐらいの声でぶつぶつと何かを呟いていた。

バスとしては、「乗客にむやみに触れてはならない」というルールがある。

言うまでもなく、無用のトラブルを避けるためだ。

運転手もプロフェッショナルとして、そのルールを意識していたのかもしれない。

しかし、その一方で、公共のサービスその他には「合理的配慮の遂行義務」が課せられている。

電動車椅子の乗客が安全に乗降できるよう、レバーに手を添えて誘導する……これは、れっきとした合理的配慮なのではないだろうか。

運転手を一方的に責めるつもりはない。私の知らない事情もあるだろう。

しかし、「合理的配慮」が明文化されてもなお、このような「見えない攻防」を繰り返さなくてはならないのかと思うと、新年早々、気が滅入るのである。

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